TITLE : 鴎外 闘う家長    鴎外 闘う家長   山崎 正和   目次 第一章  ㈵ ふたつの不安  ㈼ ある二十年  ㈽ 洋行帰りの保守主義者 第二章  ㈵ 生まれながらの「父」  ㈼ 闘う家長  ㈽ 勤勉なる傍観者  ㈿ 見る人・演じる人 第三章  ㈵ 愛情のような雰囲気  ㈼ 罰せられた人  ㈽ 「石見人」   あとがき   文庫版のためのあとがき 鴎外 闘う家長 第一章   ㈵ ふたつの不安  明治十七年八月二十四日の朝、二十三歳の鴎外・森林太郎は、フランス商船メンザレー号に乗って横浜港を旅立った。若い二等軍医は「独逸《ドイツ》学ハ勿論《もちろん》普通医学之儀ハ充分」の能力を認められて、これから四年間、「陸軍医務取調」のためドイツへ留学するのである。  昂揚《こうよう》した気持を、林太郎はその前日の日記に次のように書き記していた。  明治十七年八月二十三日。午後六時汽車は東京を発し、横浜に抵《いた》る。林家に投ず。此《こ》の行の命を受くること六月十七日に在りき。徳国《ドイツ》に赴いて衛生学を修め、兼《あは》せて陸軍医事を詢《たづ》ぬるなり。七月二十八日闕《けつ》に詣《まう》で天顔を拝し、宗廟《そうびよう》に辞別す。八月二十日陸軍省に至《いた》り封伝を領す。初めて余の大学を卒業するや、蚤《はや》くも航西の志あり。以為《おもへら》く今の医学は泰西より来たる。縦使《たとひ》その文を観《み》その音《おん》を諷《ふう》するとあれども、苟《いやし》くも親しくその境を履《ふ》むに非ざれば、則《すなは》ち郢書燕説《えいしよえんせつ》たるのみと。明治十四年に至り学士の称を叨辱《とうじよく》す。詩を賦《ふ》して曰《いは》く。「一笑名優質却孱、依然古態聳吟肩、観花僅覚真歓事、題塔誰誇最少年、唯識蘇生愧牛後、空教阿逖着鞭先、昂々未折雄飛志、夢駕長風万里船」。盖《けだ》し神《しん》は已《すで》に易北《エルベ》河畔《かはん》に飛びたり。未《いま》だ幾《いくばく》もなく軍医に任じ、軍医本部の僚属となる。躑躅鞅掌《てきちよくおうしよう》して、簿書案牘《ぼしよあんとく》の間《かん》に汨没《こつぼつ》すること此《ここ》に三年。而《しか》うして今〓《こ》の行あり。喜び毋《な》しとするを得べからざるなり。(「航西日記」原文漢文)  三年まえ、明治十四年に東京大学を卒業してから、彼は軍医本部でプロシア陸軍の衛生制度などを調べながら、もっぱらこの日を待って暮らして来た。これまでドイツ留学に派遣された三人の軍医の誰よりも若く、彼は身内に旺盛《おうせい》な好奇心と、「嘗《かつ》て挫折《ざせつ》したことのない」尽きせぬ力の蓄えを感じていた。その若い力に同じく若い明治国家は切実な期待を寄せていて、彼もまた、その期待をなまなましく身に触れて感じることができた。ほんのひと月たらずまえ、七月二十八日、彼は宮中に招かれて、明治天皇から親しく励ましの言葉を受けたばかりであった。それは尊大で余裕のある激励というよりは、むしろ国家がひとりの青年にかけた切ない依頼の言葉であった。小さな、無力な国家が彼を送り出して、「頼むよ」と、肩に手をかけているのが彼にはまざまざとわかったはずである。なぜなら、彼にはやはり小さく無力な家があって、祖母と母親と養子の父親が、この長男にいじらしい希望をつないでいたからである。  国家が再編成される激動期に、森家の属する津和野藩は小さく、藩主の亀井子爵ともども林太郎の一家は新しい首都の混沌《こんとん》のなかに投げこまれた。故郷の土から切り離されたとき、人間の帰属本能はいやがうえにも血統がつくる家のつながりに集中する。しかもこの一家は新しい社会秩序のなかで、自分が何者であるかをあらためて証明しなおさねばならない運命を担っていた。それはあたかも、明治国家が近代世界のなかで置かれた状況の縮図であって、林太郎はこのとき、重なりあうふたつの生存の意志を代表して旅立とうとしていたといえる。 水柵《すいさく》天明るうして警柝《けいたく》鳴る 渭城歌罷《いじよううたや》みて又〓《さかづき》を傾く 烟波浩蕩《えんぱこうとう》として心胸豁《ひろ》し 好《よ》し扁舟《へんしゆう》を放たむ万里の行 (「航西日記」)    時代の青年らしく、彼は船上で気負った漢詩に感慨を歌い、同行する九人の留学生とともに、たがいの専門および出身郷国を名のりあった。政治学者の穂積八束《やつか》は伊予の人であり、物理学者でのちに音楽の研究で知られる田中正平は淡路の国の人であった。石見《いわみ》の国から来た若い軍医と同じく、仕事と郷国のふたつは当時の青年の身許《みもと》証明にほかならず、それだけを聞くことで彼らはたがいにうちとけあうことができた。竹のデッキ・チェアに身を横たえて、身心ともに健康な林太郎の気持は子供のように満ちたりていたようである。遅い船足は遠州灘《なだ》の沖をすぎるのにほぼ半日を費し、遥《はる》かに富士の山頂を見おさめるころには、落日はたちまち夏の空を「芙蓉《ふよう》色」に染めあげて行った。 独り森《もり》生有りて閑《かん》にして無事 鼾息雷《かんそくいかづち》の若《ごと》く誰か敢へて呵《とが》めん 他年欧洲に遊んで已《すで》に遍《あまね》ければ 帰来の面目《めんぼく》果して如何《いかん》 (「航西日記」)    それから約五十日ののち、十月初旬に船はマルセイユに着くのだが、この航西の旅を通じて鴎外の心に迷いのあった形跡はない。この旅に先立って、というよりたぶんもの心ついたときから、彼には果すべき人生の課題と、それを果して行く能力に疑いを抱く必要がなかったからである。  もちろん、その自信はときおりあまりに大きすぎて、彼もあたえられた仕事にふとむなしさを感じることはあった。陸軍軍医本部の事務机で書類に埋もれてすでに三年、ようやく洋行の機会を得たと喜ぶ「航西日記」の一節はその鬱屈を洩らしている。この間、数千頁のドイツ文献を読破して、十箇月で「医政全書稿本」十二巻を編むという仕事をしながら、どこか満ちたりぬ気持を「朝顔日記」や「源氏物語」の歌の漢訳に晴らしたりしたという。  しかし、そうした淡い不満を抱きながらも、鴎外がこれらの仕事に達成感を覚え、それを通じて、明治国家の全体に確実に触れていると感じることができたのは疑いない。彼が学びとるドイツ陸軍の衛生制度は、ただちに明日の日本陸軍にとって必要不可欠な武器であった。じっさい、一軍医にすぎない彼の主張によって、のちに日本の兵食は洋風化しないということが決定された。たとえ目前の仕事が彼にはふさわしくないものに感じられても、なおその仕事が国家にとって有用のものであることは実感できた。この実感は文字通り肌身に触れる手ごたえであって、しかも鴎外は、それを家庭における自分への熱烈な期待を思い起すことで増幅することができた。  鴎外の「航西日記」のなかでとくに注目をひくのは、彼が陸軍医政の大先達、研海《けんかい》・林紀《はやしつな》(紀一郎)の事蹟《じせき》を熱烈に追憶していることであろう。林紀は鴎外がはじめて陸軍にはいった当時の軍医総監であり、個人的にも西周《にしあまね》を通じて遠い親族の関係にあった。明治の啓蒙家《けいもうか》として名だかい西周は鴎外の両親の従兄《いとこ》であったが、その西周が林紀の末弟を養子として迎えていたからである。九月十三日、マラッカ海峡を通過しつつあった林太郎は、遥かにスマトラ島を望んでその日の日記に次のように記している。  十三日。蘇門答臘《スマトラ》の海浜に沿つて進行。此の地は蘭人の領するところ、其《そ》の土人との戦《たたかひ》、猶未《なほいま》だ止《や》まずと聞くなり。往年蘭軍の閼珍《アツチエー》を攻むるや、我が林君紀《りんくんつな》は軍中に在りて、閼珍紀行の著有り。余曾《かつ》て之《これ》を読みて熟《くは》し。今此の境に対して其の人を想ふ。憮然《ぶぜん》として之を久しうす。  林紀はこの二年前、明治十五年に三度目の渡欧の途上パリで客死をとげていたが、明治六年には陸軍軍医監の身でオランダ軍に従軍し、スマトラ島の要衝アッチェー攻略の戦闘に加わっていたのである。ところが、植民地におけるオランダ軍の行動をつぶさに見て、彼はひそかに弱小国の悲哀と西洋の力の脅威を肝に銘じることになった。つまり、この従軍はひとりの日本人にたんなる軍医技術よりも、むしろ西洋にたいする敵愾心《てきがいしん》を植えつけたのだが、鴎外はかつてその憂国の報告文を読んで深く感銘するところがあったらしい。彼はさらに筆を進めてこの先達をたたえ、 「西人の手段は看《みと》りて既に透《あかる》し。条理井然として胸裏に存す。帰り来たるや図《と》を披《ひら》いて天子に奏す。」  と、書きつけている。みずから西洋観察の旅に立っている鴎外は、明らかに彼自身も、「西人の手段」を見てとってそれへの対抗策を「天子に奏」する立場に身を擬しているのである。 「此《これ》より屡辺陲《しばしばへんすい》に変を閲《けみ》し、君は遺策の世の聞く所となる無し。我来りて慷慨《こうがい》し遥に眦《まなじり》を決す。水煙茫々として夕〓《せきくん》を罩《こ》む。」  落日を包む茫々たる夕霧のなかに、まなじりを見開いて佇《たたず》んでいる鴎外の立場は単純明快である。やがて四年間のドイツ生活を通じて、一方ではヨーロッパ文化の醍醐味《だいごみ》にとっぷりと身を浸して行く鴎外であったが、その反面、彼はいつでもこの単純明快な出発点に立ちもどることができた。林紀から鴎外にいたる十年間は時間的にも短く、しかもその間の日本は西南戦役を頂点とする「辺陲の変」に忙殺されて来た。いいかえれば林紀の課題はいささかも果されぬままに、そっくり遺策となって鴎外自身の課題につながっていたといえる。この間に日本は国家としてまだ少しも大きくなっておらず、したがってそのなかで、「父」と「子」の世代の断絶は生まれていなかったのである。  これに較べて、その後約十五年たって渡欧した夏目漱石の場合を見ると、国家と個人の関係がすでに根本的に変わっていたことがはっきりとわかる。後年、作家生活にはいってからの漱石は、「洋行」まえの自分の暗い心境を次のように回顧している。  私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤独の人間のやうに立ち竦《すく》んでしまつたのです。さうして何処《どこ》からか一筋の日光が射して来ないか知らんといふ希望よりも、此方《こちら》から探照燈を用ひてたつた一条《ひとすぢ》で好いから先迄《まで》明らかに見たいといふ気がしました。所が不幸にして何方《どちら》の方角を眺めてもぼんやりしてゐるのです。ぼうつとしてゐるのです。恰《あたか》も嚢《ふくろ》の中に詰められて出る事の出来ない人のやうな気持がするのです。(「私の個人主義」)  明治三十三年、漱石は文部省留学生として英国へ旅立つのであるが、その心境は、メンザレー号上の鴎外とはまさに対蹠《たいせき》的な様相を示している。漱石にとって国家とは、すでに見通しのきかない霧の中の世界であり、個人の位置づけを見失わせる嚢中《のうちゆう》の暗闇にほかならなかった。そして、国家のなかに自己の明確な位置づけを持たないということは、明治の日本人にとって、外界のすべてを見渡す基本的な視点を持ち得ないことを意味していたように思われる。  私は其時留学を断わらうかと思ひました。それは私のやうなものが、何の目的も有《も》たずに、外国へ行つたからと云つて、別に国家の為《ため》に役に立つ訳もなからうと考へたからです。然るに文部省の内意を取次いで呉《く》れた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評価する必要はない、兎《と》も角も行つた方が好からうと云ふので、私も絶対に反抗する理由もないから、命令通り英国へ行きました。然し果せるかな何もする事がないのです。(同右)  一瞥《べつ》しただけでも、こうした出発点を持った留学生活が不幸なものになることは想像に難くない。事実、漱石の渡欧日記は最初から鬱々たる不機嫌に包まれており、それと同時に彼のまなざしは徹底的に内側に向かって鎖《とざ》されている。もちろん、そこには漱石と鴎外の健康上の違いも作用していて、鴎外が船の日光浴に「快言ふ可《べ》からず」などとうそぶいているのにたいして、漱石は乗船一日目から船酔いと下痢の苦痛にさいなまれるというような事情もあった。しかしその点を斟酌《しんしやく》するにしても、やはり漱石の観察眼には、外界への好奇心を駆動する重要な何かが欠けているという印象をいなめないのである。  昧爽《まいそう》、呉淞《ウースン》ニ着ス。濁流満目、左右一帯ノ青樹ヲ見ル。夢ニ入ル者ハ故郷ノ人、故郷ノ家。醒《さ》ムレバ西洋人ヲ見、蒼海《そうかい》ヲ見ル。境遇夢ト調和セザル〓《こと》多シ。(岩波版「漱石全集」第十三巻「日記」明治三十三年九月十三日、句読点・筆者)  愚園張園ヲ見ル。愚園頗《すこぶ》ル愚ナリ。支那人ノ轎、西洋人ノ車雑多ナリ。午後三時、小蒸〓《じようき》ニテ本船ニ帰ル。就寝。支那人ノ声、毛唐ノ声、荷ヲ揚ル音ニテ、喧騒窮《けんそうきはまり》ナシ。(同右、九月十四日)  午後四時頃、香港《ホンコン》着。九竜ト云フ処《ところ》ニ横着ニナル。(中略)十銭ヲ投ジテ香港ニ至リ、鶴屋ト云フ日本宿ニ至ル。汚穢《おわい》、居ル可《べか》ラズ。(同右、九月十九日)  今日、日曜ニテ二等室ノ宣教師ハ例ノ如ク歌ヲ唱ヒ、説教ス。上等ノ甲板ニモ独乙《ドイツ》人ガ喧嘩《けんか》ヲスル様ナ説教ヲシテ居ル。(同右、九月二十三日)  十二時頃、コロンボ着。黒奴夥多《かた》船中ニ入込来リ、口々ニ客ヲ引ク。頗ル煩《わづら》ハシ。(中略)馬車ヲ駆ツテ仏ノ寺ヲ見ル。砂利塔アリ。塔上ニ鏤《ちりば》メタルハmoonstoneナリト云フ。旧跡ト雖《いへど》モ年々手ヲ入ルヽガ為メ、毫《ごう》モ見ルニ足ル者ナシ。且、構造モ頗ル粗末ナリ。路上ノ土人花ヲ車中ニ投ジテ銭ヲ乞フ。且、Japan, Japanト叫ンデ銭ヲ求ム。甚ダ煩ハシ。仏ノ寺内、尤《もつと》モ烈シ。一少女、銭ハ入ラヌカラ是非此花ヲ取レト強乞シテ已《や》マズ。不得已《やむをえず》之ヲ取レバ、後ヨリ直グニ金ヲ呉レト逼《せま》ル。亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ。(同右、十月一日)  昨夜、Babelmandeb海峡ヲ過ギテ紅海ニ入ル。始メテ熱ヲ感ズ。此夜、上等室ニテballノ催アリ。御苦労千万の事ナリ。cabinニ入リ寝ニ就ク。熱名状スベカラズ。(同右、十月十日)  さながら見るもの聞くものに当り散らしているような感想の羅列であって、いったいなんのためにこんなものを見なくてはならないのかと、地だんだ踏む顔が見えるようである。譬喩《ひゆ》ではなしに彼は一種の「嚢の中」に閉じこめられており、何ものかが彼に積極的な姿勢で外界を見ることを許さないのである。そして、ここで記憶にとどめておくべきことは、こうした外界の見えにくさとまさに正比例して、漱石の内部では彼の強烈な好き嫌いが、いいかえれば狷介《けんかい》な「自分自身」が、しだいに盤根錯節の存在感をあらわしつつあるということであろう。  日記とは別に、漱石は洋行の船上でいくつかの英文の断想を書きとめているが、そのなかでも、彼の眼が頑固に自分の心象風景だけを見つめているさまは、まことに印象的というほかはない。  海はけだるく静かで、私は芯《しん》までだらけきってデッキの長椅子に横たわっている。頭上の鉛色の空は周囲の水の暗い広がりと同じように生気を欠き、あたかもたがいの鈍感さに共感しあうが如く、遥かな水平線を超えてそのけだるさを混りあわせている。それを凝視しながら、私はしだいに私をとり巻く生命のない静寂のなかでみずからを失い、自分自身を脱け出して黙想の翼に乗り、天上的でもなければ地上的でもなく、家も樹も鳥も人間もいない心象《ヴイジヨン》の世界へと運ばれて行くような気がする。その心象の世界は天国でもなく地獄でもなく、この世という名で呼ばれる人間存在のあの中間段階でもなく、それはむしろ空虚の世界であり、無限と永遠が存在の唯一性のなかに融合し、その広大さのゆえにいかなる描写もよせつけぬ無の世界である。(岩波版「漱石全集」第十三巻「断片」、抄訳・筆者)  目のまえには明らかにインド洋の空と海とがひろがっているはずなのだが、その風景はどのような細部の描写もあたえられず、ただ漠然と漱石の黒々とした内面の投影として眺められている。この漱石の内面の暗黒に注目して、それを実存的な深淵《しんえん》にまで追究しようとしたのが江藤淳氏の「夏目漱石」であった。そして江藤氏が指摘するように、やがてこの鎖された心こそ一転して積極的な文学的主体として結晶して行くのだが、ここでは、それはまだ漱石の不幸としてしか自覚されていない。そして、これと較べたときまさに印象的に、メンザレー号上の鴎外の心は、さしあたりいかにも幸福そうに、外界のさまざまな事物にむかって開かれているのである。 「十五日。風勁《つよ》シ。魚群ノ海面ヲ飛ブヲ見ル。碧《あを》キ脊白キ腹。長尺許《ばか》リ。」(「航西日記」)  同じインド洋上を眺めながら、鴎外の眼のはたらきを典型的に伝えるのはこのような文章であろう。「風勁シ」というのはもちろん天候を記録する日記の常套《じようとう》用語だが、ここではそれが、たんに一日の天候を概括する言葉にとどまっていない。風は終日強く吹いていたにちがいないが、鴎外はそれを、飛翔《ひしよう》する魚群をあおる一瞬の絵画的光景として眺めている。飛魚の鋭い跳躍を乗せるためには風は勁くなければならず、碧い脊と白い腹の鮮やかなコントラストが光るためにも風は勁くなければならない。いわばこの一瞬の鮮明な絵画に感動して、彼は明治十七年九月十五日という日を「風勁シ」のひと言にまとめたのにちがいない。  そこには鴎外と観察の対象が裸のままで向かいあっていて、しばしば漱石がつけ加えるあの心理状態の表白は排除されている。外界があまりによく見えるために些末《さまつ》な心理は印象を薄くするのであり、心理の重圧から逃れている結果、外界はますます正確に見えることになる。これは絵画的というよりむしろ俳句的な観察というべきだろうが、いずれにせよ、鴎外はこのような透明な外界の延長としてヨーロッパを発見するのである。 「独逸日記」の明治十八年五月十二日の記事は、滞独中の鴎外がいかにものを見たかを示す代表的な記録だといえる。この日、彼は汽車でライプチッヒを発ってドレスデンへ向かい、半日を車中に過し午後の半日を初めての町で過すのだが、この約千五百字の文章に籠《こ》められた行動と観察の分量は驚くべきものがある。  十二日。午前八時三十分ウユルツレルと共に〓車《きしや》に上りて、来責《ライプチツヒ》を発す。一村を過ぐ。菜花盛に開き、満地金を布《し》けり。忽《たちまち》にして瀰望皆雪なり。葢蕎花なり。ウユルツレルの曰く。石油の用漸《やうや》く広くなりしより、菜花の黄なるを見ること稀《まれ》なりと。路傍の細溝《さいこう》、水皆鉄を含む。メツケルンMeckernに至る前、褐色炭層を望む。又一村を過ぐ。林檎《りんご》花盛に開く。桜梨《おうり》の如きは皆已に落ち尽せり。ムルデMulde河を渡る。源をエルツゲビルゲErzgebirgeに発すと云ふ。民屋は多く葺《ふ》くに瓦を用ゐたり。藁《わら》を用ゐるものは稀なり。近ごろ令して藁屋は唯修復することを許し、新に営むことを許さずと云ふ。牧者の群羊を率ゐたるに遭ふ。図画中の物に似たり。オシヤツツOschatzを過ぐ。「ウラアネン」Ulanen兵の営舎あり。灌木《かんぼく》あり。菷《はうき》の如し。その屡《しばしば》苅《か》りて屡生ずるを以《もつ》て、僻村《へきそん》の民薪材《しんざい》に充《あ》つと云ふ。葢《けだ》し「スパチウス」Spatiusの類なり。  このあと十時十五分にはリーザという小駅に停まるのだが、この間、二時間弱の走行中にすでにこれだけの観察がなされている。やがて十二時にドレスデンに着いてロート教授を訪ね、次々と人に逢い、深夜まで町のあちこちを散歩したすえに、記録された植物名九、動物名十二、地名、町名、建物の名など十五、面会した人物の名は九名に登っている。厖大《ぼうだい》な数だが、それがまた鴎外の文章のなかでは適度のリズムを刻んで少しもわずらわしさを感じさせない。かえって新しい町を訪ねる多忙な一日が、軽い興奮と緊張をしのばせながらこのリズムに乗って浮かびあがって来るのである。  是《これ》より易北《エルベ》河の鉄橋を渡る。麦圃《ばくほ》の上に告天子多し。マイセンMeissenの城を望む。一工場あり。材木を集めて〓児《タール》に浸し、電線柱及鉄道線に用ゐると云ふ。  行李《こうり》を四季客館H冲el zu den vier Jahreszeitenに安頓《あんとん》し、正服を着し、ロオト氏の官宅を訪ふ。一室に延《ひ》かる。数個の机上図書を堆積《たいせき》せるを見る。余等をして皐比《こうひ》を掩《おほ》へる「ソフア」の上に坐せしむ。晤談半〓《ごだんはんしよう》にして、余等を伴ひて陸軍卿フアブリイスFabrice伯の署に至り、面謁せしむ。  客館に昼餐《ちゆうさん》し、ウユルツレルの姑の家を訪ふ。姑は五十許の婦人、性敏捷《びんしよう》にして、善く談ず。ウユルツレルの婦妹、年十五六、秀眉紅頬《しゆうびこうきよう》の可憐児《かれんじ》なり、〓〓《コオフイイ》を供せらる。ウユルツレルは行李を此家に安頓す。畢《をは》りて此家を辞し、レンネLenne街より左折し、街〓《がいえつ》Alleeに入る。遥に百合石《ゆりいし》山Liliensteinの天半に聳《そび》ゆるを望む。漸く進めば、喬木《きようぼく》枝を交ふる下、緑草茸々《じようじよう》たり。花園に入る。艸花《そうか》盛に開けり。大理石彫像多し。園の後に栗林《りつりん》あり。紅白の花を着く。野鳩多し。頸《くび》に白環あり。本邦の者に比すれば稍《やや》大なり。  さらに鴎外はカロラ湖のほとりを歩き、動物園を見物し、夕食を再びウユルツレルの妻の実家で御馳走になったうえ、夜は街の酒場へくり出して友人とサン・テミリオンの一瓶《びん》を開けたりする。  忙しい行動を追いかけて走る文章だが、視線の転換、遠近法のとり方など、引用の一節からも明らかなように巧妙をきわめている。こういう文章に接するたびに、あらためて、日本語が漢文脈とともになにを失ったかを考えこまざるを得ないのである。またそれと同時に思い出されるのは、ものは名づけられることによって人間の所有物となり、土地は命名されることによって文化のなかに組みこまれるという事実である。この文章のおびただしい名詞の量はその意味で偶然ではなく、鴎外はこうして見るもの聞くものに日本語の名前をつけ、それによって「西洋」を日本語の文化のなかに所有する作業を試みていたのだといえる。  公使のいはく衛生学を修むるは善し。されど帰りて直ちにこれを実施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟《はさ》みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。学問とは書を読むのみをいふにあらず。欧洲人の思想はいかに、その生活はいかに、その礼儀はいかに、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。(「独逸日記」) 「独逸日記」のなかでも広く知られている一節だが、ベルリン到着三日目に鴎外はときの青木周蔵公使からこの言葉を聞いている。そしてこれが「独逸日記」の冒頭に置かれていることは象徴的であって、洋行中の彼の克明な外界観察は、いわば明治国家のこうした励ましに支えられていたのである。  言葉つきこそいかめしいが、これは「足の指の間に、下駄の緒挟」んだいじらしい国家が、ひとりの若い才能に無条件の外国体験をゆだねている言葉である。さらにその背後には、「西人の手段」を見てとろうとして、半ばに倒れた多くの林紀の遺托《いたく》があったことはいうまでもない。まもなく明治国家は急速に大きくなり、個人と国家の関係も微妙に揺れ動くが、少なくとも鴎外にとってこの付托の言葉が根本的に撤回されるということは起らなかった。そして二十三歳の青年がこういう激励を背に受けているかぎり、少々の文化的異和感は彼を脅やかして孤独な自己凝視へ誘う動機とはなり得ないのである。日本を離れて十日目、香港の領事館で刺身や漬物のついた和食を御馳走になって、鴎外は「以テ十日洋饌《ようせん》ヲ喫セル口ヲ一洗スルニ足ル」と喜んでいる。健康で克己的な青年といえども、当時の文化的な距離から見て、ドイツでの日常生活がかなりの緊張を強いたことは想像にあまりがある。にもかかわらず、鴎外が驚くべき快活さでそれに適合を示し、彼を知るドイツ人に、あたかも自国人を見るようだと感歎《かんたん》させたことはよく知られている。それは、漱石が暗いロンドンの下宿から多く外出もせず、食事や生活習慣の一々に西洋人のしつこさを呪《のろ》っていたのとは、まさに対蹠的な姿勢であった。そこにはふたりの年齢、健康、性格の違いが働いたことはいうまでもないが、同時にそれらの条件に火をつける材料として、彼らの国家意識の大きなへだたりがあったことを否めないであろう。  いわば漱石は西洋にたいして感じる文化的異和感を、かねて彼が日本国内で感じて来た外界への異和感と二重映しにして受けとった。これにたいして、鴎外はそれを明治国家そのものが蒙《こうむ》った攻撃として受けとめて、虚弱な国家のまえにみずから立ちふさがる思いで耐えることができたのである。  くりかえしていうが、そのことがさしあたって若い森鴎外の幸福であったことは疑いの余地がない。医者や軍人としてはいうまでもなく、彼はこのとき潜在的な文学者としても幸福であったといえる。ものを見ることの意義がためらいなく信じられ、したがって外界のすべてがいきいきと見えるということは、作家の生涯にそうたびたびは恵まれない幸運だからである。「航西日記」と「独逸日記」が一篇の文学作品にまで高まっていたとすれば、それはまさにこの幸福な心の緊張そのものが生み出した文学であった。  けれどもこの幸福には、じつはその内部に皮肉で残酷な陥穽《かんせい》がしかけられていて、やがてそれはそのまま逆転して、鴎外の生涯を貫く本質的な不幸の原因となる。  現に四年間の留学生活も終りに近くなると、青年林太郎は身辺にしのび寄るある名状しがたい不安に気づき始めている。それが厳密にどのような種類の不幸であるか、彼が明らかな自覚に達するのはもちろんかなり後年のことである。だが、すでに「独逸日記」の末尾においても、それはまず自分の使命にたいする微妙な疑惑として予感され始めている。陸軍軍医部の上司にたいする憤懣《ふんまん》や、留学生活をともにする在独同胞に向けられた反感があからさまに記録され、日々の課業についてもしだいに事務的で冷たい記述が目につくようになる。おりから明治二十年の秋、偏見を抱いた上司に基礎医学研究の情熱をさえぎられ、無味乾燥な隊附軍医の実習を命じられるという事件が起ったりもした。鴎外は、それを命じた陰湿な軍医部首脳の意向にたいして、 「林太郎は唯命令を聞くのみ。意見を陳ず可きに非ず。謹みて諾す。」(「独逸日記」明治二十年十一月十四日)  と、反語的な答えを返し、そのことをみずから日記のなかに書き記している。だが、ここで注目すべきことは、彼がこうした変化にもかかわらず、なお外界へのまなざしを完全に閉ざしてはいないことであろう。反語的な口吻《こうふん》とはうらはらに、彼は命令に服して隊附軍医の実務を忠実に遂行している。のみならず、その間に書かれた「隊務日記」は、感情の昂揚《こうよう》をまったく欠除しながら、なお外界にたいする克明このうえない観察眼を示すのである。その冷徹正確な記録は或るニヒリスティックな気分すら感じさせるが、考えるとこの「隊務日記」の文体こそ、のちの鴎外の外界描写の基調音をかたちづくっているものだといえる。こういう文体で、やがて彼は日常の不幸な人間関係を観察し、つぎつぎに報じられる知人の訃報《ふほう》を記録して行った。ここで印象的なのは、彼が現実に初めて異和感を覚えたということではなく、それにもかかわらず、この異和感が彼の視線を内側へ転じる力として働かなかったという事実なのである。不機嫌を満面にあらわしながら、彼はそれでも、もぐりこむべき精神的な「嚢」を見出せないままに立っている。そして、そういう奇妙な自分のあり方を自覚して、この時期の鴎外はいわば二重のいらだちを覚えているように見えるのである。  このころ鴎外が感じ始めていた不安がどういうものであったか、少なくとも彼の現象的な実感については、後年の随筆や小説のなかに多くの証言が残されている。ある意味で、彼はこの不安の性質を生涯かけて追究し、それを手にとって見つめるためにあの旺盛《おうせい》な文学活動を展開したとさえいえる。もっとも、その真の意味と内容は、じつは鴎外自身にもすぐには捉《とら》えがたい奥行きを持っていたのだが、しかし一応、彼がその不安をどのように実感していたかは、例えば次のような作品の一節によって明らかであろう。  かくて三年《みとせ》ばかりは夢の如くにたちしが、時来《きた》れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自《みづか》ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥《おだやか》ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我《わが》身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳《そらん》じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。余は私《ひそか》に思ふやう、我《わが》母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶《な》ほ堪《た》ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。(「舞姫」)  周知のように「舞姫」は鴎外が最初に発表した小説であり、主人公の太田豊太郎はいろいろな面で作者自身と酷似した境遇をあたえられている。この述懐が青春期の鴎外そのひとの心境を吐露したものと見なされる理由であるが、同じ内容はさらにのちに次のような言葉となってくりかえされる。  一体《いつたい》日本人は生きるといふことを知つてゐるだらうか。小学校の門を潜《くぐ》つてからといふものは、一しよう懸命に此《この》学校時代を駆け抜けようとする。その先きには生活があると思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を為《な》し遂《と》げてしまはうとする。その先きには生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないのである。  現在は過去と未来との間に劃《かく》した一線である。此《この》線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。  そこで己《おれ》は何をしてゐる。(「青年」)  生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪《あくせく》してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上《しあ》げるのだと思つてゐる。其《その》目的は幾分か達せられるかも知れない。併《しか》し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策《むち》うたれ駆られてばかりいる為《た》めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸《ちよつと》舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目《めんぼく》を覗《のぞ》いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即《すなは》ち生だとは考へられない。背後《うしろ》にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒《さ》まさう醒まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。(「妄想《もうぞう》」)  それぞれに鴎外の内面を雄弁にもの語る文章として知られており、とりわけ最後の「妄想」の一節は、ほとんどの鴎外研究家が第一に注目する述懐である。  一見して目につくことは、この不安がなんらかの挫折や外部からの抑圧によってもたらされたものではないという事実であろう。無理解な上司の存在などは、この不安を自覚するきっかけにはなっても、それを根本的につくり出した原因としては意識されていない。むしろ彼は、人生をあの横浜出港の日からまっすぐに走って来て、そこに挫折も転倒も体験しなかったことに不安を感じている。そして、こういう鴎外を漱石と較べて見ると、印象深いのは、このふたりの不安がまさに正反対のかたちを示していることなのである。 「私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤独の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。」(「私の個人主義」)  そういって立ちすくむことのできた漱石にたいして、鴎外の場合にはなすべき仕事が過剰に明白なかたちであたえられていた。漱石にとって、日本人が英文学を研究することの異和感は始めから明らかであったが、鴎外にとっては、日本の近代医学を確立することも国防軍を建設することも、さしあたり疑問の余地なく有意義な課題であった。仕事の困難さからいっても、漱石が仕事を始めるまえにすでにたじろがざるを得なかったのにたいして、鴎外はむしろ、「日々の要求」をあまりにもやすやすと果して行ける自分に不安なのであった。逆説的ないい方だが、人生がそこにあるという確実な手ごたえを、不運な漱石は人生の生きにくさというかたちで朝夕に実感することができた。これにたいして不適合を知らぬ幸運な鴎外は、あたかも鋭利な刀が空を斬るように人生の存在感の稀薄《きはく》に苦しんだのだといえる。そして、この明白な不適合から出発した漱石は、やがて英国へ行って、それを裏返した明白な「自己本位」の立場に到達し得た。  私は斯《か》うした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又同様の不安を胸の底に畳んで遂に外国迄渡つたのであります。然し一旦外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるに極つてゐます。それで私は出来るだけ骨を折つて何かしやうと努力しました。然し何《ど》んな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。此嚢を突き破る錐《きり》は倫敦《ロンドン》中探して歩いても見付りさうになかつたのです。私は下宿の一間の中で考へました。詰らないと思ひました。いくら書物を読んでも腹の足《たし》にはならないのだと諦《あきら》めました。同時に何の為に書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなつて来ました。  此《この》時私は始めて文学とは何んなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途《みち》はないのだと悟つたのです。(「私の個人主義」)  そういって漱石が具体的にとり組んだ仕事は、西洋人の解釈に助けを借りない文学論の樹立という企てであったが、このとき彼がなしとげた成果は江藤淳氏もいう通り一冊の「文学論」という著述ではなかった。  私はそれから文藝に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるといふより新らしく建設する為に、文藝とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいふと、自己本位といふ四字を漸く考へて、其自己本位を実証する為に、科学的な研究やら哲学的の思索に耽《ふけ》り出したのです。(同右)  そうはいいながら漱石の述懐のなかで、この「自己本位」がどのような哲学的内容を持つものかは、まったく説明されていない。というより、そんなことは彼にとってどうでもよかったのであって、漱石の「自己本位」は立証を必要とする観念ではなく、なまなましく感じられてやまない生活上の実感だったのにちがいない。彼の言葉は、この自覚があたかも宗教上の回心のように行われたことを暗示している。  私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気慨が出ました。今迄茫然と自失してゐた私に、此所に立つて、この道から斯う行かなければならないと指図《さしづ》をして呉《く》れたものは実に此自我本位の四字なのであります。(同右)  自己本位といふ其時得た私の考は依然としてつゞいてゐます。否年を経るに従つて段々強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、其時確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念は、今日の私に非常の自信と安心を与へて呉れました。(同右)  これは漱石にとって、いわばカードのマイナス点を残らず集めて、それをプラスに転じるような発見だったといえる。ロンドンの暗い下宿で、町の風景にも書物の知識にも索漠たる思いを味わい、暗澹《あんたん》と閉じこめられているその異和感こそ、そのまま彼の自我の存在証明にほかならなかったからである。日本でも西洋でも適合異常の「嚢の中」に押しこめられていた人間が、その嚢の壁を逆手にとって、自己を外界にたいして確立する壁として使ったのだといえる。おそらくこういう「自己本位」の立場は、ほんらいの近代的自我の自覚とは異質のものであり、正確にはその「陰画」とでも呼ぶ方がよいようなものであるにちがいない。江藤淳氏の「夏目漱石」によれば、それは具体的に「我執」と呼ばれるべきである。なぜなら西洋の近代思想のなかに定着された自我の観念は、むしろ現実にたいする根本的な適合性の確信のうえに立って、外界を支配するべく無限に開かれて行く存在を意味しているからである。「確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念」は、西洋ではいうまでもなく、自己を唯一の神になぞらえることによって形成された。そして少なくとも前世紀までの西洋人にとって、神の実在は幼少のときから養われた生活上の実感であり、したがって、それに向かい立つことによって自覚される自我もまた、たんに観念的な知識の対象ではなかったはずである。それは、「嚢の中」に閉じこめられることでかたちをあたえられる何かではなくて、逆に外界が無限に開かれていることに誘われて、みずからを内側からかたちづくって行く何ものかであるはずであった。  漱石の「自己」が実質を伴った近代的自我でない以上、その表現が「著作的事業としては、失敗に終」ったのは当然であった。しかし、それにもかかわらずここで注目すべきことは、彼の「自己本位」がたとえ陰画であるにもせよ、ともかくもほんらいの近代的自我とかたちのうえでの類似性を持っていたということであろう。少なくとも、そこには自己を外界から区切りとる明確な壁があり、その実在を彼は痛みや痒《かゆ》みと同じ性質の実感として感じることができた。「確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念」は、その哲学的内容はさておいて、漱石にとって近代的自我の自覚と同じ感情的なはたらきを持ったと推察される。  そして、この感情を原点に持つことによって、漱石は、日本独特の「近代文学」に向かう幸運な出発点を持つことができたといえる。文学といえば漢文学のことだと考えていた彼にとって、この実感は、西洋文学の理念を感情の次元で理解するために決定的な助けになったと考えられる。自我は「我執」に置きかえられ近代的な愛は「妄執」に置きかえられ、孤独は一種の遁世《とんせい》に置きかえられたとしても、とにかく漱石はいくつかの日本的な「成長小説《ピルドウンクス・ロマン》」を書きあげることに成功した。いわばこの置きかえが成立する足場として——いいかえれば成長して行く主人公のモデルとして、彼は自己の内部に変らない存在の核を実感することができたのである。  こうした漱石にたいして鴎外の不安がどのような性質のものであったか、これだけの比較においてもすでにおよその推測は難しくない。さしあたり明治国家との関係において、したがって、日々に果すべき仕事との関係において、鴎外はあの「自我の陰画」を実感する第一の手がかりを欠いていた。しかもこのふたりの文学者を較べて見た場合、近代日本の青春としてより特殊で、孤独であったのは疑いなく鴎外の方だといえる。たとえば、さらにもうひとりの洋行作家・永井荷風の青春を思い出してみれば、この奇妙な不安の内容はひときわ明らかになるはずである。   ㈼ ある二十年  鴎外と同じ明治十七年に、禾原《かげん》・永井久一郎が欧洲視察の旅に立っているのは、なにか象徴的な暗合を思わせる。それからちょうど二十年後に、久一郎の長男、荷風・永井壮吉がアメリカへ向って旅立つのであるが、この二十年をはさんで、ふたつの留学はじつに極端なまでの対照を示すからである。  文学史的には漱石よりも先輩であり、また、のちに鴎外に近づいて庇護《ひご》を蒙《こうむ》った荷風であるが、国家からの距離という点では、彼は漱石よりもはるかに遠い場所に立っていた。鴎外と漱石の留学が国費によって行われたのにたいし、荷風の渡米は私費留学であり、なによりもその目的が純粋に私的な逃避行に近かった。漱石が国家のために役立ちたいと願い、そのうえで何をなすべきかに思い悩んだのとはちがって、荷風にはむしろ国家にたいする嫌悪の感情さえうかがわれる。「花火」という小品に托《たく》して、彼は自分の国家意識の履歴を語っているが、注目を惹《ひ》くのは、その嫌悪感の背後には国家にたいする完全な安心にもとづく無関心があることであろう。  明治三十七年日露の開戦を知つたのは米国タコマに居た時である。わたしは号外を手にした時無論非常に感激した。然しそれは甚《はなはだ》幸福なる感激であつた。私は元寇《げんこう》の時のやうに外敵が故郷の野を荒し同胞を屠《ほふ》りに来るものとは思はなかつた。万々一非常に不幸な場合になつたとしても近世文明の精神と世界国際の関係とは独り一国をして斯《かく》の如き悲境に立至らしめる事はあるまいと云ふやうな気がした。基督《キリスト》教の信仰と羅馬《ローマ》以降の法律の精神にはまだ〓〓憑拠《ひようきよ》するに足るべき力があるもののやうに思ひなしてゐたのだ。(中略)ましてや報道は悉《ことごと》く勝利である。戦捷《せんしよう》の余栄はわたしの身を長く安らかに異郷の天地に遊ばせてくれたので、わたしは三十八年の真夏東京市の市民がいかにして市内の警察署と基督教の教会を焼いたか、又巡査がいかにして市民を斬つたか其等《それら》の事は全く知らずに年を過した。(「花火」)  じっさい荷風の「西遊日誌抄」を読んでも、彼があの国運を賭《か》けた大戦争に注意を向けた記録は二箇所しかない。三十七年二月九日の項に、「新聞紙日露戦争開始の電報と共に旅順《りよじゆん》港外に於《お》ける露艦沈没の記事を掲ぐ」とあり、三十八年一月二日の項にただ一行、「旅順口陥落の報あり」と記されているばかりである。故国から来る新聞や雑誌にも目を通しているが、戦況や戦時下の同胞の暮しについては関心がない。逆に目立つのはたとえば斎藤緑雨の訃報《ふほう》を記して、 「あゝ江戸狭斜の情趣を喜び味ひたるものは遂に二十世紀社会の生存競争には堪へ得ざるものなる歟《か》」  というような感想である。フランスに憧《あこが》れ、その渡航費を求めてワシントンの日本公使館に職を得たものの、この日本外交の要衝にありながら、そこで起りつつあるドラマにいささかの興味もない。フランス留学を許可してくれない父親の手紙に絶望しては、若い荷風は、知りあった白人娼婦と「淫楽の中に一身の破滅を冀《こひねが》ふ」生活を続けている。  そして、荷風のこのような反国家的な感情は、具体的には彼の強力な父親にたいする感情と重なって増幅されているのである。プリンストン大学に学んで文部官僚として活躍し、のちに日本郵船株式会社の要職についた永井禾原は、荷風にとって完全な保護者であった。みずから漢詩をよくしハイカラ趣味を好んだ父親は、息子の文学にたいしても全面的に無理解であったわけではない。荷風は父親の厳格さをくりかえし愚痴ってはいるが、結局のところ彼のアメリカ留学も、さらにはフランス留学すら実現させたのはこの父親であった。荷風自身この現実を苦々しく自覚しており、禾原の死後、「縦虫《さなだむし》」と題して自分を父親の肉に巣喰う寄生虫になぞらえた戯詩を書いている。  力強く、自信に満ちた父親は成長した明治国家の象徴にほかならず、彼はもはや息子を愛しはしても、それに依存する態度を示すことはなかった。かつて息子の寄宿舎を訪ねて方言まる出しの説教をし、息子の友人に「来《き》んされえ」と仇名《あだな》された鴎外の時代の父親と、彼は違う。荷風の父親は十畳の間にストーヴを置いて、ときにはスモーキング・ジャケットに太いパイプをくゆらせて読書をしていたりするのである。二十年のあいだに、国家そのものが足の指から「下駄の緒」をはずしたのであって、息子たちにいかめしい激励はしても、もう彼らの肩に「頼むよ」といって手をかけたりはしない。それどころかあの大戦争の最中に、ひとりの有能な青年を海外で淫楽の巷《ちまた》に遊ばせる余裕さえ示したのである。一方、それらの親たち自身は青年の目のまえに、かつて国家に依存され、国家に身をもって触れたことのある輝かしい経験を誇示していた。青年が実感として国家に触れることはすでにできなくなっているのに、時代の価値観はまだ国家に触れることを最高の達成として認めていた。少しでも才能の自負があって感じやすい青年が、こういう時代に一種の見捨てられた焦燥を感じるのは当然であろう。まして荷風は、鴎外とはちがって多病な青春を送り、同じく病弱な漱石とさえちがって、人生の最初の関門たる第一高等学校の入学試験に落第した。  あはれや此《こ》の世の中に私の余命を支へて呉《く》れる職業は一つもない。私は寧《いつ》そ巷にさまよつて車でも引かうか。いや、私は余りに責任を重《おもん》じてゐる。客を載せて走る間、私は果して完全に其《そ》の職責を尽す事が出来るだらうか。下男となつて飯を焚《た》かうか。無数の米粒の中に、もしや見えざる石の片《かけ》が混つてゐて、主人が胃を破り其《その》生命を危くするやうな事がありはせまいか。人間若《も》し正確細微の意識を有する限りは、如何《いか》なる賤《いや》しい職業をも自ら進んで為《な》し得べきものではない。其れには是非とも餓ゑて凍《こご》えて正確な意識の魔酔が必要である、自我の利欲に目の眩《くら》む必要がある。少くとも古来より聖賢の教へた道を蔑《ないがしろ》にする必要がある。生活難を謳《うた》へる人よ。私は諸君が羨《うらやま》しい。(「監獄署の裏」)  明治四十一年に書かれたこの短篇には、西洋から帰った荷風そのひとの実感が語られていると見ることができる。いくつかの可能な職業の選択を考慮したのち、彼は青年らしい甘えを籠《こ》めてこの極度に潔癖な結論に到達した。教師もジャーナリストも藝術家も、いずれも彼には職業としていささかの欺瞞《ぎまん》を含んでいるか、あるいは明治国家の要求に根本的に背馳《はいち》するものに見えるからである。その結果、彼は完全な無用者・無能力者として生きることを決意するのだが、しかしここに告白されているのが、逆に有意義な行動への切実な憧れであることはいうまでもない。明らかに荷風はここで詭弁《きべん》を弄《ろう》しているのであり、人間の仕事が完全性を欠き有効性に疑いがあることを口実に、なにもしない自分を弁護しようと試みている。だが、それを裏返せばこれは誠実きわまる告白でもあるのであって、有効性と完璧《かんぺき》性によって外から励まされないかぎり、彼にはおよそ行動へ踏み出す内発的な衝動が感じられないと訴えているのである。  この有効性を保証してくれる最大の力は明治国家であろうが、もちろん彼にはその呼び声は聞こえて来ない。第二に彼を行動へと駆り立ててくれるのは生活上の必要なのだが、これもまた力強い父のおかげで彼には実感がなかった。有効性の呼び声はどこからも聞こえて来ないのだが、ここで注目を惹くのは、荷風がこの空虚な沈黙のなかで、突然ネガティヴなかたちで一種の自我の覚醒《かくせい》に到達することであろう。かつて漱石もまた自己の社会的有効性を疑うところから出発し、その疑いをきっかけとして「自己本位」の発見にいたったのだが、荷風は同じ疑いをただ一直線に、しかし極端なまでに延長して行くことになった。荷風にとって自己の醒《さ》めた「意識」とは、いっさいの社会的な行動にブレーキをかける存在として自覚されたのである。こういう自覚に到達するまで、明治人たる荷風に漱石と同じ懊悩《おうのう》があったことはいうまでもない。セーヌ河の夕暮の水を眺めているときにも、恋人との接吻に酔っているときにも、彼の心をふさいでいたものは「日本に帰つたらどうして暮さうかといふ問題」であった。そうしてその結論がつかないままに、彼は「濃霧の海上に漂ふ船のやうに何一つ前途の方針、将来の計画もなしに、低い平《ひらた》い板屋根と怪物のやうに屈曲《ひねく》れた真黒な松の木が立つて居る神戸の港」(「監獄署の裏」)へ着いたのである。  明治の日本人にとって、なにかを「する」ということの手応えがいかに大きく、したがって、なにかをしなければならぬという脅迫感が、いかに大きかったかは現代の青年にはわからない。とくに、第二次大戦の戦後世代は、目のまえになにごとかをなしとげた誇らしげな両親を持っておらず、しかも自分自身、多かれ少なかれ荷風の羨む「生活難を謳へる人」だったからである。これを裏返せば荷風の時代に、なにをしてよいかわからず、あるいはなにごともなし得ないという焦燥は、われわれの想像を絶した痛切な手応えをおびていたにちがいない。深い「魔酔」がさめると自覚もまた極端に鋭くなるものであって、こういう場合、思わざる自己の真相がにわかに鮮明に浮かびあがって来ることがある。そのとき荷風が意外にも発見した自己の姿が、なにひとつ行動にたいする内発的な衝動を持たない自己なのであった。  しかし、この述懐を、ひとりの無能な青年のひねくれや、自暴自棄と受けとるのは皮相というより傲慢《ごうまん》であろう。正直に反省すれば現代の日本人も、社会的な有効性と生活の必要をぬきにして、なおかつ絶対的な自分の仕事というものを持っているかどうかは疑わしい。ファウスト的な無条件の自我拡張の伝統を持たない日本人にとって、仕事への衝動はつねに生活の必要と他人との関《かかわ》りによって励まされて来た。キリスト教的な使命感という絶大な「魔酔」を体験しなかった人間は、いっさいの行動に際して、「自我」という神のつくる使命感にもまた醒《さ》めやすいのだといってもよい。もともと個人の生命を超える「永生」の象徴として、日本人は神よりも、家や郷土や国家といった目に見える生の連続体を信じて来た。したがって、若い荷風が自己の行動を確信するために社会的・国家的な有効性を求めたとしても、それは日本人の場合ただの右顧左眄《うこさべん》ではなくて、むしろそのことが、永続する生命に帰ろうとする聖なる要求のあらわれだというべきだろう。  だが、明治国家は青年のこの要求をいささか人工的に鼓舞したうえで、荷風のような才能の何人かにたいしてその要求を拒絶してしまった。締め出された荷風は自分の内部に暗い空洞を見出し、それをそっくり「近代的自我」の陰画として定着したのである。そこにはまず、彼が偽りなく感じ得る内面の手応えがあり、そのうえ、他方に教養として身につけた西洋的「自我」の観念があった。ふたつはたちまち重なりあって、荷風にひとつの快い錯覚をあたえたといえる。  荷風は漱石とは対蹠的に西洋社会に快活な適合ぶりを見せているが、その適合は鴎外の場合とはちがって、完全に実体を欠いた「芝居」であった。にもかかわらず、アメリカでの生活は彼に偽せの孤独と偽せの経済的困難をあたえ、荷風はそのフィクションのなかで前後を忘れて生きることができた。これこそまさに「正確な意識の魔酔」状態にほかならないのだが、彼はこの皮肉な現実に気づいていない。  外国ですと身体《からだ》に故障のない限りは決して飢ゑると云ふ恐れが有りません。料理屋の給仕人でも商店の売児《うりこ》でも、新聞の広告をたよりに名誉を捨鉢の身の上は、何でも出来ます。「紳士」と云ふ偽善の体面を持たぬ方が、第一に世を欺くと云ふ心に疚《やま》しい事がなく、社会の真相を覗《うかが》ひ、人生の誠の涙に触れる機会も亦《また》多い。(「監獄署の裏」)  これはいうまでもなく「社会の真相」でもなく「人生の誠」でもなく、彼が本来の生活の共同体から逃げ出していたということにほかならない。しかし、そこで生きた手応えは、彼に真の近代的自我を生きたような錯覚をあたえ、やがてこの鮮やかな記憶は、帰国後の空虚感をそのままひとつの自我の陰画にまで高めるのに役立った。彼はそれを梃子《てこ》として自分をますます狷介《けんかい》にふるまわせ、趣味的な判断をますます鋭利にし、それによって彼の文学を「近代」文学のアナロジーとして成立させる足場を築くことになった。  六月九日(土曜日) 新緑愛すべし。人なき公園の樹下に坐し携へたるモオパサンの詩集を読みて半日を過しぬ。夕陽のかげ、新緑の梢《こずゑ》にやう〓〓薄くなり行く頃あたりの木立には栗鼠《りす》の鳴き叫ぶ声物淋しく、黄昏《たそがれ》の空の色と浮雲の影を宿せる広き池の水には白鳥の姿夢の如くに浮び出せり。何等《なんら》詩中の光景ぞや。余は頭髪を乱し物に倦《う》みつかれしやうなる詩人的風采《ふうさい》をなし野草の上に臥《が》して樹間に仏蘭西《フランス》の詩集よむ時ほど幸福なる事なし。笑ふものは笑へ余は独り幸福なるを。(一九〇六年)  七月八日 イデス已《すで》に紐育《ニユーヨーク》に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつゝありと云ふ。(中略)ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて三鞭酒《シヤンパン》を傾け酔歩蹣跚《まんさん》腕をくみて燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。彼《か》の女はこの年の秋かおそくもこの年の冬には紐育に引移りて静なる裏通に小奇麗なる貸間《フラツト》を借り余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかず〓〓語り出でゝやまず。余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉しさ忝《かた》じけなさ涙こぼるゝばかりなれど、それと共に又やがて来《きた》るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては寧《むし》ろ今の中に断然去るに如《し》かじとさま〓〓思ひ悩みて眠るべくもあらず。(中略)余は妖艶《ようえん》なる神女の愛に飽きて歓楽の洞窟《どうくつ》を去らんとするかのタンホイゼルが悲しみを思ひ浮べ、悄然《しようぜん》として彼の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし。(一九〇六年)  二月十日 叔父大嶋久満次官命を帯び欧米視察の途次紐育に来る。旅館に赴き安否を問ふ。所謂《いはゆる》浮世の義理已《や》むを得ざればなり。余は遠く故国の伝説道徳習慣あらゆるものより隔離して天涯千里の異域に放浪孤独の悲愁を愛する身なり。突然故園の消息に接して為《た》めにこの云ひがたき悲愁の夢を破られん事を恐れ談話もそこ〓〓に逃ぐるが如く旅館を去る。(一九〇七年) 「西遊日誌抄」のこうした記述は、おそらく鴎外の「独逸日記」と同じ次元で比較すべきものではないであろう。どちらも公開を前提あるいは予期した日記であるが、荷風は意識的に自分を劇中の人物として演技させ、日記そのものをひとつの「芝居」として作りあげている。鴎外にくらべて荷風の眼がものを直接に見ることをせず、西洋文学から学んだ詩的イメージの復習に終っていることも、この際問うべきではないのかもしれない。しかしそれにしても、自分をここまで徹底的にドラマタイズして飽かない精神は、かえって自我の根底に深い不信と頼りなさを感じていたことを推察させるのである。  この虚構の舞台から降りたが最後、彼は頽廃《たいはい》生活から父親への叛逆《はんぎやく》をも含めて、ほんとうにしたいことはなにひとつない自己に直面しなければならない。いっさいが相対的に見えて、「悲愁の夢」も美的頽廃も、ただの生理的快楽に堕してしまう。イデスとの恋を含めて、荷風は生涯、近代的「愛」を知らない人間であったが、それもまた過剰な情欲のせいではなく、ひとつの愛を結晶させる一元的な主体を内に欠いていたからにほかならない。そのことをなかば自覚していた荷風は現実生活者としても不安であり、とくに文学者としては、一元的な表現を支えるために虚構の自我をいやがうえにも演じるほかはなかったのである。  明治最盛期の二十年の意味は大きかった。二十六歳の荷風がイデスとの愛の夢にふけっていたころ、三十九歳の漱石は処女作「吾輩は猫である」を書きついでおり、四十四歳の鴎外は第二軍軍医部長として奉天《ほうてん》郊外に圧倒的なロシア軍と対峙《たいじ》していた。  この二十年が、成長する明治国家にとっていかに大きかったかは、手もとにあるどんな簡単な年表を見ても明らかだろう。  鴎外が渡欧するちょうど前の年、すなわち明治十六年七月に文明開化の記念碑ともいうべき鹿鳴館《ろくめいかん》が落成した。そして、このいささか滑稽な記念碑に象徴される不平等条約改正の悲願は、やがて苦渋にみちた曲折のすえに、明治二十七年七月の日英新条約となって実を結ぶ。いうまでもなくこれはまた日清《につしん》開戦の年でもあるが、いわばこの「条約改正」のための十年がここで問題にする二十年の前半にあたる。まさにこの間に、日本は近代国家として必要な最低限度の基礎を整え、その結果、それをつくった国民個人にとって大きな意味の転換を見せることになる。たとえば明治二十一年には、条約改正の雛型《ひながた》ともいうべき「日本・メキシコ通商航海条約」が調印され、あくる二十二年にはついに欽定《きんてい》憲法が制定される。さらに二十三年には教育勅語の発布があり、同年十一月には最初の国会が開設された。ちなみに「君が代」が国歌として制定され、祝祭日の国民唱歌が選ばれたのは明治二十六年の八月である。  わずか十年の短時日に、めじろ押しに起った事件の重大さは息をのむばかりである。民法・商法の体系が整えられたのもこの時期なら、東海道線が全通し、上野・青森間の日本鉄道が開通したのもこの時期であった。東京の町に電燈が普及し、綿紡や織機の国産・輸出体制が確立したのもこの十年間であった。これは明治政府にとっては、ある意味で維新以来の苦闘の収穫期であり、政治的にもいわば相対的な安定期であったといえる。政府を悩ませた自由民権運動はなお根強く続いていたが、明治十四年には国会開設を十年後に約束する詔勅が出され、これが過激な叛乱をより日常的な政治運動に変えていた。明治十六年の板垣退助の洋行と、その結果として起った自由党の解散は、こうした政治的沈静を示す象徴的なできごとであった。  さらに注目に値いするのは、広い意味での日本の技術的自立であって、このことは明治初年の外人顧問の数の変化によって端的に知ることができる。工部省のみを例にとっても、明治七年には二百九十人を数えた外人技師が、早くも明治十八年には僅か二十八人に減っている。ほかの分野においても事態はもちろん同様であって、まさに彼らのあとを襲うかたちで、鴎外そのひとを含む多くの新時代の知識人が生まれたのである。これらの知識人はしたがって、文字通り近代日本を外国人の手から引きついだ一代目であって、このあと日清戦争までの十年間を、彼らが生成期の国家に身をもって触れる思いで過したのも当然であろう。近代技術を身につけた青年は個人として、世界のなかで生きられるが、彼らの国家はまだ当時の国際状況を生きのびられるかどうかわからなかった。国家は世界のなかでは彼ら個人よりも或る意味で小さく、彼らは世界を向こうにまわして、ときに国家の「子」であるよりも「父」であらねばならなかった。  しかし、この稀有《けう》な状況はこれに続く次の十年間に、すなわち明治三十七年ごろまでにふたたび急激に変って行くことになる。近代国家として一応の力と体制を整備した日本は、大きくなるとともに、荷風の時代の青年にとってにわかに観念的な存在に変質して行った。国家は世界のなかで大きくなり、それと同時に、青年にとっては国家そのものがいわば「世界」となった。国家と若い知識人の蜜月《みつげつ》時代は、ひと続きの二十年のあいだに異様に燃えあがって、さらにそれを裏返した劇的な早さで冷えたといえる。  ところで、国家が世界のなかで相対的に小さく見えるとき、それに属する国民は、自分が何者であるかという疑念を知らないですむ。この場合、国家というのは政治体制としての国家であるが、それが小さく見えるということは、とりもなおさずその向うに茫漠たる国際世界が実感できるということにほかならない。その場合、世界は容赦なく多数であり異質であって、そのなかで個人は自国以外のどの部分に適合することも容易ではない。そのなかに裸身をさらして立つことの恐しさを体験すれば、当然、青年は体制を問わず自国にたいする帰属感をいやがうえにも強めることになる。しかも同時に、個人はあたかも小さな結社のような国家に参与するのだから、このなかでは自分の位置と役割を比較的明瞭に感じとることができるのである。  さらにこうした帰属感情を実質的に裏づける基盤として、政治的に小さな国家は、その深層に政治とは異質の原理の働く土壌をより多く残している。それは人間の公生活にたいしていわば私生活の領域であり、政治にたいして広義の文化の領域と呼ぶべきものである。人工的な体制にたいしてこれは人間の自然に属する領域であるが、この部分が小さな国家においては比較的、体制のなかへ動員されないままに残るのである。のみならず、国際的な外圧がまざまざと実感されるとき、言語から風俗までを含む伝統の総体はしばしば異様に鋭く自覚される。政治的なレヴェルでは国家に寄与するにせよ叛逆するにせよ、この文化伝統の層において、個人は自分の国民的な身分証明を確認することができるのである。  いったい政治体制としての国家は、どんな国でもひとつのスローガンのもとに意識的に作られる人工物である。明治国家にとって、このスローガンは西洋近代諸国に追いつくことであり、具体的には「殖産興業」であり「富国強兵」であった。個人はこういうスローガンに寄与するかたちで政治的国家に参加し、あるいは逆に、叛逆というネガティヴなかたちで参加することになる。いずれにせよ、個人はこの政治的国家に外側から参加するのであって、したがってそれ以前に自分が本来的に所属している私生活の場所を必要とする。個人はまず内容のある「私」でなければならず、そのためには「私」に内容をあたえ、それを立たせる固有の場所が必要であろう。もしそういう場所がなければ「私」の存在はきわめて観念的なものになり、個人はひとつの政治体制に埋没するか、それに叛逆しようとして結局もうひとつの体制に埋没するほかに道はない。そしてこの本来的な私生活の場所が、広い意味で「文化」と呼ばれる、人間の手では組織できない共生関係なのである。  たとえば家庭や親族関係や、その延長として生まれた自然な国家は、人間の意識的な組織の産物ではない。それを内容的につないでいる言葉や気質や、風俗や趣味の総体は、ひとつのスローガンをかかげて生まれるものではない。人間はいやおうなくそれを場所として生まれるのであって、そのうえでこの場所から出発して政治的国家に参加するのである。そして政治的国家が健全であるためには、個人はそののちもこの「文化としての国家」に帰属していなければならず、ふたつの関係のあいだに十分なバランスがとれていなければならない。なぜなら政治は、個人が権力をめぐって自己を横に拡大する場所であり、文化は、個人を超えた生命が歴史を貫いて拡大する場所である。いいかえれば、政治はたえまなく歴史に変化を要求し、文化はそれに耐えて一国民の有機的な同一性を守ろうとする。いわば政治が人間の個体維持の場所だとすれば、文化は精神をも含んだ種属維持の場所なのであるから、このふたつがバランスをとるのは人間の生物学的な安定のために不可欠な条件だといえる。  ひと言でいって明治時代は政治的国家の猛烈な拡張期であり、国民の私生活がぎりぎりまで政治に吸収された時代であることはいうまでもない。「文明開化」という奇怪なスローガンは、文化がいかに政治によって手段化され、政策的な目的に動員されたかを端的に物語っている。西洋近代諸国に追いつきそれを追い越すために、宮中の服制からのちには歌舞伎の演目にいたるまで「風俗改良」が強行された。たとえば明治四年に出された宮中服制改革の詔勅は、それがどんなにあわただしく、稚《おさな》い発想によって行われたかを示している。すなわち、それまでの宮中侍従の服制が「軟弱」に流れたのは、もっぱら「中古唐制」を模倣したからであって、それを洋風に変えるのはむしろ「神武創業神功征韓」の本来に返すゆえんなのだという。こうした稚い「和魂洋才論」を延長して行けば、当然、日本語を「脆弱《ぜいじやく》かつ不確実」な言葉として排撃し、国益のためにあえて英語をもって国語にしようとした森有礼《ありのり》の思いつきにも到達することになる。そしてそれは、やがて日本人の文化的身許《みもと》証明を根本的に脅やかして現代にまで及ぶのであるが、しかしその脅威の性質が、真に正しく自覚されるのは明治も三十年代のなかばになってからであった。  ここで問題にしている「二十年間」の前半までは、すなわち鴎外の青春時代までは、日本人にとって「政治としての国家」と「文化としての国家」の分裂は起っていない。文化政策の対立としては、一方に開明派の官僚や技術者の一群があり、他方には三宅雪嶺《みやけせつれい》に代表される国粋派があったけれども、そのどちらも日本の文化を国際政治の問題として考える点で一致していた。いずれにとってもより本質的な問題は「日本」と「西洋」との対立であって、両者はその「日本」をいかに強くするかという方策において違っていたにすぎない。開明派は日本文化の改造が日本を政治的に強くすると確信し、国粋派は逆に、日本文化の保存こそ日本を強くする道だと確信した。しかも、そこで問題にされる「文化」は実質的に政策の及ぶ文化の表層にすぎず、その内実をかたちづくる私生活の層では、開明派も国粋派もともにまだ同じ風俗伝統のなかに暮らしていたのである。  西洋派の官僚・永井久一郎が身辺に支那骨董《こつとう》を集め、すぐれた漢詩人であったことは驚くにあたらないが、面白いのはさらに当時の自由民権派が、しばしば官僚派をしのぐ潤沢な趣味環境のなかに生活していたことが知られている。色川大吉氏が民権派豪農の典型として紹介している八王子の秋山国三郎の生活を見ると、その教養は書道や俳諧《はいかい》から刀剣鑑定に及び、趣味は豊竹琴太夫を名のる義太夫《ぎだゆう》節の宗匠であったという。(「日本の歴史——近代国家の出発」)同じ民権家の細野喜代四郎は、「名誉を願はず又奢《おご》りを作《な》さず、文学に従来して生涯を任せん、雅居事無く風月を娯《たの》しむ、当処多端国家を憂ふ」と歌ったというが、その文事風流の生活にはたしかに具体的な内容があったわけである。逆説的にいえば明治初頭の日本人にとって、「文化としての日本」はあまりにも自明の事実として身辺にあったために、近代化を志す青年たちも、かえってそれについて意識することが少なかったのだといえる。さらにいえば政府官僚から自由民権派にいたるまで、この時代の青年にとって、政治にかかわることが唯一最高のモラルでなかったことを見落してはなるまい。極度に政治的なこの時代に、彼らの意識はむしろ暫《しばら》く風流を措《お》いて国家を憂うという言葉にふさわしいのであり、その背後にはつねに彼らが帰るべき非政治的な生活の充実があった。すなわち、思想や政策に先んじて、趣味や嗜好《しこう》のうえで彼らが何者であるかを証明し、一箇の「私」としての生存の根を支える安定した日常生活の充実があったのである。  だが、国家が急速に大きくなるにつれて、個人の身許証明は二重の意味で脅やかされることになった。政治的国家の内部で、個人の位置と役割が見えにくくなるのは当然だが、それに加えて、私生活の内容をかたちづくる文化が徹底的に政治に吸収されつくしたからである。その危機を最初にはっきりと文章で訴えたものが、帰朝後の永井荷風の文明論的な短篇であった。「監獄署の裏」、「日和《ひより》下駄」、「花火」などはすべてその意味での文明批評であるが、なかでも「花火」の次の一節は問題のありかを鮮明に示している。  涼しい風は絶えず汚れた簾《すだれ》を動かしてゐる。曇つた空は簾越しに一際夢見るが如くどんよりとしてゐる。花火の響はだん〓〓景気がよくなつた。わたしは学校や工場が休になつて、町の角々に杉の葉を結びつけた緑門が立ち、表通りの商店に紅白の幔幕《まんまく》が引かれ、国旗と提灯《ちようちん》がかゝげられ、新聞の第一面に読みにくい漢文調の祝辞が載せられ、人がぞろ〓〓日比谷か上野へ出掛ける。どうかすると藝者が行列する。夜になると提灯行列がある。そして子供や婆さんが踏殺される……さう云ふ祭日のさまを思ひ浮べた。これは明治の新時代が西洋から模倣して新に作り出した現象の一である。東京市民が無邪気に江戸時代から伝承して来た氏神の祭礼や仏寺の開帳とは全く其の外形と精神とを異にしたものである。氏神の祭礼には町内の若者がたらふく酒に酔ひ小僧や奉公人が赤飯の馳走にありつく。新しい形式の祭には屡《しばしば》政治的策略が潜んでゐる。  潜んでいる策略の内容がよいか悪いかということは問題ではなく、新しい祭はすなわち政治そのものであり、荷風は頭からそのことが嫌いだといっているのである。これが書かれたのは大正八年だが、「憲法発布の祝賀祭」と「富士講や大山参」の行列とを対立させるこの思想は、彼が明治四十一年に帰朝したその日からひそかに抱いて来たものだといえる。  最初のうち彼は自分の内部にあるどうしようもない嫌悪感を、あたかも西洋にたいして遅れた日本の野蕃《やばん》さのせいであるかのように表現した。稚い西洋崇拝を丸出しにして、薄汚れた新東京の町を風土や天候にいたるまで罵倒《ばとう》しつづけていた。一見、新帰朝の荷風の態度は「文明開化」の使徒のようにも見えるのだが、もしそうだとすれば、のちに江戸的花柳趣味に身を投じる彼は百八十度の転身を演じたことになろう。しかし、彼は決して「西洋」から「日本」に回帰をとげたわけではなく、たんに自分の内部の嫌悪感の本来の対象を自覚したにすぎない。彼が本能的に嫌悪したのは、新時代を作りつつある日本の「政治」であって、しかもそれは西洋の伝統的な文化との対照においてであった。日本を西洋にたいして蔑《さげす》んだのでもなければ、日本の政治を西洋やその他の国の政治に較べて憎んだのでもない。ただ幸か不幸か彼は西洋の政治的現実についてはまったくの盲目であり、一方、明治期の日本において、政治はほかのどこよりも文化にたいして残酷な姿を露出していた。しかも荷風はたまたまこの文化の殺戮《さつりく》を、身辺にほとんど擬人化して感じることのできる環境を持っていた。すなわち、彼にとって文化的な郷愁の象徴というべき、美しい母親の記憶があったのである。  閣下よ。私の母は私が西洋に行く前までは実に若い人でした。さほどに懇意でない人は必ず私の母をば姉であらうと訊《き》いた位でした。江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。三十歳を半ば越しても、六本の高調子で吾妻《あづま》八景の——松葉かんざし、うたすぢの、道の石ふみ、露ふみわけて、ふくむ矢立《やたて》の、すみイだ河…… と云ふ処《ところ》なぞを楽々歌つたものでした。其れで居て、十代の娘時分から、赤いものが大嫌ひだつたさうで、土用の虫干の時にも、私は柿色の三升格子《みますごうし》や千鳥に波を染めた友禅の外、何一つ花々しい長襦袢《ながじゆばん》なぞ見た事はなかつた。私は忘れません。母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座《ひさまつざ》、新富座《しんとみざ》、千歳座《ちとせざ》なぞの桟敷で、鰻飯《うなぎめし》の重詰《じゆうづめ》を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵《おきごたつ》で、母が買集めた彦三《ひこざ》や田之助《たのすけ》の錦絵を繰り広げ、過ぎ去つた時代の藝術談を聞いた事。然し凡《すべ》ての物を破壊してしまふ「時間」ほど酷《むご》いものはない。閣下よ。私は母親といつまでも〓〓、楽しく面白く華美《はで》一ぱいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何《どん》な寒い日にも、竹屋の渡しを渡つて、江戸名物の桜餅を買つて来ませう。 「監獄署の裏」に出て来るこの母親が、荷風の現実の母親とどれほど似ているかをせんさくする必要はない。この「母」こそ、東京生まれの荷風が日々に滅びを見ていた日本文化の姿であり、衰えた母のかたわらに銅色の顔を輝かしている「父」がその政治の象徴であった。そして彼の歎《なげ》く残酷な「時間」は、とりわけ明治二十年代の末から三十年代後半にかけて大きく流れた「時間」であった。常識的にいって「母」は弱者を代表し「父」は強者の象徴でもあるが、彼が歎いているものがたんなる政治的な不正や、弱肉強食でないことはいうまでもあるまい。彼の文章のなかには反権力的な言辞がくりかえしあらわれるが、彼の主張も生き方も政治的な地平における反権力とは無縁である。なぜなら、政治の内部における善悪はどのみち相対的なのであって、彼はまだ「正義と人道とを商品に取扱ふほど悪徳に馴れて居ない」からである。荷風が同情するものはすべてのしいたげられた母親ではなく、あくまでも柿色の三升格子の長襦袢をまとって、彦三や田之助の錦絵に興じている母親であった。  そして注目すべきことはこの深い文化的喪失感が、彼においては一直線に、「なすべき仕事がない」というあのネガティヴな自我覚醒につながっていることだろう。荷風自身はその間に論理的な脈絡をつけているわけではないが、さきに引いた「生活難を謳へる人よ。私は諸君が羨しい」という文章は、ちょうど母親を語ったこの一節の直後にあらわれている。無意識の観念連合はしばしば重要な意味を洩らすのであって、彼は明らかにここで、人間の「仕事」を支えるもうひとつの支柱の欠如を訴えていたといえる。国家的要請による励ましを拒まれ、さらに生活の必要に駆り立てられることもないとすれば、ひとはいったい何によって自分を励まして働くのかと、荷風は訊《たず》ねているのである。  そのとき彼の頭にあったものは疑いなく江戸以来の「家業」のイメージであり、職人や商人の生活と肉体にたたみこまれている文化であった。彼が職業に合理的な有効性ではなく、あえて飯のなかの砂粒を心配するような、トリヴィアルな完璧《かんぺき》性を求めているのはそのひとつの証拠であろう。職人の世界では、仕事は社会の外的な要求とはいちおう別に、完成度に関して自分自身の内部にきびしい規準を持っている。そしてそれに応じて、仕事は職人にとっては置き換え可能な社会的機能ではなく、性格や気質の底まで浸透したひとりの個人の実体となっている。「役人」や「会社員」は私生活の外にあるポジションの名にすぎないが、たとえば大工であるということは彼の私生活を貫いた存在証明にほかならない。大工には大工らしい口のきき方や酒の飲み方があるのであって、大工という仕事はそれと同じレヴェルで彼の肉体そのものに染みついている。朝起きて稼業《かぎよう》に出かける職人にとって、仕事への弾みはその社会的な機能を知ることによって生まれるのではない。彼らは風俗をも含んだ生活そのもののリズムによって励まされているのであり、そしていうまでもなく、この生活のリズムは、江戸文化という趣味と風俗の全体に帰属することによってのみあたえられるのである。  およそ職業というものは、どこの文化圏においても人間の身許証明を保証する決定的な要素であった。キリスト教世界においてはそれは文字通り「神のお召し《ベルーフ》」であったが、神のないわが国においても、それは少なくとも政治としての国家以前のものの要請であった。荷風が江戸文化とともに失ったのはまさにそういう種類の「要請」であって、まずそれを失えばこそ、彼はまた国家的要請の欠如というもうひとつの不安にも直面しなければならなかったのである。  明治三十年代の後半に、こうした二重の自己喪失に悩んだのは、もちろん荷風ばかりではない。たとえば漱石の「吾輩は猫である」という小説は、この焦燥を背後に見なければ理解がきわめて困難になる作品だといえる。われわれはあの愉快な饒舌《じようぜつ》を楽しみながら、とかくあれがほかならぬ日露戦争の戦時文学であったという事実を忘れがちになる。それほどあの世界には戦時下の緊迫の影がなく、いわゆる「太平の逸民」的雰囲気《ふんいき》が過剰なまでにみちみちている。しかし、それを裏返せばあの躁病《そうびよう》的な饒舌ぶりは、すなおに明るいと呼ぶにはあまりにも過剰で執拗《しつよう》だというほかはない。自嘲《じちよう》の笑いは見るからに明らかなのであって、その内容はいうまでもなく、国事多端の秋《とき》になすべきことの見あたらない人間の焦燥であろう。  作品の主軸は、成金の金田一党と逸民の苦沙弥《くしやみ》先生一派の対立であるが、作者の笑いはむしろこの対立のむなしさにこそ向けられている。金田夫人・鼻子にたいする苦沙弥派の攻撃は意図的に類型的であり、この類型性はただちに苦沙弥一派それ自体の不安を洩らしているといえる。なぜなら金田一党が新興成金の浮草だとすれば、苦沙弥先生とその仲間もまた、なにものにも帰属していない新興知識人にすぎないからである。逆説的な意味での「太平」の時代に、彼らは国家有為の人材でもなく、しかしそうかといって真の「逸民」としての文化的背景も持っていない。彼らの教養はたとえば「アンドレア・デル・サルト」についての実感ではなく、その知識にすぎないのであって、その観念性はまさに苦沙弥先生が口癖にする「オタンチンパレオロガス」の無意味さにも匹敵していた。彼らのまわりにはじつは江戸落語からぬけ出したような長屋のおかみもあり、「天璋院様《てんしよういんさま》」ゆかりの二絃琴《にげんきん》の師匠もいるのだが、苦沙弥先生はもはやそういうひとたちと共通の文化に帰属していない。そういう文化はすでに政治的「文明開化」が決定的なひびを入れたからであり、苦沙弥先生とその仲間はむしろ彼らに不快を感じざるを得ない。こうして政治からも文化からも締め出された浮草の知識人は、せめて金田夫人と対立することによって、失われた身許証明を人為的に恢復《かいふく》しなければならないのである。  ここにあらわれた漱石の焦燥は、やがて「坊つちやん」にいたってさらに明瞭なかたちをとる。赤シャツ一派と対立し田舎者を罵倒する坊っちゃんは、まぎれもなく「江戸っ子気質《かたぎ》」というひとつの風俗体系の擬人化であろう。赤シャツはいうまでもなく新興知識階級の戯画であり、田舎町は近代化がその醜悪さをもっとも剥《む》き出しに見せる場所として憎まれている。しかしここでもまた、坊っちゃん自身が明らかに優しい微苦笑をもって眺められているのであって、その裏には、確実に失われて行く「江戸っ子気質」への作者のひそかな哀悼が秘められている。坊っちゃんにはすでに彼が帰属するべき本来の世界が失われており、そのことをうすうす自覚した彼は、周囲の現実にたいして過剰なまでの怒りを向ける。苦沙弥先生たちの過度の「逸民」意識も同様であるが、坊っちゃんが身辺の他人にことさら強い異和感を示すのは、彼が自分の身許に不安を持っていて、それを他人との対決によって人為的に作り出そうとする焦燥の証拠だというべきであろう。  だがそれにしても、荷風も漱石も他人にたいして率直に怒り、迷いなく人生を怒りっぽく生きて行けるひとびとであった。怒らなければならない社会状況が明白にあり、彼らの立場はそれを安んじて怒っていられる場所にあった。いいかえれば、ふたりは表現者として生きるための感情の原点を明快に持てたのであって、そのことはふたりの作家生活にとって幸福な出発点であったというほかはない。彼らよりも約十五年早く文学活動を始めた鴎外の場合、なによりも顕著なのは、彼がそうした感情の原点を持てないままに、抱くべき感情を求めて左右に揺れ動いている姿であろう。   ㈽ 洋行帰りの保守主義者  思えば、日本が近代国家として形成されたあの特殊な二十年に、みずからの青春を完全に重ねて生きたのが鴎外であったといえる。ドイツ留学期の大部分を国家と一体となって過した鴎外は、明治二十一年に帰朝するとそのあとの約五年間、にわかに爆発的な勢いで自己表現の活動を展開する。それはまさにファウスト的な生命の燃焼を思わせる活動であったが、やがて明治三十二年のいわゆる「小倉左遷」に逢うと、一転して彼はその後の十年近くを極端な自己抑圧のなかに過すのである。問題の「二十年」をちょうど前後に分けて、この自己表現と自己抑圧の対照はあまりにも劇的だというほかはない。そこには明らかに、国家との関係において精神的な身許《みもと》の不安に悩む鴎外の姿があり、この表現と抑圧の対照に、彼独特の不安の徴候が現われているように思われる。  じっさい明治二十一年から二十六年までの鴎外には、年表を一瞥《べつ》しただけでなにものかに憑《つ》かれたような覇気《はき》が感じられる。「舞姫」を始めとする初期三部作の小説、「於母影《おもかげ》」にまとめられた貴重な詩的実験、さらに「月草」、「かげ草」に収められたおびただしい文藝評論や海外文学の紹介がこの時期に集中している。それらの舞台となった雑誌「しがらみ草紙(柵草紙)」をみずから編集する一方、彼は医学の分野においても、「衛生新誌」、「衛生療病志」を刊行して啓蒙家《けいもうか》としての能力を証明する。他方、帰朝後ただちに教官に就任した軍医学校では五年のあいだに校長の地位に登り、明治二十四年には医学博士の学位も授けられている。同時に美術学校では藝用解剖学を教え、慶応義塾では審美学を講じ、藝術教育の分野においても先駆的な役割を果したといえる。「自彊《じきよう》不息《やまず》」ということが鴎外の生涯のモットーであるが、それにしてもこの激しい活躍は、年譜を読む者にある息苦しさのようなものさえ感じさせる。  そして、こうした活動の背後に潜む精神状況のバロメーターとして、鴎外はこの時期に公私にわたるいくつかの攻撃的な「事件」を起している。  公的な「事件」としては文学史に残る激しい論争があるが、なかでも石橋忍月《にんげつ》との「幽玄論争」、及び坪内逍遙《しようよう》との「没理想論争」が有名であろう。それらは論争の内容的な意味もさることながら、それ以上に、そこに現われた鴎外の攻撃的な姿勢によってわれわれの注目を惹《ひ》く。じつはこの姿勢は鴎外初期の評論に一貫してうかがわれるものであって、「山房論文」の数篇など、ときにはほとんどヒステリカルな感情の動揺を示している。そこにはこの得意の時代にふさわしくない一種の焦燥すら感じられるのだが、それに並行して、彼はまた私生活においても生涯に例を見ないひと目をひく事件を起している。しばしば「舞姫」の素材に擬せられる留学中の愛人エリスの来日事件、及び最初の妻・赤松登志子との離婚がそれであった。のちに詳細に検討することになるが、このふたつの愛情問題で鴎外のとった態度には不可解な謎《なぞ》が多い。帰朝する彼を追って来たエリスについては、それを知りながらその企てをとめようとせず、しかも来日後は奇妙に消極的な態度で彼女を故国へ帰らせてしまう。また赤松登志子とは僅か一年の結婚生活ののちに、一方的になんらの説得的な理由もあげずに離婚に踏みきっている。登志子は海軍中将赤松則良の娘であり、同郷の有力者・西周の推薦で受け入れた妻であるが、そうした社会的関係への顧慮も捨てて、鴎外がみずから家出同様のかたちで破局を作ったことは注目にあたいする。家族にはつねに繊細な神経を使い、世間的な関係をも大切にする彼にとって、これはまさに異例というべき荒々しい自己主張だからである。そこにはなにかいやしがたい精神の不安があって、それが痙攣《けいれん》的に爆発して彼自身にも不本意な事件を起しているように思われてならない。  しかもやがてこれが一転して、にわかに極端な精神的隠遁《いんとん》に移る鴎外を見ると、この疑いはますます深まらざるを得ないのである。  厳密には明治二十七年の日清戦争従軍を境にして、彼の文学活動はほとんど完全に中断してしまう。こののち明治四十一年まで、僅か数篇の新聞原稿と講演をのぞいて、発表された作品は戯曲「玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》」が目につくばかりである。その代りに彼はいわばアカデミックな研究生活にはいり、小倉の第十二師団軍医部長を勤めながら、「審美綱領」、「審美新説」、「審美極致論」の草稿を営々として書きつづける。かたわらクラウゼヴィッツの戦争論の研究に励み、他方では前後十年にわたる「即興詩人」の飜訳《ほんやく》に従っている。これらの仕事は、当時の鴎外の心理をうらなううえでそれぞれに興味深いものであるが、とくにわれわれの注意を惹くのは大作「即興詩人」の完訳であろう。文体においてアンデルセンの原作をしのぐといわれた力作だが、それよりも、あの等質の文体を十年にわたって維持しぬいた緊張の持続力には驚くほかはない。文体の同一性《アイデンテイテイー》は精神の同一性《アイデンテイテイー》を示すものにほかならないが、ある意味で鴎外は、この飜訳によって逆に自分の存在証明《アイデンテイテイー》を支えようと努めたように思われる。来る日も来る日も、前日と同じ文体の緊張を保ちつづけることによって、彼は自分の内部に、「鴎外」という変わらぬ存在があることをまざまざと感じることができたにちがいない。そしてもしこの想像が正しいとすれば、この忍耐の背後には、やはりあの自己表現に秘められた不安と同じ不安が耐えられていたにちがいないのである。  両極端に振れるこの苦しい試行錯誤を強いた鴎外の不安は、もちろん直接には、彼が明治国家から乖離《かいり》することによって生まれたものであった。事件としては軍医学校長から小倉の軍医部長への左遷が目立つが、官僚組織のなかでの居心地の悪さは、まえにも述べたようにドイツ留学の最末期から感じられていた。しだいに整備され大きくなる近代国家のなかで、鴎外もまた、荷風や漱石と同じ経験をわけ持つことになった。むしろ彼の場合には、そのまえに国家との強い密着の時代があっただけに、しのび寄る乖離の衝撃は一層深刻であったといえる。しかもその反面、荷風や漱石がけっして触れ得なかった国家のリアリティーに、鴎外が一度は触れ、その鮮やかな感触がいつまでも残っていたことが彼の第二の不幸であった。国家との乖離を感じながら、しかもそれを自明のこととして居直ることのできないアンビヴァレンス——それは時代の変遷によって人生をふたつにさかれた者の苦しみであり、ある意味ではもっとも典型的な日本の青春の不幸でもあった。  ドイツ留学中の鴎外にとって、おそらく最大の事件は有名なエドムント・ナウマンとの論争と、日本赤十字の代表に加わってカルルスルーエの国際会議に出席したことであろう。このふたつの事件については小堀桂一郎氏の「若き日の森鴎外」に詳しいが、それを見れば、鴎外と国家との蜜月《みつげつ》がどのように具体的なものであったかを知ることができる。とくにナウマンとの論争は意義深いものであって、彼のたぶん最初の強烈な自己主張が、はしなくも国家と自分とを一体化する場所において行われたことが、われわれの注目を惹くのである。  明治十九年三月六日、鴎外はドレスデンの地学協会の年次大会に招かれ、その晩餐会《ばんさんかい》ではからずも、ナウマンが行った演説のなかに祖国にたいする軽侮の口吻《こうふん》を聞くことになった。ナウマンは政府の技師として日本に十年を過した地理学者だが、「旭日章を佩《お》びて」故郷に帰りながら、鴎外によると「何故か頗《すこぶ》る不平の色」を見せていたという。その夜の演説は、近代化の過程で日本が経験しつつあったいくつかの歪《ゆが》みを衝いたもので、客観的に見れば必ずしも日本にたいする悪意にみちたものではない。しかし鴎外はその態度口吻に言外の傲慢《ごうまん》さをかぎつけたのであろう、「飲啖《いんたん》皆味を覚え」ず反駁《はんばく》せずにはいられない衝動に駆られる。その夜は社交的な場所がらへの配慮から自制したものの、それでも彼は乾杯の挨拶にことよせて一席の応酬を試みている。そしてその年の六月末、ナウマンの同主旨の文章が「アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に載るのを見るや、鴎外は半歳の準備の後に長文の反論を草して同紙に寄稿するのである。  この反論にナウマンはただちに高飛車な再反論を加え、それにたいして鴎外も二度目の応酬をあえてしている。両者の論理はしばしば論争にありがちな空転も見せているが、根本的な論旨は、その「すれ違い」のゆえに今日もなお興味深いものだといえる。すなわち、小堀氏の正確な整理を借りていえば、ナウマンの非難は、日本における西洋文明の皮相で未熟な輸入に向けられ、それにたいして鴎外の反論は、その輸入が日本にとっていかに「自然」で合理的な選択であるかを指摘する方向に展開された。  このすれ違いは鴎外にとってまことに皮肉というほかはなく、ナウマンの論旨はじつは延長すれば、のちに漱石が「現代日本の開化」のなかでかこつ深刻な悩みに通じ、さらには荷風が江戸文化の立場から明治国家に向けた非難にもつながっている。  けだし、どんな文化でも「文化」というものは完結した有機体であるから、異質文化を輸入すれば歪みは二重の醜さとなって現われて来る。一方では輸入された文化の消化が未熟にとどまり、ナウマンが冷笑的にいうように蒸汽船の走らせ方は覚えたもののその停め方を知らないといった滑稽さを露呈することになる。他方、それを輸入した土着文化そのものも、有機的な完結性を毀《こわ》されて、本来は美しかった要素を醜悪な断片に変えてしまう。たとえばおはぐろの古俗や車夫の裸体の習慣など、かつては粋《いき》でいなせな文化現象が、近代化と併存することによってナウマンの目に「野蕃《やばん》」と映るものに変質してしまうのである。  このずれと歪みが醜悪であることは疑いなく真実であり、そのかぎりナウマンの非難も正しく、荷風や漱石の悲しみも当然であった。鴎外自身、この醜さに誰よりも敏感であり、のちに「藤棚」や「普請中」といった作品のあちこちにその感情をしのばせている。しかし、彼はナウマンと違って日本人であり、荷風や漱石と違ってこの国家の運営に直接にたずさわっていた。近代化を受け入れなければ日本の政治的独立が危うかったことは疑いなく、政治的独立を失って文化の純粋な維持が可能であったかどうか疑わしい。伝統と近代化の矛盾を笑ったり悲しんだりしてすませられないのが鴎外の立場だとすれば、彼のとるべき論法は当然ひとつしかない。西洋的な近代化が世界史的に不可避のコースであることを前提としたうえで、それがせめて日本人の内発的な要求であり、伝統文化の本質と矛盾しないものであることを証明することであった。  彼はナウマンにたいして、日本の衛生状態がつとに高度のものであることを説き、性道徳上の欠陥はヨーロッパにも共通のものであることを思い出させ、裸体の習慣は、要するに労働者が大いに精を出して上衣を脱ぐことにすぎない事実を認めさせる。そして、日本人が本来「学問藝術の普遍的な進歩」に関心の強い民族であり、「ヨーロッパの文明と文化の価値をあるがままに評価する」能力を十分にそなえた民族であることを力説した。もちろんこの論理に積極的な誤りはないし、それを主張する鴎外の気持にも嘘があったとはいえないだろう。しかし、同時にこの議論は鴎外が無意識のうちに、当時の明治国家に立場をひきつけて行った発言であることも疑いない。たとえばこれに加えて彼がさらに次のように反問するとき、その強すぎる語調のなかに、明らかに内奥のためらいをあえて押し切った緊張がうかがわれる。  ナウマンは批判なき模倣ということを言っているが、西洋から導入したいかなる制度についてそれが無批判の受容であったというのか? いずれが日本を害《そこな》うようなものであったか? かかる重大な問責を根拠づけるべきただ一つの実例もナウマンは挙げていない。(「日本の実状」小堀桂一郎訳)  さらに彼は以下のように言明している。〈ヨーロッパ文化をただそのままに受容するだけでは、日本民族は強化されずにかえって弱体化し、遂には民族の没落を招来するであろう。〉それを受容することが民族の没落を招く危険を孕《はら》んでいるという、いわゆるヨーロッパ文化とはそれではいったい何なのか?  真のヨーロッパ文化とは言葉の最も純粋な意味における自由と美とを、その本質とするものではないのか? この認識が没落を招くというのであるか? まさか、ナウマンもそんなつもりで言ったのではあるまい。それでは彼は、ヨーロッパ文化ということを例えば、或る種の国民が他国民に対して用いてすでにしばしば成功を収めた武器、火酒、阿片、ある醜悪なる伝染病のごときものと考えているのであろうか? なるほど、こうしたものは、もしそれが入りこんだとすれば、日本を破滅させることはあるかもしれない。しかし我らの民族の健康な感覚は、少なくとも今までのところは、そのようなものの侵入に対して立派に我身を守っているのである。(同右)  とくに第二の反問のなかで、鴎外はおそらく意図的に、相手の論点とはすれ違った場所で議論しようとしている。西洋文化の盲目的で安易な受容にたいするナウマンの批判は、むしろ鴎外が本来、自分で主張したいほどの問題であったはずである。それをあえて論理上の誤謬《ごびゆう》まで犯して、西洋文化の受容一般の可否論にすりかえたのは、あながち議論に負けまいとする彼の片意地のせいばかりではないであろう。明らかに鴎外は怒っているのであって、その怒りはそういう論理的に正しい批判が、まさにそれをいうにふさわしくない人の口から出たことに向けられているのである。たとい盲目的であろうが消化不良であろうが、いったい西洋文化の受容を日本に強いたのはどこの誰であったか。もしそれを受容しなければ日本は政治的独立を失ったのであり、そこまで日本を脅やかしていたのは、ほかならぬナウマンの属する西洋諸国ではなかったのか。日本の開国が内発的なものではなかったというナウマンの非難にたいして、鴎外が激しくつきつけた答えには今日もなお胸をうつものがある。  日本人が内的要求からして国際貿易に対して開国したのではないことも私は承認する。いったいどうしてそんな要求がありえたろうか? 日本は昔も今も、衣食住の材料を十分に自給自足し得る。物質的需要の一切にはただ国内交易だけで事足りていた。それに日本は今までのところは人口過剰という問題も抱えてはいなかった。だから学問藝術の普遍的な進歩さえ取り入れてゆけばよい、という願望だけが日本には育っていた。そのためには国際貿易に参加する必要はなかった。日本の開港以前に進取の気象に富んだ人々がヨーロッパの学術には注意を向けていた。(J・サグマその他)ローゼンクランツは(前掲書において)日本の当時の状態を、名高い哲学者フィヒテの思い描いた理想の閉鎖商業国に擬しているが、それももっともである。しかしこの理想的状態も永続きはし得ないものだった。世界史の潮流は日本をその牧歌的な静寂の境からひきさらってしまった。(「日本の実状」) 「世界史の潮流」と鴎外は言葉をやわらげているが、正確にいえばそれは西洋の経済的なエゴイズムであり、キリスト教的なミッション思想の独善にすぎないものであった。ここには近代の日本人が心の奥深く秘めている痛憤が洩れているのであって、さらに考えれば、今日の文明観にたいしても根源的な疑いがつきつけられているといえる。  いったい、西洋的「近代」というものは、政治経済から精神までを含む統一的な文明なのであろうか。ましてそれは全人類が、必然的に受け入れるべき世界史的段階の名前なのか。今日のわれわれはそうだと信じてそれを受け入れ、「近代性」をひとつのモラルとしてすら受けとっているが、ひょっとすると「近代」などという普遍的文化は幻想にすぎなかったのかもしれない。真の文化は有機的な完結性をかたちづくるものであり、それはたとえば「西洋文化」であり「日本文化」であって、どちらも普遍的な存在でないのはいうまでもない。そして、普遍性を持つものは個々の「学問藝術」の技術にすぎず、そうした技術がそれ自体で「文化」としての完結性を持つはずはない。たとえばわれわれは、科学的態度を身につけるためには近代的自我にめざめなければならず、そのためには世界的な政治経済の関係に参加しなければならないと考えているが、これははたして自明の真実なのだろうか。もし西洋が日本を武力と経済によって脅やかさなかったら、われわれはフィヒテ的な閉鎖国家を保ちながら、「近代」をあえて新技術の寄せ集めとして受け入れられたのではないだろうか。「日本」という文化的統一を毀すことなく、たんにいくつかの技術を、便利で面白い流行として受け入れることができたかもしれないのである。  もちろん鴎外は、ここでそうした爆弾的な疑問を直接には提出していない。しかし、この疑問はやがて彼の心のなかで着実に深まって行くモチーフであり、とくに明治四十二年以後の文学活動のなかにいろいろなかたちで現われて来る。そして、とりあえずここで表明されているのは、「近代」を選択の余地なく押しつけて来たものへの怒りであり、押しつけておいてその受けとり方が無器用だと笑っているものへの怒りであった。  だがそれにしても、ここで鴎外が展開している議論がいかにも苦しいことは疑いの余地がない。西洋人ナウマンにこそそれを笑う資格はないが、現実の日本がともすれば西洋文化を盲目的に受け入れていたことは事実だからである。しかも、先にも述べたように文化輸入がひき起す醜悪さは、輸入し輸入される文化それぞれの質とは関係なく、接木《つぎき》することそれ自体によって生まれる完結性の破壊から来る。当時の鴎外がこの事実に気づいていないはずはなく、だからこそ、ナウマンにたいしてそれを否定する語調がことさらこわばるのも当然であった。とりわけ当面の「無批判な模倣」は、彼自身が自分の手で戦わねばならない課題であって、この主張は、たんなる事実の否定というよりむしろ彼の内奥の決意表明であったといえる。  じっさい、滞独中の鴎外には「日本兵食論」及び「日本家屋論」の業績があり、そのなかで彼が論証したことは、日本固有の文化の科学的合理性であった。この研究にもとづいて、日本の兵食はいったん洋風に傾いたのち和風にもどされるのだが、もし鴎外がいなければ、ここにも「無批判な模倣」がまちがいなくなされていた。さらに彼は東京の都市計画についても、それを西洋風に統一しようとする「ハイカラア連」に反対し、仮名づかい改良の問題についても、正字法《オルトグラフイー》の立場から歴史的仮名づかいの正当性を主張した。  そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は本の杢阿弥《もくあみ》説を唱へた。そして保守党の仲間に逐《お》ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。  そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年は Laboratorium《ラボラトリウム》に這入《はい》つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本の杢阿弥説に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初めから知れ切つた事である。(「妄想」)  自分は失望を以《もつ》て故郷の人に迎へられた。それは無理も無い。自分のやうな洋行帰りはこれまで例の無い事であつたからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝《かがや》く顔をして、行李《こうり》の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになつてゐた。自分は丁度その反対の事をしたのである。(「同右」)  先にも引用した「妄想」の一節であるが、この「洋行帰りの保守主義」こそ、彼がナウマンにたいして展開した議論のまさに裏返しの主張にあたる。  注目すべきことは、彼がナウマンにむかっては「西洋化する日本」を弁護し、同胞にむかっては逆に西洋化のむなしさを説いたことであろう。いわば鴎外はことさら困難な立場を選んだのであって、それは西洋人にたいして国粋の美を誇り、日本人にたいして文明開化を教える啓蒙家の態度とは正反対のものであった。今日の知識人の処世術にも通じることであるが、おためごかしの西洋親日派に「日本美」を売り、拝欧主義の日本人に「西洋文化」を売りつけるほど簡単なことはない。西洋人はフジとゲイシャと江戸趣味を喜ぶであろうし、日本人は洋館と洋食と横文字に憧《あこが》れを抱く。それにおもねることはたんに議論の立て方として簡単なばかりでなく、近代の日本においては、それを主張する人間の精神的一貫性の確保の仕方としても簡単なのである。なぜなら、西洋社会のなかで主張する「フジとゲイシャ」も、日本社会のなかで教える「洋食と洋館」も、ともに観念的な存在であって現実の複雑さを帯びていない。したがって、それを誇る人間は一見きわめて純粋明快であることができ、しかも、そうした文化に彼が本当に帰属しているかどうかを問われることがない。西洋社会のなかではあたかも「日本」に帰属し、日本社会のなかでは「西洋」に帰属するふりをして、じつはそのいずれにも帰属していない事実を隠すことができるのである。  鴎外はそれを十分なし得る能力を持ちながら、しかしあえてその反対の立場をとった。観念的な明快さを捨てて現実の複雑さを選び、彼はあえて自分の帰属関係を危険にさらしたといえる。その結果、彼は「失望を以て故郷の人に迎へられ」、ナウマンによっては「祖国と同胞に何の寄与もなし得ていない」という不当の非難を浴びせられた。  鴎外が選んだ立場は、いわば現実に「ことをなす人」の立場であり、近代の日本において現実に生活する人間の立場であった。なぜならわれわれは、外国人とは第一に政治的次元において交渉するのであり、逆に同胞とは第一に文化的地盤のうえに共生しているからである。いいかえれば、われわれは外国人とはまず公的な関係で触れあい、同胞の隣人とはまず私生活の関係から触れあいを始めるものである。そして西洋諸国と政治的に接触しようとすれば、われわれの立場が江戸文化ではなくて近代的実力であることは当然であろう。またわれわれが同胞と真に私的な関《かか》わりを持とうとすれば、そのなかだちをするものが横文字ではなくて固有の風俗であるのはいうまでもない。外では洋服を着て義務と権利の関係を主張し、内ではユカタを着て義理と人情の生活をするのが、近代日本人のどうしようもない現実なのである。  鴎外はその現実を認めたうえで、外国にむかっては政治的国家としての日本を代表し、日本のなかでは私生活の基盤としての文化に帰属しようとした。しかし、それはどちらも現実であるだけにさまざまな混乱を含み、個人の精神的一貫性の根拠としてはきわめて不安定なものであることを免れない。政治的国家としての日本はとかく苦々しい「無批判な模倣」を演じるし、伝統的文化はすでに近代化によって無残な「普請中」の姿をさらしている。彼が現実に足場を求めようとすればするほど、現実は彼を裏切るのであって、ときがたつにつれて彼は自分の明瞭な立場がどこにもないことに気づいて行く。  その悩みは、ドイツでナウマンと論争したときにすでに種を蒔《ま》かれていたものであるが、しかし少なくともこのときの鴎外はまだ幸福であった。明治国家は無力で小さく、その近代化を弁護する必要は明瞭であって、彼は実感をこめて近代化して行く日本に自分を同一化《アイデンテイフアイ》することができた。それは、もっとも現実に即した行為であると同時に、また感情を鼓舞する行為でもあり、彼はそれが自分の一貫性《アイデンテイテイー》にとってどういう困難につながるかを考えないですんだ。しかし彼はまもなく西洋社会を離れ、「小さな国家」にたいする情念的な一体感も醒《さ》めると、彼の立脚点のなかに最初からあった矛盾がはっきりと見えて来る。一方、それにもかかわらず彼は国家の現実を一度は見てしまったのであり、自分が永遠にナウマン的なものに対決していることを忘れることができない。日本と西洋の対立を忘れた「世界市民」になることもできず、政治的国家を忘れた江戸趣味に身を投ずることもできず、そうかといって彼は観念的な愛国青年や国粋主義者になることもできないのである。  鴎外のこの不安定な立場は、荷風や漱石のとり得た立場に比較すると明瞭に理解できる。ある意味で荷風と漱石の文学的生涯は、ナウマンの非難にたいする、それぞれ違った答えとして見ることができるからである。  なかでも荷風の立場は明快であって、彼にはナウマンの問題は始めから存在しないといえる。なぜなら彼は近代化する日本、政治的国家としての日本にたいして、全面的に拒否の立場をとっているのであるから、ナウマンの批判はむしろ彼の立場を間接に援護したことになる。  純粋な文化としての「西洋」、純粋な文化としての「日本」だけが彼の関心事であって、文化のレヴェルにおける両者の融合ということすら彼は認めていない。そういう立場を現実に移せば日本は政治的にどうなるかということも問題外であって、彼はたぶん西洋の政治的圧力のまえには江戸文化とともに滅びる道を選んだであろう。驚くべき観念的な立場ではあるがナウマンの批判にたいしては鉄壁の守りであり、しかも文学的な視点を確立するうえでこれは屈強の立場であった。「フランス文化」も「江戸文化」も近代の日本のなかでは観念的な存在にすぎず、したがって、彼はそれらの世界に本当に属しているかどうかを問われることはない。現実のフランス文化や江戸文化がどのように変化しようとも、彼は自分の立脚点に修正を加える必要はない。もちろん荷風は自分にたいして嘘をついているわけではなく、それらの文化が含む趣味は主観的には彼の実感に触れるものである。そしてその実感に忠実に従っているかぎり、彼が明治国家の政治に参加していないことだけは確実であって、この不在が、とりもなおさず彼においてはネガティヴな存在証明につながるのである。  漱石の場合はもう少し複雑であって、日本の近代化が彼にとって重大な関心事であったことはいうまでもない。おそらく彼はナウマンの批判のまえに深刻に悩み、その懊悩《おうのう》は三人のなかでもっとも激しかったかもしれない。彼が明治四十四年に行った講演「現代日本の開化」はナウマンの非難を事実上うけつぎ、それを日本人の立場から一層深めたものだといえる。  しかしこれを裏返せば、漱石にはナウマンにたいして怒るという側面がなかったのであって、このことが彼を鴎外からわかつ重要なポイントに通じるのである。彼はみずから日本の近代化に手を貸しながら、いわばその可能性への見限りを鴎外よりも少しずつ早くつけることができた。見限りのついたところで彼は激しく悩むのであるが、しかし、そのカルチュラル・ショックが漱石にとってはひとつの積極的な立場になり得たといえる。荷風とは違って、彼は西洋文化を日本社会へ摂取しようとする立場から眺め、当然の結果として、それが容易に消化できないものであることを発見した。西洋風の食事は彼の生理になじまず、彼の漢文学の教養からいえば西洋文学は文学ではなかった。しかしそうかといって、漢学的教養の世界はすでに決定的に崩れ始め、彼はそこにも自分の足場を発見することができないのを知っていた。そして、このネガティヴな発見が漱石においてはじつに強烈な手応えであって、先にも述べた通り彼はそれを出発点として、「文学論」一冊を「自己本位」の立場から書こうと決心することができた。  こうしてたんに国家との関係だけを考えても、鴎外の生存の足場が幾重もの矛盾に脅やかされていたことは明らかである。彼が愛していたのは「文化」としての日本であったにもかかわらず、それを守るために、彼の立場は逆に政治的な国家と一体化しなければならなかった。さらに、日本というものを自己の有効な立場にしようとすればするほど、彼はそのために、西洋文明の矛盾する影響力にみずからを開いて行かねばならなかった。そして鴎外をこれだけの比較の地平に置いて見ると、あらためて新しい意味を帯びて浮かびあがって来るのが、先の「妄想」の一節なのである。注意深く読むと、ここにはそういう矛盾に耐えて生きた人間の、独特の内面の構造が告白されているように見える。  併《しか》し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策《むち》うたれ駆られてばかりゐる為《た》めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸《ちよつと》舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目《めんぼく》を覗《のぞ》いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。  だが、とりわけてわれわれの注目を惹くのは、この一節の直後に、鴎外がはっきりと次のようにいいきっていることであろう。  自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでゐる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だと云つてある。ところが自分には単に我《われ》が無くなるといふこと丈《だけ》ならば、苦痛とは思はれない。只刃物で死んだら、其刹那《そのせつな》に肉体の痛みを覚えるだらうと思ひ、病や薬で死んだら、それぞれの病症薬性に相応して、窒息するとか痙攣《けいれん》するとかいふ苦みを覚えるだらうと思ふのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。  そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜《くちを》しい。残念である。漢学者の謂《い》ふ酔生夢死といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。  それが煩悶《はんもん》になる。それが苦痛になる。  鴎外を論じるすべての人が引用する「妄想」であるが、こんなにも明白に語られている言葉が、これまでけっして言葉通りに理解されていないのはどういうことであろう。「舞姫」のなかの太田豊太郎の述懐とともに、とかくこの一節は、鴎外の「自我」が前近代的環境のなかで呻吟《しんぎん》している言葉として受けとられがちである。しかし、事実はその逆なのであって、鴎外はまぎれもなく、ここで呻吟すべき「自我」は存在しないといって呻《うめ》いているのである。西洋の小説を読み哲学書を読んで、彼はこの世界に「自我」というものがあるらしいという知識を発見した。それを持つことが近代人の資格であり、それを失うことは最大の苦痛であることを彼の理性は了解した。しかし、それが彼の内部でどこまでも観念にとどまり、実感としてその存在に触れられないことを自覚して、彼は煩悶しているのである。  彼にとって自分が存在している証拠として感じられるのは、まず肉体の生理的な苦痛であり、同時に彼にたいするあのいじらしい家庭の愛情であった。彼はベルリンで病いに倒れた留学生仲間の死に立ちあって、自分もいつ遠い異境で学業なかばに倒れることがあるかもしれないと、ふと思ったりする。  さういふ時は、先《ま》づ故郷で待つてゐる二親《ふたおや》がどんなに歎《なげ》くだらうと思ふ。それから身近い種々の人の事を思ふ。中《うち》にも自分にひどく懐《なつ》いてゐた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやつと歩いてゐたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問ふといふことを、手紙で言つてよこされてゐる。その弟が、若《も》し兄いさんはもう帰らないと云はれたら、どんなにか歎くだらうと思ふ。  それから留学生になつてゐて、学業が成らずに死んでは済まないと思ふ。併し抽象的にかういふ事を考へてゐるうちは、冷かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の値遇《ちぐう》の跡を尋ねて見ると、矢張《やはり》身近い親戚《しんせき》のやうに、自分に Neigung《 ナイグンク》からの苦痛、情の上の感じをさせるやうにもなる。  かういふやうに広狭種々の social《ソチアル》な繋累《けいるい》的思想が、次第もなく簇《むら》がり起つて来るが、それがとうとう individuell《インヂヰヅエル》な自我の上に帰着してしまふ。死といふものはあらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合《そうごう》してゐる、この自我といふものが無くなつてしまふのだと思ふ。(「妄想」)  おそらくこの述懐は今日の日本人にとっても、自我というものについてもっともわかりやすい証言だといえるだろう。今日のわれわれも自我というとき、まず思い浮かべるのは「広狭種々のsocialな繋累」であり、自分を「あらゆる方角から引つ張つてゐる」人間関係の糸のからまりであろう。そして、この糸の集まるところにたしかに自我というものがあるはずなのだが、さてそれを実体として掴《つか》みとろうとすると、にわかにわれわれは空を掴む頼りなさを感じるのが実情ではないだろうか。まず絶対的な意志をもって行動を起し、その意志に従って他人を選び、人間関係をこちらから創造して行く自我というものを、日本人がどこまで信じることができるかは疑わしい。率直にいって、われわれはいつも意志の立場から他人を選びきれず、愛情にせよ憎しみにせよ、逆に他人にたいする感情をばねとして行動を起す自分に忸怩《じくじ》たる思いを抱いているのではないだろうか。  もちろん考えてみれば、現実の西洋人が日常生活のなかで、つねにこうした純粋な自我の立場を貫いて生きているとはかぎらない。おそらくどんな国民にとっても、たとえばスタンダールが信じ得たような自我は虚構であったにちがいないのだが、しかし、それが西洋世界においては少なくとも文学的な形象としてつくり出され、強固な思想上の伝統をかたちづくって来たことは疑えない事実なのである。 「性格の確固たるつよさをもつには、自己に他人のあたえる効果を経験してみなければならぬ。したがって、他人は必要である。」(スタンダール「恋愛論」断章九十二、生島一訳)  こうした傲然たる自我観はしかも唐突に現われたものではなく、その背後にはソフォクレスからラシーヌにいたる、あの強烈な悲劇的意志の伝統が西洋文化を一貫してあったことはいうまでもない。そして幸か不幸か、明治の日本人がこういう自我観を書物を通して学びとり、それを観念の次元で十分に理解し得たこともまたいつわりない事実なのである。ある意味でこの観念を生み出した側よりも、学びとった側の方がそれをより純粋なかたちで理解してしまったといえるかもしれない。そのあげく近代の日本の知識人たちは、精神生活を営むうえで、今日にいたるまでひとつの抜きがたい強迫観念にとらわれて生きているのである。  もちろん、この強迫観念に誰よりも苦しめられて来たのは、自己表現を業とする作家たちであった。考えようによれば日本の近代文学史は、実感としては容易に捉《とら》えられぬ自我を求めて、誠実にその観念と格闘しつづける精神の歴史であったといえるだろう。ごく少数の例外的な作家は、あえて自我を純粋な観念の問題として扱い、生活感情とは無関係に、いわばつくりものの「西洋小説」を書くことに成功した。しかし、大部分の作家は観念と実感のギャップに苦しみながら、しかし、そのあいだになんらかの折り合いをつけることによって自分を救おうとして来た。そのひとつの方向が、自分の内部に日本的な「自我の陰画」を見つけることであり、もうひとつの方向は、自分の環境を近代的自我にふさわしからぬ社会として非難することであった。前者は、徹底すれば狷介《けんかい》な「私」の世界に立て籠《こも》る文学となり、後者はもっぱら、観察の目を「前近代的」な社会現実に向ける文学となることはいうまでもない。  こうした視野のなかに位置づけて見ると、鴎外文学の特異な性格について、すでにおよその輪郭をかいま見ることができる。彼は、自分の内部に自我が存在しないことについて誰よりも敏感でありながら、しかも、その実感と観念のギャップになんらの折り合いもつけないままに踏みとどまった作家であった。いわば彼の生涯の文学的な主題は、あの「自我の陰画」すら成立しない、内面の完全な空白そのものを凝視することであったといえる。その不安が、あるときは彼を痙攣的な自己表現に駆り立て、またあるときは極端な自己抑圧に誘うこともあったが、しかし結局はそのどちらにも安住できず、彼は最後まで自我の手ごたえを求めて終りのない彷徨《ほうこう》をつづける作家となった。  そしてそのことによって、彼は日本の近代文学史のなかでは例外的な作家となり、令名のみ高くて真に理解されることの少ない文学者となった。けれども、目を転じて広く日本人の精神史全体という枠組《わくぐみ》で考えると、鴎外はけっして異様な例外者でもなければ、少数者の代表ですらない。たしかに彼が生まれあわせた時代は歴史的に稀有《けう》の時代であり、そのことが彼の生き方をいやがうえにも特徴的なものにしたことは疑いない。しかし、さらに踏みこんで彼の家庭環境や生理的な体質にまで目を向けると、それを背負った鴎外の人生態度は、むしろ日本の近代人のもうひとつの典型であったことが理解されるはずである。それがのちの文学作品によって描かれることが少なかったということは、日本の近代文学そのものにとっての不幸であったかもしれないのである。 第二章   ㈵ 生まれながらの「父」  じっさい、鴎外ほどその生涯を家族とともに生き、また家族によってこまやかに見つめられた文学者も稀《まれ》であろう。  その青春を見まもった妹・小金井喜美子をはじめとして、晩年をともに暮らした末娘・小堀杏奴《あんぬ》氏にいたるまで、近親者によって描かれた鴎外像はおびただしい数にのぼっている。彼らの目に映った鴎外はいつも異様なまでに優しく、克己的な表情で彼らにゆきとどいた庇護《ひご》の手をさしのべている。日本の多くの近代作家が系族に叛逆《はんぎやく》し、あるいは家庭から脱落することによって自己を形成したのにたいし、鴎外は心身ともに、家族の葛藤《かつとう》のなかに踏みとどまることによって文学を発見した作家であったといえる。  明治十四年の新春、大学卒業をまえにした林太郎がにわかに文学熱にうかされ、試験勉強をよそに長詩の創作に没頭して、それを心配した祖母がやきもきする様子を、後年の喜美子はなつかしげに想い出している。当時、鴎外は大学鉄門前の「上条」という家に下宿暮しをしていたが、彼の健康を気づかった祖母の清女は、同じ下宿の部屋に住みこみで身辺の世話をしていたのである。いわば祖母の視線を背中にうけながら書いたのが、訳詩「盗侠行《とうきようこう》」であって、これが今日残る鴎外の最初の文学作品ということになろう。それを得意げにくりかえし兄が朗読するのを聞いて、幼い喜美子はついに冒頭の数行を暗誦《あんしよう》してしまったという。(小金井喜美子「森鴎外の系族」)のちにドイツから帰った鴎外は、井上通泰、落合直文らとともに詩文の会「新声社」を興すが、そのなかにもすでに小金井家に嫁いだ喜美子が同人として加えられている。冬は湯豆腐をつつき夏は氷西瓜《すいか》をすすって、この同人はきわめて家族的な雰囲気《ふんいき》のなかで森家の奥座敷にたむろしていた。雑誌を出すといえばのちに三木竹二と名のった弟・篤次郎が事務の手助けをし、台所にはレクラム文庫を頼りに西洋料理に骨を折る母親の姿が見られたりする。のちに述べるように当時この家庭には複雑な事情があったのだが、それでも「新声社」はさながら森家の一家団欒《だんらん》の延長ともいうべき雰囲気を見せていた。明治文学に一時期を劃《かく》した訳詩集「於母影《おもかげ》」はもちろん、「舞姫」をはじめとする一連の初期小説も、すべてこの小さな家庭の奥座敷から生まれて来たといっていいすぎではない。  さらに十年ののち、小倉の第十二師団軍医部長に転じてからも、鴎外は三木竹二のために雑誌「歌舞伎」の刊行を助け、はるばる九州から、ときたま上京のおりに観た芝居の感想などを書き送っている。この時期の鴎外は周知のように「配流の身」の心境にあり、意図的に文筆活動をおさえていた時代だから、もし弟のためにという励ましの鞭《むち》がなければ、あるいは彼の文学への意欲はもっと致命的に衰えていたかもしれない。少なくとも歌舞伎の革新をめざした「玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》」という作品は陽の目を見ず、その後の劇作や戯曲飜訳《ほんやく》の活動も大幅に遅れていたことは想像に難くない。  また鴎外はこの時期にアンデルセンの「即興詩人」の飜訳を完成しているが、母の峰子はそのよき読者であり、初版本はわざわざ母のために四号活字をもって印刷されている。ある意味で、これらの作品は家郷にあてた書簡の役割を果したわけだが、そうでなくても彼はしばしば自作を出版まえに家族に読ませる習慣を持っていた。鴎外にとって、文学は個人の密室の産物ではなく、最初から、「家」という均質な感情と教養の世界にたいして開かれていたといっても過言ではない。  だが、みずからを開いて家族のなかに踏みとどまるということは、しばしば、家族に叛《そむ》いて密室に閉じこもることよりも大きな緊張を必要とする。「家」という生きたまとまりはつねに揺れ動くものであり、ことに近代社会においては、家族の均質な感情と教養のつながりは極度に不安な状況に置かれているからである。事実、鴎外は生涯にわたって一度ならず家庭の危機に遭遇し、そのたびに全力をこめてその葛藤を自分の手で解決しようと努力している。しかも注目すべきことは、そうした危機にめぐりあうたびに、彼の文学創作への意欲はむしろ異様な昂揚《こうよう》を示すのである。  鴎外が最初の本格的な創作活動を見せるのは明治二十二年からの数年であるが、これはいうまでもなく、帰朝後の彼が一家を実質的に代表する立場につき、つづいて結婚と離婚という激しい家庭の波瀾《はらん》に直面した時期にあたっている。さらに二十年の沈滞期ののちに、ふたたび爆発的な創作が始まるのは明治四十二年以降のことであって、これはあたかも彼が二度目の結婚を体験し、新しい家庭の運営にようやく重い緊張が堆積《たいせき》した時期だと見ることができる。普通の常識からいえば、小倉時代を含む十数年は鴎外にとってもっとも自由な時代であって、日清、日露の戦争という中断はあっても、逆に創作の筆がのびていても不思議ではない。森家の社会的地位はようやく安定し、彼自身は二度目の独身生活にめぐりあって、時間的にもかつてない余裕を持ち得たものと思われる。にもかかわらず、この時期の彼は若干の評論をのぞいては「独逸日記」の清書と「即興詩人」に沈潜して、もっぱら青春の西洋体験を反芻《はんすう》しながら、作家としての自己のありかを探りあぐねているように見えるのである。  いわば鴎外の精神は一家の重荷が双肩にかかったときにはばたくのであり、その緊張のなかにはじめて自己のありかを明確に感じ得るような精神であった。これはいうまでもなく一家に責任を負う家父長たるものの精神であるが、とくに鴎外の場合、それが文学創作の意欲を生むほど強烈なものであったことに注目すべきであろう。裏返せば、彼はその緊張がなければ精神の活力を失うほどに家父長だったのであって、彼にとってそれはきわめて早く養われた第二の天性というべきものであった。やがて鴎外はその役割を自発的に演じながら生きるのであるが、もちろん、その最初の萌芽《ほうが》を植えつけたものは彼の幼少期の環境であった。  鴎外が森家の長男・林太郎として生まれたのは、文久二年(一八六二)一月十九日、石見《いわみ》国鹿足《かのあし》郡津和野町の家であった。当時、家督をとっていたのは祖父の森白仙であったが、たまたま白仙はその前年の暮、江戸から帰る藩主亀井氏を追って旅空にあり、十一月十七日の夜、宿痾《しゆくあ》の脚気《かつけ》が衝心して江州《ごうしゆう》土山の宿に客死してしまった。その悲報が若党によって森家にもたらされたのはすでに師走《しわす》であって、文久二年の正月はこの家にとって暗澹《あんたん》たる新年となった。そのなかにひと筋の光を投げたのが林太郎の誕生であったから、家長を失った心細さのなかで、いつしか一家がこの幼児を祖父の生まれかわりと受けとったのも当然であった。  森家は亀井氏につかえて、林太郎の父まで十三代続いた典医の家系であったが、なかでも祖父の白仙は一家の長として積極的な人柄であり、石州流の茶道や四条流の包丁道などに趣味もあって、家族の信頼もことのほか厚いものがあったらしい。  祖父君の家は、家禄百五十石なりしとは云へ若き時より江戸に上り、長崎に行き、旅にのみ年多く過ぐして、故郷に帰りて家を持たれしは四十《よそ》ぢを遥《はる》かに越えての後なりき。その性濶達《かつたつ》にて、家の事に関《かかは》らず。御殿への勤めこそ規律正しくし給へど、我は顔する病家などへは幾たび使ありても行かず、薬の料などは人の持ち来《きた》るに任せて我から求むることをし給はず。家にはいつも食客の二三人絶ゆるひま無かりき。服改めて立出づる主人を玄関に見送る人人、頭は円けれども、黒羽二重の羽織長目に着て、少し反り身の雪駄ばき、腰の刀に左手置ける立姿を眺めて。 「千石取らせたいなあ。」  と云ひつる由、祖母君を媒妁《ばいしやく》せし人の語られしとぞ。  小金井喜美子の「不忘記」に記された聞き書であるが、幼い林太郎を囲んだ森家のひとびとにとって、記憶のなかの祖父の姿は失われた「家長」というもののイメージだったのである。事実、白仙は家のそとでもなかなかに覇気《はき》にあふれた人物であったらしく、同僚の典医と脈の取り方について激しい論戦をかわしたことがあり、このときの議論が「与三学医書」その他の文書となって残されていたという。(森潤三郎「鴎外森林太郎」)後年、雄弁な論争家として名を馳《は》せた鴎外の気質は、少なからずこの剛直な祖父の血筋につながるものでもあったにちがいない。白仙はもとの姓を佐々田氏といい、森家には養子としてはいった身であったが、いわゆる婿養子ではなく、妻は長門《ながと》国鷹巣《たかのす》から木島家の娘・清子を迎えている。この夫婦はしたがって、ふたりとも他家からはいって森姓を継いだわけであるから、家を守る意識はむしろ普通の夫婦よりも強く、ほとんど一家を創始するような意気込みに燃えていたことは想像に難くない。清子自身も相当のしっかり者で、嘉永六年の大火に津和野の大半が焼けたときなど、他家に先んじてわが家を再建する才覚を発揮して、「彼処のおごう様は」と近隣の評判になったという逸話を残している。  こうした夫婦のもとでやがて生まれた男子は産後ただちに死んだので、次に生まれた林太郎の母・峰子は早くから森家の跡取娘として育てられた。幼時はからだも弱く、まして長男の夭折《ようせつ》のあとだけに彼女は両親の格別の保護を受けて成長した。そしてこの峰子の十五歳のとき、待ちかねるように婿養子として迎えられたのが林太郎の父となる森静男であった。静男は長門国三田尻の出身で吉次氏の次男であったが、このときすでに長崎に学んでオランダ医学を修めていた。婿としてとくに蘭医を選んだところにも、白仙という人物の進取の気象が読みとれるわけだが、選ばれた静男の方はいたって控えめな気の優しい人柄であった。  祖父君、みづからは斯《か》かる性情の人なりしかど、一人の愛女の壻《むこ》には、温かに優しき心ざまの人をとて、父君を迎へ給ひき。その前に、仲立する人、才あり心利きたる人どもを推して、万《よろ》づに足らひたるさまに語りなどすれば、さすがに祖母君は耳傾けなどし給ふを、祖父君は堅く戒めて。 「わしは年を取つてゐるし、家には産と云ふ程の物も無い。か弱い娘に頑《かたくな》な妻。このやうな家へ勝《すぐ》れた壻を望むなどは、此上《このうへ》もない心得ちがひぢや。どうか心の素直な、優しい人を壻にと心掛けるがよい。」  かく云ひ給ふが常なりきとぞ。まことに父君は此の祖父君の望みに協《かな》へる人柄とて、内にも外にも優しく頼もしき人に思はれ給ひき。(「不忘記」)  静男が、医者としても家長としてもとくに凡庸な人物であったというわけではあるまいが、喜美子の聞き書は、森家のひとびとがこの十三代目の当主をどのような気分で受け入れたかを、微妙に物語っている。女性の筆というものはときに残酷に真実を洩らすものだが、少なくとも静男については、こうした逸話が娘の耳にもはいるかたちで語られていたことを記憶にとどめておいてもよいだろう。舅《しゆうと》の白仙はせっかくオランダ医学を修めた婿を迎えながら、当初は実際の診療にあたらせるには若すぎるとして、家にとどめてもっぱら石州流の茶道を学ばせておいたという。静男もはじめは「閑人めきたる事よ」とこぼしながらもおとなしく従い、晩年にいたっては茶室に遊ぶことが唯一の趣味となったというような人柄であった。  じつをいうと白仙夫婦には、この静男のまえに彼とはあらゆる意味で対蹠《たいせき》的な、もうひとりの養子を迎えた経験があったのである。峰子がまだ幼いころ同じ石見国に高橋魯庵《ろあん》という人があって、その息子の順吉というのが眉目《びもく》は秀麗、頭脳も明敏のほまれが高かったので、九歳のときに貰いうけていったんは家族とともに暮らすことになった。順吉は藩黌《はんこう》の養老館でも抜群の成績を示し、交際にも如才がなくて患家のひとたちからは実子の峰子以上に可愛がられたらしい。ところがこの子にはどこか性格上の欠陥があったと見えて、言動にも不誠実なところが目立ち、五年ののちに白仙の怒りを買って離別されてしまった。その後さらに他家に貰われたもののそこにも落着かず、めとったばかりの妻も見捨てて、ついに藩を脱して江戸へ出奔した。江戸では達者なフランス語を生かして個人教授で生活をたて、一時は同郷の西周に近づいて沼津の兵学校に招かれる話まであったのだが、結局その約束にも義理を欠いて、最後には何者かの手にかかって非業な死をとげてしまったという。  いうまでもなく、「不忘記」に記された白仙の言葉もこの経験を背景においているわけだが、順吉の記憶が白仙夫婦にあたえた影響は心理的にすこぶる微妙なものであったと考えられる。静男を婿に選ぶにあたってその篤実な人柄が注目されたのは当然であったが、その反動として、おそらく順吉の俊敏さがことさら誇大に思い出されたのは、避けがたい人情であったにちがいない。そのことが静男自身に不幸として感じられたかどうかはともかくとして、白仙の没後、とくに清子と峰子に一種の「英雄待望」の気分を抱かせたことは想像にあまりがある。  白仙は静男に後事を托《たく》すとまもなく江戸邸の奥付となり、娘の懐妊は家書によって知ったものの、そのまま二度と家族の顔を見ることなく他郷の土となった。幸い静男が舅の跡を襲って典医にとりたてられ、一家は当面の危機を逃れたわけだが、それにつけても女たちの関心はいやがうえにも生まれて来た赤ん坊に集中された。林太郎は白仙夫婦が築いた新しい森家の最初の嫡男であり、かつて男児を失った清子にとって、二十年足らずの結婚生活はいわばこの子を見るために急いで来たようなものだったからである。  その正月の十九日に、母君産の気つき給ひ、健《すこや》かなる男の子を生み給ふ。これぞ我が兄君なる。神棚に燈明かがやき、祖母君涙さへ落して喜び給ふ。亡き人の旅の日記にも、初孫の顔見ん事を楽むなど、幾たびか記るし給ひつれば、これやがて祖父君の生れかはり給へるよなど云ひつつ、家の人人やうやく愁の眉すこし開きつ。いかで此ちご、よく生《おふ》したててと誰も誰も思ふ。  母となり給ひても、まだうら若くましませば、祖母君むねと引受けて育て給ひぬ。男の子の初児とて、あつかひいとむつかしく、夜啼《よな》きなどするを、夜も寝ずと云ふさまにて心づかひし給ふ。其頃住みける津和野川のほとり、常盤《ときは》橋のたもとなる中島と云ふ所を、知りたる人、さ夜ふけて通りかかれるに、ともし火あかあかとして人の打騒ぐけはひす。急病の人もやと立寄りて音なへば、幼なき児をあやすざわめきなりしかば、その事事しさに驚き笑ひて、人にも語りぬとぞ。(「不忘記」)  ひとめもかまわず取乱したような溺愛《できあい》ぶりに見えるが、清子も峰子もたぶん盲目的な感情に溺《おぼ》れて幼児をあやしていたわけではない。彼らがこの子に賭《か》けているものはたんなる虚栄ではなく、むしろここには不安な時代に生き残ろうとする一家の必死の気がまえがうかがわれる。家禄百五十石の森家は小さかったが、それにもまして彼らの仕える津和野藩は小さく、時代はしだいに波瀾《はらん》を含んでこの寄るべないひとびとのうえに襲いかかっていたからである。それがどういう時代であるか清子や峰子にわかるはずもなかったが、ただひとつ、彼らにもはっきりと予感できる新しい変化の胎動があった。それははなばなしい政権の交代でもなく西洋文化の渡来でもなく、ようやく加速度的に、彼らの社会が個人の才能というものを求め始めているという予感であった。何代もの蓄積によって生まれる富や権威の力に代って、有能な個人が一代で習得できるものが運命を決定する時代が来つつあった。知識や情報を身につけた青年たちに新しい生活の道が開け、したがって、男の子を育てるということにもこれまでにない緊張が加わっていた。西国の雄藩にはしだいに若き志士たちの擡頭《たいとう》が始まっており、一方、幕府の側でもつとに老中・阿部正弘を中心に、新官僚の登用というかたちで大規模な才能の育成が始まっていたからである。  こうした時代の動きはすでに津和野四万三千石の小藩にも及んでおり、清子や峰子にもそのことが身近な実感として感じられていたはずである。高橋順吉の出奔もその身近な波頭であり、彼らはそのほかにも何人かの脱藩者を知っていた。早い話が、彼らの近い親族に西周がいたわけだが、この明治の開明家は安政元年に津和野を脱藩し、幕府の新官僚となって蕃書調所《ばんしよしらべしよ》に任用されていた。そして林太郎が生まれた同じ文久二年、オランダ留学を命じられてライデン大学に派遣され、Vissering教授のもとで政治制度の研究にはげんでいたはずなのである。  奇妙な偶然によって、西周はむしろ森家の正系の血をひくひとであった。すなわち、白仙の養父にあたる森高亮には三人の男子があったが、そのうちの二男が西家に養われてそこで周を生んでいるからである。長男は早く夭折して、高亮としては三男を嗣子とするつもりであったが、この子はゆえあって長州に出奔し、やむなく佐々田氏から養子を迎えたのが白仙であった。したがって、西周と森静男とは義理の従兄弟《いとこ》にあたるわけで、しかも血の流れからいえば周は静男に生家をあけ渡したような関係であった。周の方ではそれをなにごととも思わなくても、清子や峰子がはなやかな周の存在をどのように意識していたかは容易に想像できる。  ついでながら、注意しておくべきことは、たとえ幕府に登用されても、当時まだ脱藩は形式的には犯罪であったということであろう。げんに津和野の藩主・亀井〓監《これみ》は周に帰国を命じる手紙を送らせているし、彼の脱藩の罪が正式に許されたのは明治二年のことであった。したがって、同じ洋学を修めながら、そういう危険をおかして中央に雄飛した西周と、つつましく田舎の家を守った静男とのあいだには、たんに才能の違いがあったばかりではなかったと考えられる。いわば歴史の割れ目の両岸に立ったふたりには、疑いなく、微妙で深刻なモラルのうえの対立があったはずなのである。  ふたりの対立をそのまま拡大して行けば、その先には近代日本における「公」と「私」の対立、いいかえれば「政治」と「文化」の対立という重大な問題が浮かびあがるであろう。のちに永井荷風がなげいた政治的国家の膨脹と、私生活の文化の破壊は、すでにこの時期の山陰の小世界にも始まっていたといえる。その場合、森家のひとびとにとってはあの高橋順吉の存在が、時代の破壊力のなまなましい象徴として見えていたにちがいない。西周が江戸でなしとげた成果に疑いの余地はなかったが、同時に、順吉がこの町になげ捨てて行った美しいものの意味もまたあまりにも明らかだったはずである。彼が捨て去ったものはたんに体制としての家や藩だけではなく、たとえば「元武様」と呼ばれる喜地雨神社の夏祭であり、長い冬籠《ふゆごも》りの百人一首のかるた取りであり、それらすべてを支える親や子や隣近所のひとびとの黙契であった。そして、そういうものを平然と抛《なげう》つことのできた順吉の才能は、ひとつ裏返せば、他国で横死をとげるような野蕃と背なかあわせに結びついていたのであった。  癇性《かんしよう》に夜泣きをする林太郎をあやす清子や峰子の心は、したがって、無意識のうちにも複雑に不安であったにちがいない。揺れ動く時代のなかで、一家の生存は疑いなくこの子の才能にかかっていたが、しかしその才能は、どこかで彼らの黙契の世界の破壊につながっているかもしれなかったからである。一方ではこの子を山陰の小世界からはばたかせるために、他方ではそれを彼らの家庭のなかにしっかりとつなぎとめるために、女たちの腕は二重の矛盾した願望をこめて無心の赤ん坊を抱きしめたことであろう。そのいじらしい姿は、おそらく当時の日本のいたるところに見られた光景であり、ある意味では、西洋世界のまえに立たされた日本国家そのものの姿の縮図であったともいえる。  しかし、幼児をまえに不安は心をかすめても、さしあたって清子と峰子が具体的にとるべき行動は明快であった。林太郎が六歳になって藩黌《はんこう》・養老館に学ぶようになると、清子は仮名つきの四書をとり出して孫の素読の復習を手伝い、峰子は息子とともに自分自身がいろはからものを読む勉強を始めた。幸い林太郎の才能には希望が持てたが、彼らにはそのことによって心を休める時間的な余裕はなかった。林太郎が学校の年次試験で優等の賞を貰ったとき、峰子が聞かせたという言葉はこのころの彼らの心境を端的にいいあらわしている。 「常の勉強の甲斐《かひ》があつて皆喜んでゐます。祖父様も定めてお喜びのことと思ひます。これにつけても、決して慢心してはなりません。今日お褒め下すつた方方のお目鏡ちがひになつては申訳がありませんから、まだ小さいけれど、此藩で若《も》し一番だと云はれるやうになつたとて、広い広い世の中に出ては、誰の目にも留まりますまい。浜の真砂《まさご》の数多いなかで真玉と人に撰《えら》ばれるやうに、今から心掛けて貰ひたいと思ひます。やがてお父様と御一所に東京へ上つて、諸国の人の中にまじつて、勝れた人となつて、家の名もお国の名も揚げるやうにして下さい。」 「不忘記」からの引用だが、この気負った教訓はたぶんこういう言葉で語られたのではあるまい。自伝的な性格の強い「ヰタ・セクスアリス」の記述によれば、林太郎の親たちは東京に出たのちもまだ次のような言葉でしゃべっていたと想像されるからである。 「精出して勉強しんされえ。鰐口《わにぐち》君でもどなたでも、長者の云ひんさることは、聴かにやあ行けんぜや。若し腑《ふ》に落ちんことがあるなら、どういふわけでさう為《せ》にやならんのか、分りませんちうて、教へて貰ひんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待つとるから、来んされえ。」  いずれにせよ峰子の言葉から教科書風の臭みを抜けば、これは長州でも薩摩《さつま》でもなく、まさに石州津和野の下層士族の切実な緊張を物語っている。事実、明治二年の版籍奉還は林太郎が養老館にはいって三年目の秋であり、藩の消滅にしたがってこの古い学校もまた閉じられてしまった。廃藩置県とともに藩主・亀井家は東京に移り、県庁所在地にもなれなかった彼らの町は急速にさびれた。やがて明治五年に十一歳の林太郎は父に伴われて東京に登り、四箇月後、神田小川町にあった西周の邸で書生生活を味わうことになる。  生涯の終りにあたって、その遺書に「余ハ石見人《いはみのひと》森林太郎トシテ死セント欲ス」と書いた鴎外だが、彼の作品のなかには津和野を描いた文章は意外に少ない。わずかに「ヰタ・セクスアリス」の冒頭に、真赤な椿《つばき》とからたちの薄緑を配した屋敷町の描写があるが、落着いた町のたたずまいはわかっても、それにたいする作者の痛々しい郷愁というものは感じられない。四周を山に囲まれた津和野は、山口の町からも篠目《しのめ》、徳佐《とくさ》の二峠によってへだてられ、大正の末年までは鉄道も通じない閉鎖的な土地がらであった。それだけに住民の土地への帰属感もひとしおであって、その感情を誇示するかのように夏には盆踊の盛んな国だったという。「ヰタ・セクスアリス」にはこの盆踊の記憶ものべられているが、しかしこれもまた、きわめて冷静な傍観者の観察として描かれているにすぎない。故郷にたいするある漠然たる懐しさはあったとしても、鴎外の郷土への帰属意識ははなはだ観念的なものであったと見ることができる。もし彼に郷愁というものがあったとすれば、それはむしろ、積極的な郷愁を持つことのできない一種の欠落感のようなものであったかもしれない。  その原因として、ひとつには森家が下級とはいえ士族の家であって、いきおい生活の環境にたいして抽象的な関係しか持ち得なかったということが考えられる。たとえば町の盆踊にも士族の子は顔を頭巾に隠して加わるのであり、とくに林太郎のような家の子は、それを見に行くにも母親の許しを得なければならなかった。その反面、彼らのまえには普遍的な知識の厖大《ぼうだい》な世界が開かれており、林太郎にとってはそれが完全なもうひとつのリアリティーを構成していたと想像される。「サフラン」という短篇のなかで、鴎外は「サフラン」という言葉を知ってその実物を知らなかった思い出を書いているが、この逸話は幼い林太郎の精神生活を的確に要約しているといえる。  私は子供の時から本が好きだと云はれた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波《いはやさざなみ》君のお伽話《とぎばなし》もない時代に生れたので、お祖母さまがおよめ入の時に持つて来られたと云ふ百人一首やら、お祖父さまが義太夫《ぎだゆう》を語られた時の記念に残つてゐる浄瑠璃《じようるり》本やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見てゐて、凧《たこ》と云ふものを揚げない、独楽《こま》と云ふものを廻さない。鄰家《りんか》の子供との間に何等の心的接触も成り立たない。そこでいよ〓〓本に読み耽《ふけ》つて、器に塵《ちり》の附くやうに、いろ〓〓の物の名が記憶に残る。そんな風で名を知つて物を知らぬ片羽になつた。大抵《たいてい》の物の名がさうである。植物の名もさうである。(「サフラン」)  養老館のカリキュラムによれば、彼は八歳までに四書五経はもとより左伝、史記、国語、漢書を読み終えなければならず、さらに九歳の年には早くもオランダ語の文典を習い始めている。関心のエネルギーの大半が書物の世界に吸収されたのは当然であって、その分だけ、現実の津和野にたいする感情的な交渉がさまたげられたとしても不思議ではない。  けれどもそれにもまして重要なことは、このとき林太郎の家族が、一家をあげて東京に移ったという事実であろう。森静男は維新後も亀井家の侍医としてその上京に随《したが》い、まもなく一家を呼び寄せて向島小梅村に居宅を構えた。このときまでに篤次郎と喜美子が生まれていたから、家族は六人になっていたわけだが、これがそろって「三百坪の地に茅葺《かやぶき》の五間ばかりの家」に安住の場所を見出すことができた。林太郎は進文学社でドイツ語を学ぶために西周邸に寄寓《きぐう》していたが、それでも週末にはこの家に帰って手足をのばすことができた。  東京における林太郎の家は貧しくはあっても、しかし、そこにはバランスのとれた生活の趣味があった。庭には築山《つきやま》があって松や楓《かえで》があしらわれ、苔《こけ》むした雪見燈籠《どうろう》のかげには広い菖蒲《しようぶ》畑もあって、静男はおりおりその燈籠に灯を入れて石州流の茶を楽しんでいた。また、井戸のかたわらには大きないちじくの木があって、夏ごとに紫色に熟したみずみずしい実を結んだ。父が黒塗金蒔絵《きんまきえ》の重箱に亀井家へ献上する分をとりわけると、あとは子供たちがもいで好きなだけ食べることが許された。ここには津和野の家庭をそのまま延長した生活があって、林太郎がそれに偽りない帰属感を味わうことができたことは想像に難くない。  いいかえれば、東京における森家は一家をあげて根なし草となったが、それだけに、私生活の文化をあたかも純粋培養のように保っていたといえる。もちろん文化といっても、それは青年時代の永井荷風が仰ぎ見たあの「江戸文化」のように華麗なものではない。荷風の母親が柿色の三升格子《みますごうし》の襦袢《じゆばん》を身につけ、彦三や田之助の役者絵に囲まれて暮らしていたのにたいして、清子や峰子にはせいぜい「偐 紫《にせむらさき》田舎《いなか》源氏《げんじ》」を愛読して、身辺を想像によって飾る生活しかなかった。しかしそれを裏返せば、永井家の「江戸文化」は華麗であるだけにどこか人工の匂いがするのにたいして、森家の生活感情には地についた無意識の安定があった。しかも荷風が悲しんだように、永井家の母の文化はつねに父によって代表される近代化の圧迫を受けていたが、森家の家族はそうした分裂のない均質的な教養を保っていた。  そしてなによりも決定的なことは、医者の家である森家には、その根柢《こんてい》にしっかりと職人生活の秩序が生きていたということであろう。喜美子の「不忘記」は静男が愛用した薬箱のことを書いているが、この美しい箱はその持ち主のイメージとともに、森家の日常が刻んでいた安定した生活のリズムを象徴しているように見える。  その薬籠《やくろう》よ、尺角ほどなる黒き革張の箱の、蓋を開けば中は紫天鵞絨《びろうど》にて張りたり。一寸ほどなる角型反口《そりくち》の瓶《びん》、幾つとなく列をなして並び、それに入れたる液体、粉末、丸薬まで、色とりどりなるも美しく、雛《ひな》の調度にもせまほしきさまなり。水薬はかるべきメエトルグラス、鼈甲《べつこう》の匙《さじ》、銀の匙、グラム計り、注射器など程よく収まりぬ。底は引出しになりて、散薬の包み紙、銀の長き卦算《けいさん》など入れたり。かく記るす程に、散薬つくる時のさま思ひ出でらる。父君の広き額、高き鼻、まだ其頃は眼鏡も用ひ給はず、胸掩《おほ》ふ髯《ひげ》をかき撫《な》で給ふ癖おはしき。先づ机の前に端坐して、布もて机の塵を拭ひ、さて包み紙幾枚かを並べ、卦算にて押へ置き、瓦計《グラムばか》りにて計りし薬幾種かを、銀の匙にて程よく分ち載せ、卦算を外づして、一枚づつ手際よく包み、よき程づつ続け重ねて袋に入れ、封じて印を押し給ふ。まだ医薬分業などむづかしき事なき世とて心安し。一般の患者のは書生に作らしむれど、殿のは必ず自らし給ふ。其折の父君の顔、態度は、全幅の精神を是《こ》れに傾注し給ふやうなれば、見る人もおのづから襟《えり》を正しぬ。調剤終りぬれば、皆それぞれに納めて薬籠を蓋し、金色の撮《つま》みを捻《ひね》り給ふ。持ち重りする紫縮緬《ちりめん》大幅両面の大袱紗《ふくさ》四方より畳み掛け、濃き緑の幅広き絹の平打十字に掛け、銀の金物にて止むるまで、さながらお茶の手前なり。その美くしく華やかなるを、父君二なき宝とし給ふ。  ここには、手仕事を通じて身辺のものに密約を結んだ人間の姿があり、それを尊敬することによってたがいに睦《むつ》みあうことのできる寡黙な家族の姿がある。毎日の営みが思想的な意義や国家的な有効性によって声高に励まされていなくても、なおかつ安定したリズムを刻んで正確に進行して行く生活がある。こうした父の姿は鴎外の胸に深く刻まれていて、のちに彼はその思い出を「カズイスチカ」という短篇にとどめている。  そこに描かれた老医師は宿場の医者たる境遇に安んじて、日々に営々とあらゆる患者に同じ態度で接している。なげやりな惰性でもなく、感傷的な社会奉仕家の態度でもなく、いっさいをひとつの「症例《カズス》」と見て、冷静に、しかし熱心に治療するのが彼の生き方である。老医師の息子である若い医学士はまだその境地に達しておらず、とかく病気が医学的に面白くないと治療にも熱意がこもらない。よく見ると父親のその姿勢は医術ばかりではなく、盆栽いじりにも茶をすすることにもあらわれていて、あらゆる生活の些事《さじ》にひとしく全幅の精神が注がれている。鴎外はそれを彼独特の「諦め《レジニアシオン》」の態度とも解し、また冷徹な科学者の態度ともとるのであるが、むしろこれは伝統的な日本の職人の姿だというべきであろう。いわばものの「意味」ではなくてものそれ自体の手触りに触れた生活であるが、東京における森家は、そういう生活を自然に明治のなかごろまで保持することができたのである。  しかも職人というものは技術に生きる人間であるから、その家庭はある意味できわめて近代的な雰囲気を持つことがある。彼らの人間関係は地位や財産によって固定されていないから、十分な技術を身につけた息子は自然に父親と対等になることができる。息子が一人前になれば父親は専制的な支配をやめるほかはないのであって、どんな一徹者でも職人の父親はどこかにそういう宿命を覚悟しているような側面がある。森静男はそういう意味でも「職人」的な父親であり、性格のうえでもとりわけ優しい庇護者であった。小金井喜美子の思い出によっても、子供を鞭撻《べんたつ》するのはおもに祖母の役割であり、父親は泣いている子供の頭を静かになでてくれるのがならわしであったという。  鴎外の精神史を考える場合、この優しい父親・静男の存在は思いのほかに大きかったといわねばならない。明治という政治的国家の大拡張期に、鴎外は偶然にも、政治というものにまったく無縁な人間を身辺に見て成長することができた。いいかえれば、国家を舞台にすべての人間が自我拡張をめざしている時代に、彼は自我拡張を根本から否定している人間のかたわらで青春をすごすことができたのである。  しかも、この非政治的人間はそれなりに近代社会のなかで積極的に生きており、たとえば荷風の母親のように生ける化石ではなかったことに注意しなければならない。荷風の母親は近代化に抗して滅びて行くものの象徴であり、それに自分を同一化《アイデンテイフアイ》した荷風はおのずから観念的な立場をとるほかはなかった。それにたいして、鴎外の父親は近代化に耐えて生きのびたものの象徴であって、むしろ日本の近代化は、おびただしい森静男のような人間によって底辺を支えられたといえる。そうして、滅びる者よりも生きのびる者の立場はつねに複雑なのであって、静男を父として愛する鴎外の態度はけっして単純明快なものではあり得なかった。「近代」にたいしても「日本」にたいしても、彼の姿勢は抗《あらが》うことよりも耐えることであり、その立場は現実に年とともに複雑になって行った。やがて鴎外はこの複雑さを自覚的に自分の態度として選ぶのであるが、その場合、不安な彼を無言のうちに励ましたのもこの父の思い出であったことは疑いの余地がない。  一方に、今は亡い森白仙の輝かしいイメージがあり、他方に生きた静男のつつましい姿があって、このふたつは一対の原理となって、若き林太郎を宿命的な「一家の父」として育てて行った。  彼には「勝れた人となつて、家の名もお国の名も揚げるやうにして下さい」という要請があり、それは同時に明治国家の時代的な要請でもあった。しかし彼の場合、つねにこの要求は、「カズイスチカ」の重厚で克己的な姿によってブレーキをかけられていた。「勝れた人」になることは、たとえば高橋順吉のように無制限な自己拡張の道を走ることではなく、あくまで優しい父として家族を庇護するためにこそ求められているものであった。「身を立て家を興す」ことは明治国家の公式のスローガンであったが、林太郎にとってはその「家」は空疎な名分ではなく、あの美しい薬箱のように身をもって触れられる実体であった。にもかかわらず、一方でこの難しい時代に本当に家族を守ろうとすれば、静男の生き方がそれだけで十分でないことも誰の目にも明らかであった。真に優しく家族のための父親となるために、林太郎は明治国家の要請に応えるという逆説的な道を歩まねばならず、そのことはまた当の静男によって公然と認められていた。  ふたつの原理はたがいに補いあうものであったから、林太郎の青春には、彼を外からひき割《さ》くものはあり得なかった。荷風のように父と母との対立もなく、のちの志賀直哉について中村光夫が指摘したような祖父と父親のイメージの対立もなかった。(中村光夫「志賀直哉論」)さしあたり林太郎のなすべきことはゆるぎなく明白であって、彼は着々と、十三代つづいた森家の「家業」を継ぐ道を進んで行った。  明治七年、彼は十三歳という異例の年齢で、当時ようやく整備されたばかりの東京医学校予科に入学した。幕府の西洋医学所を母胎とするこの学校はそのころまだ下谷の藤堂邸跡にあり、東京大学医学部となって本郷に移るのは明治十年四月のことである。できたての学校は制度的にもまだ不備があったと見えて、林太郎は若すぎる年齢を二歳ごまかして万延元年の生れとして入学した。家庭の要求が彼を急がせたわけだが、背のびをしていたのは林太郎ばかりではなく、彼を受け入れた明治政府もこの学校をつくるのに無理な力をふりしぼっていた。明治十年といえばおりから西南戦争たけなわの年であるが、この国難のときに政府は新校舎の建築を急ぎ、明治五年と十二年の二度にわたって天皇の行幸を仰いでいる。鴎外が十六歳で医学部本科生となったのはこの明治十年のことであるから、彼は本郷における東京大学医学部の最初の学生のひとりであったということになる。   ㈼ 闘う家長  静男は子供たちにとって立派な父親であったが、しかしなんといっても彼に課せられた本来の役割は、森家の家督を白仙から林太郎に受け渡す中継ぎであった。林太郎が年齢を水増ししてまで大学入学を急いだのは、経済的な理由もさることながら、家族のあいだに彼の成人を一日も早くと願う気分があったからにちがいない。かつて白仙がわざわざ静男の開業を遅らせたことを思い出せば、この正反対のやり方には、家族のあいだにだけ通じる一種の無言の了解がこめられていたように思われる。林太郎が大学にはいると静男はことさら長男を立てるようにして、峰子にむかって息子は自分には過ぎた子供であるというようなことを口に出すようになった。  だが、やがて平和な森家にひとつの事件が起って、林太郎ははっきりと静男をさし措《お》いて実質的な家長の地位につくことになる。この事件はいろいろな点で鴎外の精神史に決定的な意味を持ち、いわば彼の社会的な態度の原型をかたちづくった事件だったといえる。すなわち、明治十二年のおそらく春、弟・篤次郎に養子縁組の申し入れがあり、八分通り決りかけた話に林太郎が異議を申し立てて破談にするということが起った。  篤次郎は慶応三年の生まれでこの年十二歳であったはずだが、次男坊らしく剽軽《ひようきん》なところもあり、早熟な才気とあいまって多くのひとから愛される性格であった。学校の課外に得意な漢学を習うことになり、前年から因州の儒者・佐善元立《さぜんもとたつ》の塾に通っていたが、これが縁となって同じ因州出身の川田佐久馬から養子に貰いうけたいという話が起った。川田は維新の戦闘では官軍東山道先鋒《せんぽう》として各地に転戦し、当時は元老院議官に任ぜられて、同じ職にあった西周とも親交があった。彼には十歳ばかりの娘とさらに幼い男の子があったが、この男の子は生まれつき虚弱で川田の期待に副《そ》わないところがあったらしい。ひと目見るなり篤次郎が気に入ったということで、思いきった好条件のもとで養子縁組の話は急テンポに進もうとした。小金井喜美子の「次ぎの兄」によると、篤次郎自身もこの申し出に悪い気はしなかったようで、日曜日には番町辺の川田の邸へすすんで遊びに行くような仲になっていた。邸には広い花畑や釣のできる池などがあって、川田の娘は篤次郎をさして「あれはわたしのお聟《むこ》さんになる人よ」といったりした。  西周の口ぞえもあってこの縁組はほとんど実現したものと見なされていたのだが、そのうちに川田の側から、財産譲渡の条件について若干の変更を申し出て来た。最初は資産のいっさいを篤次郎ひとりに譲るような話であったのを、川田の親類の反対もあって、いくらかを病弱な実子のために留保したいという趣旨であった。もちろんこの種の交渉にはつねに微妙な陰影がつきまとうもので、このときの申し入れの気分が実際にどういうものであったかはわからない。仲に立った佐善元立の態度が、森家の側には儒者にあるまじき功利的なものに見えたということもわざわいした。とにかくここで林太郎がにわかに強硬な反対を唱え、一気に家族を説き伏せて破談にまでつき進んでしまったのである。 「財産譲渡の額の多寡などもとより問題ではない。唯、男が一旦明言した事を傍からの故障の為《ため》などに左右される様では、後の事が思ひやられる。まして其《その》事情を自分で話すでもなく、使の口上でいふとは誠意が無さ過ぎる」(「次ぎの兄」)  というのが林太郎の主張であったが、これは要するに川田という人物を人間として信用しないということにほかならない。維新の功労者であり西周の友人でもある人物にたいして、この不信の表明は森家にとってけっして容易なものではなかったはずである。川田は「他人が何といおうと己の気持は篤がよう知つて居る」と語っていたというし、篤次郎もまた子供心に川田にある愛着を感じていたらしい。にもかかわらず静男は長男の主張に一言の抗弁もせず、いわば自分の過失にもなる破談の宣告にすなおに賛成した。性急に一日のうちに結論が出て、川田家へは十八歳の林太郎がみずから乗りこんで断りを述べた。そののち静男が西周のもとに報告に行くと、周は事前に相談がなかったことを残念がって、「何せよ林もまだ若いからなあ」と述懐したという。  明らかにこのときの林太郎は感情に駆られていたのであって、その感情の一部は、ほかならぬ西周そのひとにも向けられていたと想像してよい。おそらくこのとき、彼は家の外にもうひとりの庇護者《ひごしや》があらわれるのを見て、そのまえには父親が十分な庇護者であり得ないと現実を痛感したのである。西も川田もそれぞれに善意をもってのぞんだのであろうが、しかしその善意がもうひとりの「父」としてあらわれるかぎり、林太郎にはそれは「家」の名において許せないものであった。なぜなら、それは有機体としての「家」の統一を分割しようとするものであり、生命にふたつの中枢をあたえてかえってそれを殺そうとするものにほかならないからである。しかも西も川田も、その強力な庇護能力は明治国家の政治に参加することによって得たのであり、森家の無力はそれが純粋に私的な家庭であるということに由来していた。いわば林太郎はこの事件をきっかけとして、はじめて「公」の力が私生活の文化と正面から対立し得るという事実に気づいたのである。  さらにこのとき、はからずも彼の心を、養子である父親にたいする強いアンビヴァレンスがかすめたということが想像される。男の子はえてして父の横暴を憎むものであるが、その反面、父親にたいして強力な支配者のイメージを求めるものでもある。優しい父親に愛《いと》しさを感じながらも、林太郎の心に、実の弟を他家に出す父にさからう感情が潜んでいたとしてもふしぎではない。いずれにせよこの場合、林太郎のとるべき行為はただひとつしかなく、それは彼自身が外にたいしては強力な父親として立ちあがることであった。そのことがのちに彼の精神にどんな大きな犠牲を要求するとしても、彼はこのときほかの選択というもののあり得ない状況におかれていたのである。自分が何を約束しているかおそらく本当には気づかないままに、彼は事件のあと父と母にむかって、 「いはば此度の話は僕が破つた様なものですから、今後一生、篤の事は引き受けますから」  と広言した。  これ以来、林太郎が一家の「父」であることは森家の公然たる了解となる。明治二十一年、林太郎の留学中に妹・喜美子の縁談が起ったときにも、一家はその決定が長男にゆだねられていることを当然のように振舞っている。相手は東京大学医学部教授の小金井良精であったが、良精はそのころ病身で森家では本人も両親もさして急ぐ気持はなかったらしい。しかし、林太郎がドイツから電報でこの縁談を急いで進めるように指示すると、喜美子はそれに従って兄の帰国を待つこともなく小金井家に嫁いでしまう。一方、林太郎は良精に直接手紙を書いて、妹の将来をとくに自分の口からねんごろに頼んでいる。彼が良精に好意を抱いたのがなぜであったかつまびらかではないが、一応この話を仲介したのが親友の賀古鶴所《かこつるど》であったということも、その理由であろう。ただ小金井家が維新に際して賊軍となった長岡藩の出身であり、しかも良精は若くして父を失い、病躯《びようく》に鞭《むち》うって家を興したという事実は注目に値いする。寡婦となった母を助けて、良精は文字通り時代に容《い》れられぬ家の家長だったのであり、林太郎がそこに自分と同質の戦友を見出したということは容易に推察できることであろう。  いわばこうした「闘う家長」にたいする鴎外の同情は、その後一貫して、彼の文学と実生活の両方にあらわれている。  処女作というべき「舞姫」の主人公・太田豊太郎は母ひとり子ひとりの境遇にあり、彼が心を迷わせる相手のエリスもまた父を失ったばかりのひとり娘であった。生涯の掉尾《とうび》を飾る大作「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」においても、主人公の抽斎は志を世に容れられぬ家長にほかならず、その子の澀江保も、時代の激動期に一家を支えて苦闘する家長として描かれている。このふたつの作品のあいだに、鴎外は「家長」的な主人公をおびただしく描いているが、なかでも「羽鳥千尋《はとりちひろ》」や「最後の一句」は、彼の独特の「家長」観を端的に示したものだといえるだろう。たとえば羽鳥千尋はすぐれた才能を貧困と病気にはばまれた長男であり、鬱勃《うつぼつ》たる志と責任感もむなしく青春のなかばに倒れた青年であった。また「最後の一句」では、死罪に問われた父の身代りに立とうとする長女が主人公であって、幼い弟妹をひきいた少女の絶望的な献身と抵抗が描かれている。どちらの場合も、家長であることは鴎外にとって人間の無力のイメージと結びついており、運命が主人公に課した身の不幸と見なされていることは注目に値いしよう。  また実生活においても、たとえば樋口一葉にたいする鴎外の同情は有名であるが、これも彼女が苦闘する若き家長であったこととおそらく無縁ではないであろう。鴎外は一葉の作品を推奨するにあたって、その文体の美しさとあわせて、とくに「処女には珍しき閲歴と観察」に注目して敬意を表している。この「珍しき閲歴」とはいうまでもなく、没落士族の娘として女の身で家督を継ぎ、母とともにあらゆる生活の辛酸と屈辱に耐えた一葉の半生を指しているのである。この健気《けなげ》で、いささか偏狭な女家長の生き方を、鴎外はのちに、「最後の一句」の主人公・桂屋いちの姿を描くときに思い出していたかもしれないのである。  それにしても、篤次郎の養子問題に見せた鴎外の激越な態度に接するとき、誰もが連想するのは、ドイツ留学中に彼が行ったナウマンにたいする論争の激しさであろう。彼の青春にはときどき異様に挑戦的な瞬間が見出されるのであって、後年の坪内逍遙や石橋忍月との文学論争も、むしろその態度の過激さによって文壇の注目を惹《ひ》いた。ところでこの激しさが、鴎外においては一転して冷然たる静観的態度と併存しているために、混乱した読者はそこにあるいは一種の性格の分裂を読みとるかもしれない。あるいは激しい怒りには威圧を感じ冷静さには侮辱を感じて、それを単純に鴎外の傲慢《ごうまん》さのあらわれと見る批評もないではない。しかし、彼の生涯にいま「闘う家長」というイメージを持ちこんで見ると、この激越さと静寂主義はきわめて自然にひとつの本質に結びついていることが理解できる。冷静な傍観主義は「父」というものの本来的な姿勢であり、その反面、外からの脅威を感ずれば家長は家を守って敢然と闘いに立たねばならないからである。  たまたま鴎外にとって西洋世界に直面した日本の状況は、そのまま養子問題をめぐって川田佐久馬に対峙《たいじ》した森家の姿に置きかえることができた。どちらも力弱く、外的な力に父権を脅やかされた「家」なのであって、それが実感できるかぎり、鴎外は国家のためにも躊躇《ちゆうちよ》なく闘うことができた。おそらく生涯の終りにいたるまで、鴎外の国家観は、この「国家」と「家庭」との緊密なアナロジーによって支えられていた。逆にいえば、彼の愛国心はこのアナロジーがなり立つかぎりにおいて励まされたのであって、やがて歴史がこの図式を裏切り始めたとき、彼は矛盾に悩み、なんとかして自分のアナロジーを拡張しようとして苦慮するのである。  繰返し注意しておくべきことは、明治政府の多くの高官たちと違って、鴎外の青春には、「国家」に参加するにあたって「家庭」を捨てるという瞬間がなかったことであろう。新しい国家に参加することはこの時代の公認の正義であったが、しばしばこの正義は、人間の私的な帰属にたいする冷酷な思いきりを要求した。具体的にいえば、藩主を裏切り郷党に叛《そむ》き、父を中心とする血縁の秩序を捨てることであって、それは同時に、「元武様」の夏祭りを見捨て、石州半紙で裏打ちした百人一首の札を投げ捨てることであった。その瞬間、「政治」は「文化」を裏切り始め、気負った青年の心に微妙な荒廃が芽生えるのであるが、もちろん、正義の観念に酔った熱狂的な若者にはそのことが自覚されるはずはない。だが、鴎外にはそういう熱狂がなかったばかりか、むしろ、その熱狂にひそむ野蕃《やばん》を敏感に嗅《か》ぎつけるための材料がそろっていた。もっとも明白な事例は、野心のなかに荒廃して行った高橋順吉の生涯であり、より直接的には、つねに父親の静男と対比される「成功者」、西周の姿であったにちがいない。かつての脱藩者で今は元老院議官を勤める西周は、いわば明治の有力者の典型的な存在であり、「公」の世界で触れあうかぎり、鴎外は彼の見識や行動をいささかも疑う理由はなかったであろう。しかしいったん、この成功者が父・静男と対立する姿をとったとき、鴎外の目はいやおうなく、彼の正義のなかに高橋順吉の荒廃が含まれていることを見抜いたはずなのである。  そしておそらくこの幼少期の感受性が、鴎外を愛国者にはしても、国家主義者にはならせなかった重要な原因となったように思われる。国家の秩序にたいする忠節は尽しながら、彼はある種の官僚主義者にたいしては早くから敏感な嫌悪を見せている。自分自身はのちに軍医総監にまで進みながら、一方では、反国家の蕩児《とうじ》ともいうべき永井荷風に暖い理解を示しもした。「金巾《かなきん》の白い襯衣《しやつ》一枚、その下には赤い筋のはいつた軍服のヅボンを穿《は》いて」、まるで「書生のやうに」二階の書斎に現われる鴎外の姿を、荷風は懐しさに耐えかねた様子で書き残している。(「日和下駄」)いわば永遠の「子」として統治者に背中を向け、父性愛に餓えながら父に叛《そむ》きつづけた荷風の鋭敏な神経に、鴎外の印象がこういう甘い想い出を残させたのは、たぶん偶然のことではないはずである。  あらためて中期から晩年にかけての歴史小説を読みなおしても、それらが国家や社会のさまざまな問題に触れながら、ほとんど例外なく「不遇な家長」の主題をあたかも強迫観念のように繰返している事実に驚かされる。「阿部一族」や「護持院原《ごじいんがはら》の敵討《かたきうち》」はもちろん、「高瀬舟」も「山椒大夫《さんしようだゆう》」も「ぢいさんばあさん」も、さらには「大塩平八郎」や「栗山大膳」ですら、それぞれ違ったスタイルとモチーフとを見せながら、一面、危機に立つ家長の苦闘の物語として読むことができる。  たとえば「高瀬舟」は、それが安楽死の問題を扱っていることで有名であるが、しかしこの場合、罪に問われているのが二人兄弟の兄であり、彼が殺すことによって救ったのがその弟であるという事実を除いて、作品の感動はなり立たない。主人公の喜助は、病身の弟を一家の長として引き受けていたのであり、彼を養い、彼を庇護する無限責任の延長として弟の自殺を助けたのだといえる。肉親であればこそその行為は彼にとって恐るべき苦痛であったが、そこまでの責任をとり得る者も、また一家の長である彼のほかにはなかった。喜助は一種の満足の表情を浮かべて流刑の地に向かうのであるが、それはおそらく、安楽死という困難な問題をそれ自体として解決したという満足ではあるまい。彼にとって、自殺幇助《ほうじよ》は公的な社会の次元では明白な罪なのであって、ただ家族という私的な世界でのみ、ほかに逃げ道のない正義として感じられていたにすぎないだろう。にもかかわらず、彼にとってはこの私的な世界が十分な重みを持っていて、そのまえには公的な裁きもさして恐るるにたりないものに見えたということにちがいない。とるにたりない職人の家族とはいえ、喜助の果した責任はひとつの世界を統治する行為であり、その意識されない自恃《じじ》の感情が、彼に独特の落着きと名状しがたい威厳とをあたえていたのである。  さらにまたたとえば「大塩平八郎」は、ひとりの革命家の行為を描くと見せて、じつはこれも「高瀬舟」の喜助をちょうど裏返した家父長の姿を描いている。主人公を支配しているものは革命家の自信に満ちた昂揚《こうよう》ではなく、むしろ中年の家父長をとかくゆさぶりがちなあの独特の不安の影だからである。青年を励まし、叛乱《はんらん》を計画したのはたしかに平八郎そのひとであったが、出陣をまえに自邸を打ち毀《こわ》すもの音を聞きながら、彼は自分の意志が少しずつ速すぎる勢いで運ばれて行くのを感じている。平八郎を運んで行くのは彼がみずから育てた弟子たちであるが、しかし彼らは、もはや平八郎の手では統御できない力で動き始めてしまった。論理的な意味で、弟子たちに裏切られたとはいえないにもかかわらず、なぜかこの指導者は、自分の意志が過剰な力で増幅されて行くことに不安を覚えている。いいかえれば、彼は自分であってしかも自分でないものの成長に怯《おび》えているのであるが、これはいうまでもなく典型的な父親の不安以外のなにものでもあるまい。刻々に成長して行く家族に自分を一体化し、ついには一体化しきれないものになおも一体化を迫られるのは、革命家でなくとも一家の父親が誰しも知る不安だといえるだろう。  だが、わけても興味深いのは「栗山大膳」という作品であって、この主人公と彼が仕えた筑前《ちくぜん》・黒田家の関係のなかに、われわれは鴎外の国家にたいする感情を象徴的に読みとることができる。江戸幕府が三代将軍の時代になっても、栗山大膳にとって、黒田家はいまだ純粋に政治的な「体制」ではなく、むしろ戦国期からそのままつづいた家庭的な愛情の対象であった。藩主の忠之は年齢も大膳より十歳あまり若く、大膳は藩主にたいして精神的にも庇護者としてのぞむ立場にあった。しかし、時間はいつかこの関係をゆがめることになり、やがて忠之は子飼いの寵臣《ちようしん》として若い十太夫をとりたて、藩政の運営もしだいに大膳の関与を遠ざけるかたちで進めようとした。当然、家中の綱紀が急速に乱れるのを見かねた大膳は、藩主を諫《いさ》めようと試みてかえってうとんぜられ、君臣の関係はまもなく最悪の状態にまで突き進んでしまう。ここで大膳は策を案じて難局を一気に打開しようとするのであるが、その企てはまさに尋常の家臣としては大胆不敵というべき奇策であった。すなわち、幕府にたいして藩主・忠之に逆心があるとの偽りの訴えを起し、その取調べの場所をかりて、彼は家中の不正を一挙に明るみに出そうという計画を立てる。幸いに計画は成功して、佞臣《ねいしん》・十太夫は追放され、黒田家も安泰のうちに綱紀を正し、大膳自身は盛岡・南部家に預けられることで事態は落着する。鴎外は、主人公の悠然たる晩年の生活にまで筆をのばして物語を終るのであるが、この栗山大膳の特異な行動に作者自身の深い共感がこめられていることは一目瞭然であろう。  最大の興味の焦点は、黒田家において急速に無力化して行く大膳の地位と、それにもかかわらず、彼が主家にたいして抱いている強烈な庇護者意識との対照であろう。彼はすでに統治者としての現実的な力を失っており、ふたたび自分が藩政の中心に復帰する望みも抱いてはいない。にもかかわらず彼は藩主を見かぎろうともせず、逆にその意向に服従しようともせず、むしろ高飛車ともいうべき態度で藩主を教導しようと試みるのである。注目すべきことは、逆境のなかで大膳にいささかの被害者意識もなく、したがって感情的な恨みも反抗心も認められないということであろう。一方、彼は自分の危険な企てに毫末《ごうまつ》の躊《ためら》いも覚えず、藩主にたいして、あたかも幼児の尻を平手で打つような仕打ちを冷静にやってのける。恐るべき優越意識と無私の愛情の結合であるが、不遇の大膳をそうさせたのはおそらく彼の「思想」というようなものではなかったであろう。現在はともあれ彼は前の藩主・黒田長政の遺言を聞いた家臣であり、忠之とともにその柩《ひつぎ》を前後から担って野辺送りをしたという確実な記憶がある。そこから生まれる黒田家への一体感と自負の意識は、いわゆる儒教的な「忠節」の観念というより、むしろ年老いた家父長の動物的な本能に近かったという方が正確であろう。  栗山大膳のこうした人間像に、鴎外が特別の興味と共感を寄せた理由はさまざまに推察することができる。彼がこの作品を書いたのは大正三年九月であり、明治もいよいよ過ぎ去って、国家ははっきりと近代的な政治体制としての全容をあらわしつつあった。「国家」と「家庭」とのアナロジーは急速になり立ちにくくなり、鴎外がしだいにそのなかで年来の異和感を不動のものにしていることは想像に難くない。実生活においても彼はこの作品を書きあげてほぼ一年の後、大正四年十一月には陸軍省を退官する最終的な決意を固めている。戦国期も過ぎて江戸幕府三代目の栗山大膳の世界は、主人公の不遇も含めて、作者には身につまされる鮮明なイメージをあたえたことは疑いの余地がない。しかし、そうであればこそ一層われわれの注目を惹くのは、鴎外がそのなかで特にこの主人公に心惹かれ、不当に遇されてなお被害者意識のまったくない人間像を描こうとしたことであろう。大膳の最後の反撃は、もちろん現実の鴎外にとってははかない夢にすぎなかったが、われわれはその夢のなかに彼の心中を去来した苦渋の思いを読みとることができる。現実の国家が目のまえでいかに急速に大きくなって行っても、彼はどうしてもそれにたいして、自分を「子」として位置づける感受性を身につけることができなかったのである。  さらにこの栗山大膳と一対をなす人物として、われわれの印象に残るのは、彼が「椙原品《すぎのはらしな》」のなかで描こうとして果さなかった伊達《だて》綱宗の姿であろう。  私は品川に於《お》ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、余程久しい間、其《その》結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善くし、筆札を善くし、絵画を善くした。十九歳で家督をして、六十二万石の大名たること僅《わづか》に二年。二十一歳の時、叔父伊達兵部少輔宗勝を中心としたイントリイグに陥いつて蟄居《ちつきよ》の身となつた。それから四十四歳で落飾するまで、一子亀千代の綱村にだに面会することが出来なかつた。亀千代は寛文九年に十一歳で総次郎綱基となり、踰《こ》えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正《いちのかみ》宗興の表面上の外舅《がいきゆう》となり、宗勝を贔屓《ひいき》した酒井雅楽頭《うたのかみ》忠清が邸での原田甲斐《かひ》の刃傷《にんじよう》事件があつて、将《まさ》に失はんとした本領を安堵《あんど》し、延宝五年に十九歳で綱村と名告《なの》つたのである。  私は此《この》伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧《れいり》で気骨のあるらしい品《しな》とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此企《くはだて》を放棄してしまつた。  この作者の言葉の通り、「椙原品」はむしろ創作のための覚え書ともいうべき作品であるが、かえってそれだけに、重要な手がかりを裸のかたちで示してくれる。すなわち、鴎外の心を惹いた伊達綱宗は、たんなる傍観者ではなくて、まさに「父」として傍観する人物であったということである。綱宗は豪邁《ごうまい》な性格で蟄居の生活に少しも心をくじかれず、「品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子《ガラス》板四百余枚を嵌《は》めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つた」といわれる人物であった。その豪邁な父親が恐るべきあの「伊達騒動」に見舞われ、二度も毒殺の危機に遭う嫡子の運命を瞬きもせずに見つめているのが、鴎外のいう「純客観的に傍看」することの内容なのである。綱宗には栗山大膳に残されていた最後の反撃の機会さえ奪われていたが、しかし、彼の傍観はそれに匹敵する気魄《きはく》を内に秘めた傍観であった。父親として、綱宗の不安はたぶん大塩平八郎に数倍するものがあったであろうが、それにもかかわらず、彼は目をそむけないというかたちで「高瀬舟」の喜助と同質の責任に耐えていたといえる。骨肉あい喰《は》む一族の行くえを最後まで凝視してひるまない綱宗の表情は、もし鴎外が正面から描いていたなら、おそらく瀕死《ひんし》の家族の枕頭で腕を組んで安楽死を考える父親の姿に似ていたであろう。ちなみに、現実の鴎外はこの作品の執筆のときから約七年まえ、余命二十四時間と宣告された長女・茉莉《まり》のために、一度はモルヒネの致死量注射を決意した経験を持っていたのである。  十八歳の林太郎が不敵にも元老院議官を向こうに廻し、弟の養子縁組を断って「今後一生、篤の事は引き受けますから」と胸を張ったとき、もちろん彼は自分が何を約束してしまったかに気づいてはいなかった。だが、この約束は思いのほか深い含蓄を秘めていたのであって、彼はこのとき、矛盾するふたつの人生態度を身につけることを誓っていたのだといえる。すなわち、一方ではすべての問題に責任を取る庇護者の態度を貫きながら、それと同時に、他方ではつねに政治的な統治者に一線を劃《かく》する「私」の態度をとりつづけることであった。ほんらい家族の長とは、より強い者のまえに弱者を庇護する立場であって、本質的に「無力な強者」とでも呼ぶべき矛盾をはらんだ存在だといえる。六十年の生涯に国家にも触れ世界にも触れた鴎外であったが、彼はいつもそのなかで、無意識のうちに「無力な強者」の位置を求めて揺れ動いていた。いいかえれば、政治の次元で純粋な「子」の立場をとることもできず、しかし絶対に、純粋な「統治者」の立場に落着くこともできないのが鴎外の苦しみであった。一方で永井荷風を愛し、他方で明治の元勲・山県《やまがた》有朋に知己を得ながら、結局、彼の感受性はそのどちらにも自分を重ねあわせることができなかった。その鴎外が五十歳にいたって心惹かれた栗山大膳や伊達綱宗は、まさに彼の生涯の矛盾を爆発寸前にまで凝縮した姿であったといえるだろう。やがて彼の文学的関心は国家との触れあいを離れ、ますます純粋にひとりの家父長の生活に集中して行こうとする。「椙原品」の筆を怱々《そうそう》のうちに擱《お》いたその同じ月、すなわち大正五年の一月、巨大な家族年代記というべき「澀江抽斎」の執筆が始まっているのである。  けれども、人生を家父長の態度で生きようとするとき、その精神をひきさくものはたんにこの矛盾ばかりではない。「父」であることはもうひとつの、より本質的な矛盾を含むのであって、いわばそのことが、「父」を政治的な「統治者」から決定的に区別するのだといってもよい。  すなわち、「父」にとって家族は絶えまなく彼に一体化を求めながら、しかも宿命的に、「父」の一体化を拒むようなしかたで成長して行く存在なのである。いつの世にも成長した家族に融《と》けこめない父親は無数にいるが、それは必ずしも「父」の個人的な欠点や家族の冷酷さのせいではない。成長するということが、つまりは「子」が「父」になることである以上、無用になって行くのは「父」の生物学的な宿命にほかならない。にもかかわらず、一方、家族はどこまでも父親自身の生きのびた生命であって、彼はたとえ自分に離反した家族すら無縁の他人として切り捨てることはできない。いいかえれば、「父」は刻々に自己の一部が他人になって行く過程を生きるものであり、皮肉にも家族の養育とはこの自己否定をみずからの手で進める行為だといえる。  さらに困ったことには、人間の家族にはそれぞれ家庭としての志と秩序とがあり、家父長の役割はその志と秩序を維持することにあると考えられている。どの家庭もそれぞれにどの程度の教育水準を保つかという常識があり、どの程度の豊かさをめざすかという暗黙の了解がある。そのために家族を訓練し、そのために必要な志気を鼓舞するのは、時代を問わず家父長の当然の義務とされているのである。けれども、これはいうまでもなく父親の生物的な役割とは矛盾する義務であって、むしろ、なにがしか政治的な統治行為に似ているといわなければならない。志も秩序も、それがよく機能するためには時間的な変化を超えていなければならず、したがって、生理的には刻々に衰える父親が、その反面、家庭のなかの絶対を代表するという矛盾に苦しまなければならない。したがって「父親の頑固さ」は、じつは家庭の構造そのものが彼に担わせた宿命であり、にもかかわらず、それを憎悪し嘲笑《ちようしよう》するのもまた家庭の本質だというところに、父親の永遠のアイロニーがあるというべきであろう。  これにたいして政治的な「統治者」は、あらゆる意味で、一家の長たる者の正反対の立場にあるといえる。なによりも、彼は統治する他人を自己の存在の一部に編入するのであって、統治の拡張はとりもなおさず「統治者」の自己拡張にほかならない。五人の子を持つ父はけっしてひとり息子の父よりも大きくはないが、五人の他人を支配する者は明らかにひとりを治める者より大きいと考えられる。しかも、「統治者」は自分の存在を永遠化して、生物的な時間の流れにさからおうとするのが本質なのである。かつての帝王たちが政権を神聖化し、今日の政治家が支配にイデオロギー的な理念を持ちこむのは、このためだといえる。神格もイデオロギーも時間を超えた永遠性がその内容であって、それを足場として立つかぎり、「統治者」はいつまでも自己の内的な衰えに脅やかされることはない。かりに物理的な力に敗れて統治の座を去ることがあっても、彼はなお、神やイデオロギーの名のもとに胸中の幻の王国を支配することができる。少なくとも、彼は他人の手によって偶然にも倒されたのであり、自己の内側の必然的な力に敗れたのではないと信ずることによって、絶望は浅いのである。  ある意味で、政治的な「統治者」は、家族のなかに移せばむしろ「子」の立場に似ているというべきだろう。彼は存在の出発点から明確な他人と対決しており、そのことによって自分自身の身許《みもと》証明もまた明確だからである。説得するにせよ脅迫するにせよ、自分の主張と要求が明確でない人間に他人を統治する機会はあり得ない。同様に家族のなかの被保護者もまた、生存と成長を目的として自分の要求するものを躊《ためら》いなく知っている。これにたいして家父長というものは、家族を作るにあたって、出発点で主張し得るいかなる要求も持たないことは明白であろう。理想的な家庭を作ろうと夢見る父親は多いが、それにしても、彼は特定の理想のために家庭を作るわけではない。なによりも、父親にとって家族の形成は自己の内部から他人を生み出すことにほかならないのだから、彼には出発点でそれに対決して、自己の立場や要求を確認すべき他人というものがあり得ないのである。  じっさい「泣く子と地頭」の俗諺《ぞくげん》が的確に示しているように、人生を「子」として生きる人間と、横暴な「統治者」として生きる人間は、現実の生活態度においてもいちじるしく似ているというほかはない。政治的な独裁者が、しばしば私生活においてはみじめな被害者意識の塊だという例は珍しくない。逆に、文学者であれ革命家であれ、公的な社会における反抗者が、私生活のなかでは驚くべき暴君である場合はあまりにも多いのである。太宰《だざい》治の家庭悲話など今さらいい立てるまでもないが、たとえば求道的な革命家・河上肇の自伝を読んで、このひとの家族にたいする異様な独善に驚かぬ読者は少ないであろう。いったい、わがままな暴君が甘えの気分から社会的反抗者になるのか、それとも反抗者の強い使命観が家族など眼中にもない気分にさせるのか、おそらく因果関係はそのどちらでもあるといえよう。だが、いずれにせよまちがいのないことは、彼らが自分の存在感に本能的な確信を抱いており、甘えであれ使命観であれ、自己の内に発するものに迷いも疑いも感じない幸せに恵まれていることであろう。もし迷いが生ずれば、彼らにとってはその迷いの苦しみがふたたび自分の存在の美しい証拠となる。もちろん、他人の存在を前提とし、それがあって初めて自覚される自己である以上、彼らが内に感じているものを厳密な意味で「近代的自我」と呼ぶことは許されない。しかし、少なくともそれが機能において「自我の陰画」として働くことは確実であって、日本の疑似的な近代社会は明らかにこの種の人間にとって生きやすい世界なのである。  そして、このタイプの人間が人生をなりふりかまわず押し渡るとき、宿命的に「父」として生きる人間は、そっと傍らに避けて彼らに「諦念《レジニアシオン》」のまなざしを向けるほかはあるまい。この二種類の人間の関係が「父」と「子」の関係である以上、「父」の側には微《かす》かな悲しみはあっても、怨恨《えんこん》や反抗心が生まれるはずがない。しかし同時に同じ理由で、彼には天性の庇護者として、絶対的な優越の感情が失われるはずもないのである。  こうした複雑な内容を持つ鴎外の「諦念《レジニアシオン》」の心境は、これまでさまざまな論議にさらされながら、もっぱらさまざまな誤解を蒙《こうむ》って来たにすぎなかった。彼の述懐はおおむね、社会的敗北者の愚痴として受けとられるか、そうでなければ社会にたいする傲慢な蔑視《べつし》の表現として受けとられた。鴎外自身、自分の感情の本質をみずから掴《つか》みかねていたふしがあって、まして、それを言葉にして表わすことの難しさには焦燥すら感じていたように思われる。明治四十二年の「予が立場」などは、いわばこの焦燥のやぶれかぶれの表現だといえるだろう。  併《しか》し何と云はれたつて、云はれ序《ついで》だから云ひませう。私は田山(花袋)君のやうに旨《うま》くないと云はれても、実際どうでもない。田山君も正宗(白鳥)君も、島崎(藤村)君も私より旨くて一向差支《さしつかへ》がないやうに感じてゐます。それは私の方が旨くても困りはしません。併しまづくても構ひません。ちつとも不平が無い。諸君と私を一緒に集めて、小学校のクラスの席順のやう並ばせて、私に下座にすわつてお辞儀をしろと云ふことなら、私は平気でお辞儀をするでせう。そしてそれは批評家の嫌ふ石田少介流とかの、何でもぢいつと堪へてゐるなんぞと云ふのではありません。本当に平気なのです。(括弧内・著者)  私の心持を何といふ詞《ことば》で言ひあらはしたら好いかと云ふと、Resignationだと云つて宜しいやうです。私は文藝ばかりでは無い。世の中のどの方面に於《おい》ても此心持でゐる。それで余所《よそ》の人が、私の事をさぞ苦痛をしてゐるだらうと思つてゐる時に、私は存外平気でゐるのです。勿論《もちろん》Resignationの状態といふものは意気地のないものかも知れない。其辺は私の方で別に弁解しようとも思ひません。  自分の発言を「愚痴だ」「厭味《いやみ》だ」と批評されて、それにたいする応酬としてはおよそ無意味な答えなのだが、要するに彼が訴えたいのは、「(私は)本当に平気なのです」というひと言であろう。だが、この言葉がまたしても誤解を招くのは、それを聞くひとびとが、身辺にもっぱら人生を「子」として生きる人間か、そうでなければ「統治者」として生きる人間しか見ていなかったからにほかならない。明治四十四年に書かれた「灰燼《かいじん》」の主人公・山口節蔵は、 「折々自己を反省して見て、我ながら一切の物に対する興味の淡いのと、要望の弱いのとに驚かざることを得なかつた。過去を顧みれば、いかに濃厚でないと思はれた興味も今程淡くはなく、いかに強烈でないと思はれた要望も今程弱くはなかつた。」  そして、彼がこの自我の空虚をはっきりと自覚して、しかし、言葉で説明することなしにそれを態度に表わして見ると、  意外なのは、節蔵の此気分が周囲の人に及ぼす効果である。それは多少の畏怖《いふ》を加味した尊敬を以《もつ》て、節蔵に対するやうになつたのである。何物をも肯定せず、何物をも求めないと云ふことは、人には想像が出来ないので、人は節蔵の求める物を、余程偉大な物か、高遠な物かと錯《あやま》り認めずにはゐられない。所謂《いはゆる》大志のある人として視ずにはゐられない。節蔵はいつの間にか、自分の周囲に崇拝者が出来るのを感じた。書生の斎藤なんぞは節蔵をひどくえらいと云ひ出した。只奥さんの本能が、節蔵のどこやらに、気味の悪い、冷たい処《ところ》があるやうに感じてゐる丈《だけ》であつた。  例によってこの「節蔵」には鴎外そのひとの影が濃厚に落ちているのだが、彼がここで周囲から受けている滑稽な買いかぶりは、まさに裏返せば「予が立場」に向けられた批評家たちの誤解に通じるものであろう。彼らは「灰燼」の「奥さん」と同じく、鴎外のどこやらに「気味の悪い、冷たい処」を見てとったのであって、いささかの反撥をもこめて、それを敗北者の「愚痴」と「厭味」として片づけたのだといえる。問題が何であれ、存在するものを説明することはできるが、目のまえに何が存在しないかを説明することは難しい。まして誰もが自我の主張を一種の美徳のように考えている時代に、「興味も淡く要求も弱い」という言葉でしか表わしようのない内面の空虚を、ひとびとが理解するどころか想像もできなかったのは当然であろう。  大抵柔和忍辱の仮面を被《かぶ》つて、世の中を渡つて行く人は、何物をか人に求めるのである。その仮面は何物をか贏《か》ち得ようとして、それが為めに犠牲を吝《をし》まないのである。節蔵は何物をも求めない。唯自己を隠蔽《いんぺい》しようとする丈である。  厳密にいえば、鴎外が仮面によって隠蔽しようとしているのは彼の「自己」ではない。隠されているのは、いうまでもなく「自己の不存在」であり、そのことの不安である。もし隠さなければ彼はそれをひとに説明しなければならず、説明すればかえってひとびとの誤解と反撥を買うことはわかりきっているからである。  けれども、この名状しがたい内面の空虚を抱いて、鴎外が言葉通り「本当に平気」であったかどうかといえば、それは疑わしい。内に不安を隠して「平気」でいる人間があるはずはないし、事実、「予が立場」に現われた彼の語気は覆いがたく内心の動揺を示している。また、鴎外が一方で「諦念《レジニアシオン》」を口にしながら、他方では自分を次のような言葉で語るひとであったことも周知の事実であろう。 「奈何《いか》にして人は己を知ることを得《う》べきか。省察《せいさつ》を以てしては決して能《あた》はざらん。されど行為を以てしては或は能《よ》くせむ。汝《なんぢ》の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日《ひ》の要求なり。」これは Goethe《ギヨオテ》の詞《ことば》である。  日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑《ないがしろ》にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。  日の要求に応じて能事畢《のうじをは》るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中《うち》に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。(「妄想」)  他人のまえに膝《ひざ》を屈して「平気」でいる人間と、この「永遠なる不平家」とは、一見、極端な矛盾をなしているように見える。だが少し考えれば、これはきわめて一貫した述懐なのであって彼は一方で自分の内部に「自我」の手応えが感じられないことを歎《なげ》き、しかも、その手応えなしに生きることは苦しいといっていらだっているのである。彼は「カズイスチカ」の父親のようには生きられないと訴え、その心境をさして「永遠なる不平家」と呼んでいるにすぎない。理屈からいえば、内部に「自我」の要求を持たない人間は、当然、安んじて「カズイスチカ」の父親のように生きられるはずである。しかし残念なことに、鴎外は近代について深い知識を持っており、近代社会が彼に課して来る現実的な課題を担っていた。彼は、独創的な「研究《フオルシユンク》」をしなければならず、個性的な「小説」を書かなければならず、西洋人の自我観というものを書物で読んで知っていた。そうして、それらいっさいの知識は「近代的自我」の存在を前提として求めていたから。鴎外はみずからの自然に反して、いわばこの強迫観念に悩んでいたというべきであろう。  あらためて注意したいのは、彼が「永遠なる不平家」を自分の誇りとして主張しているのではなくて、あくまでも苦が苦がしい反省として述べていることである。まさに「青い鳥」の譬《たと》えが正確に示すように、彼の追い求める内面の自我は知的な観念にすぎなかった。だとすれば、この観念を離れて彼の精神が自然な現実に帰れば、そこでは世俗的な屈従に彼が「平気」でいられるのは、むしろ当然ではないだろうか。  要するに、鴎外が焦燥を感じているのは、世俗的な屈従そのことについてではない。もし彼がいらだつとすれば、その世俗的な屈従にもかかわらず、なおも「平気」でいられる奇怪な自分についてであろう。かりに「予が立場」の述懐が「愚痴」であるとしても、それは現実的な意味での敗北者の「愚痴」ではない。むしろそれは、普通にひとが持つべき人生の要求を持たず、争うべきことをなんとなく争わず、怒るべきときに不思議に腹が立たず、いつのまにか世俗的には敗北と見られる位置に立つ、奇妙な自分にたいする「愚痴」なのである。  鴎外の内部にもし分裂があるとするならば、それは「近代的自我」の観念と、精神的な「父」としての現実とのあいだの分裂のほかにはない。そこにはともすれば批評家に指摘されるような「情念と理性の戦い」や、「エゴイズムと自己没却」の対立などがあるようには思えない。語呂を合わせていうならば、それは理性と「情念の稀薄《きはく》」との戦いであり、観念としての「エゴイズム」と自己の空白との対立であったという方が正確であろう。  鴎外自身がみずから掴みかねていただけに、彼の「諦念」の心境はじつにさまざまな言葉で表現されている。ときには誤解をまねきがちな戦闘的な言葉も使われるのだが、そのなかでもっとも冷静で、正確な表現がなされているのは、たぶん「百物語」のなかの次のような一節であろう。  西洋にゐた時、一頃大そう心易く附き合つた爺いさんの学者があつた。その人は不治の病を持つてゐるので、生涯無妻で暮した人である。その位だから舞踏なんぞをしたことはない。或る時舞踏の話が出て、傍《そば》の一人が僕に舞踏の社交上必要なわけを説明して、是非稽古をしろと云ふと、今一人が舞踏を未開時代の遺俗だとしての観察から、可笑《をか》しいアネクドオト交りに舞踏の弊害を列《なら》べ立てて攻撃をした。その時爺いさんは黙つて聞いてしまつて、さてかう云つた。「わたくしは御存じの体ですから、舞踏なんぞをしたことはありません。自分の出来ない舞踏を、人のしてゐるのを見ます度に、なんだかそれをしてゐる人が人間ではないやうな、神のやうな心持がして、只目を〓《みは》つて視てゐるばかりでございますよ」と云つた。爺いさんのかう云ふ時、顔には微笑の淡い影が浮んでゐたが、それが決して冷刻な嘲《あざけり》の微笑ではなかつた。 「舞踏」という言葉を世俗的な勝敗におきかえて見れば、一節の寓意《ぐうい》は明らかであり、「不治の病」を負っていない鴎外が、その代りに何を負っていたかももはや繰返す必要はあるまい。そして、この自我の空虚に煩悶《はんもん》しつくした鴎外は、ようやく晩年にいたってそれを積極的な自分の立場として肯定するようになる。その端的な表現が、じつは大正五年七月に書かれたあの「空車《むなぐるま》」の不思議な譬喩《ひゆ》なのである。  わたくしの意中の車は大いなる荷車である。其《その》構造は極めて原始的で、大八車と云ふものに似てゐる。只大きさがこれに数倍してゐる。大八車は人が挽《ひ》くのに此車は馬が挽く。  此車だつていつも空虚でないことは、言を須《ま》たない。わたくしは白山の通で、此車が洋紙を〓載《こんさい》して王子から来るのに逢ふことがある。しかしさう云ふ時には此車はわたくしの目にとまらない。  わたくしは此車が空車《むなぐるま》として行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覚えしむる。この大きい車が大道狭しと行く。これに繋《つな》いである馬は骨格が逞《たくま》しく、栄養が好い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背の直《すぐ》い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるやうに、大股《おほまた》に行く。此男は左顧右眄《さこゆうへん》することをなさない。物に遇《あ》つて一歩を緩くすることをもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人《ぼうじやくぶにん》と云ふ語は此男のために作られたかと疑はれる。  此車に逢へば、徒歩の人も避《よ》ける。騎馬の人も避ける。貴人《きにん》の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。此車の軌道を横《よこぎ》るに会へば、電車の車掌と雖《いへど》も、車を駐《とど》めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。  そして此車は一の空車に過ぎぬのである。  わたくしは此空車の行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしは此空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思はない。わたくしが此空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思はぬことも、亦《また》言を須たない。縦《たと》ひその或物がいかに貴き物であるにもせよ。 「空車」全文の主旨は、引用したこの一節に尽きている。大きく、原始的な構造を持った荷車は、鴎外の頑健な意志力と、質実に耐えた日常とを暗示しているように見える。急がず怠らず、いっさいのファナチズムを知らず、大股に歩いて行く馬丁はあるいは「カズイスチカ」の父親であるかもしれない。そして、その馬丁に引かれて同じく急がず怠らず、「空虚であるが故に」一層大きく見える空車が、何を意味しているかはあまりにも明白ではないだろうか。   ㈽ 勤勉なる傍観者  鴎外の作品を読んでいちじるしく目につくのは、彼が人間の運命の傾き方について、一貫した独特のイメージを持っていることであろう。すなわち、主人公の非運はおおむねささやかな偶然によって不意に襲って来るか、そうでなければ、蟻《あり》の孔から水が浸み入るように、これという事件もなしにじわじわと忍び寄って来る。いいかえれば、主人公はつねに日常性のただなかで、身をたてなおす間もなく不幸に見舞われるのであって、気がついたときには、事態はすでに手遅れになったかたちで彼らをからめとっている。 「一本の釘《くぎ》から大事件が生ずるやうに、青魚《さば》の肴《にざかな》が上条の夕食の饌《せん》に上つたために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまつた。」  と、鴎外は「雁《がん》」の末尾で物語をなかば諧謔《かいぎやく》めかせてしめくくっているが、あっけない偶然によって生涯の運命が変わるのは、「雁」のお玉や岡田の場合だけではない。「舞姫」の悲恋も、「うたかたの記」の非業の最期も、それを主人公にもたらしたものは、あたかも一陣の風に似た偶然のほかにはなかった。中期の「護持院原の敵討」などとくに典型的な例であるが、物語のいっさいの原因があっけなく冒頭数十行のなかで起ってしまう。簡潔迅速なカタストローフが、静かな日常性に理由もない孔をあけたところから、延々たる苦難の物語が始まるのである。  播磨国飾東郡姫路《はりまのくにしきとうごほりひめぢ》の城主酒井雅楽頭忠実《うたのかみただみつ》の上邸《かみやしき》は、江戸城の大手向左角《おほてむかふひだりかど》にあつた。そこの金《かね》部屋には、いつも侍が二人宛《づつ》泊ることになつてゐた。然るに天保四年癸巳《みづのとみ》の歳《とし》十二月二十六日の卯《う》の刻過の事である。当年五十五歳になる、大金《おほかね》奉行山本三右衛門と云ふ老人が、唯一人すわつてゐる。ゆうべ一しよに泊る筈の小金奉行が病気引をしたので、寂しい夜寒を一人で凌《しの》いだのである。傍《そば》には骨の太い、がつしりした行燈《あんどう》がある。燈心に花が咲いて薄暗くなつた、橙黄色《だいだいいろ》の火が、黎明《しののめ》の窓の明りと、等分に部屋を領してゐる。夜具はもう夜具葛籠《つづら》にしまつてある。  障子の外に人のけはひがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました。」 「お前は誰だい。」 「お表の小使でございます。」  書き出しから僅かこれだけの描写ののちに、早くも山本三右衛門は、個人的になんのかかわりもない仲間の手にかかって殺されてしまう。そして、いったん静かな日常性がこうした亀裂をのぞかせると、そのしたには残酷なもうひとつの世界が待ちうけていて、たちまち主人公をそれ自体の法則によって思いがけない境遇へつれ去ってしまう。すなわち、三右衛門の遺児たる宇平とりよにとって、仇討《あだうち》という武士の義務を果す日まで、終りのない精神的な流浪の生活が始まるのである。恐ろしいことは、この非日常の世界があたかも日常性の世界と背中あわせにあって、突然の不幸は、たんにその間の薄壁に小さな孔をあけたにすぎない、という印象をあたえることであろう。仇討の義務は武士にとってあらかじめこの世に組み込まれている地獄であり、けっして巨大な悲劇がそのとき初めて生み出した人生の「例外」ではない。もちろん、巨大な悲劇は見る者にとって恐ろしいが、しかしそれは、あまりの巨大さのゆえに日常性から遠いものとしての安心感をあたえてくれる。だが鴎外の場合、突発する不幸がささやかな偶然であるだけに、かえってわれわれは、「板子一枚下」にある地獄の避けがたい恒常性を思い知っておののくのである。  日常性がつねに足もとから崩れかけているというこの不安は、いうまでもなく、人生において攻める者よりは守る者の不安であり、いいかえれば、日常生活の管理者であり責任者である人間の不安である。そしてこの不安がさらに深まれば、彼は突発する不幸の恐怖よりも、むしろ自分の環境のなしくずしの崩壊感覚に苦しむことになる。  たとえば「阿部一族」に描かれた悲惨な一家の滅亡は、家長・弥一《やいち》右衛《え》門《もん》の生涯にいつ起るともなく重なった状況の変化の決算にすぎなかった。  一体忠利は弥一右衛門の言ふことを聴かぬ癖が附いてゐる。これは余程古くからの事で、まだ猪之助《ゐのすけ》と云つて小姓を勤めてゐた頃も、猪之助が「御膳を差し上げませうか」と伺ふと、「まだ空腹にはならぬ」と云ふ。外の小姓が申し上げると、「好い、出させい」と云ふ。忠利は此《この》男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかと云ふと、さうでも無い。此男程精勤をするものは無く、万事に気が附いて、手ぬかりが無いから、叱らうと云つても叱りやうが無い。  弥一右衛門は外の人が言ひ附けられてする事を、言ひ附けられずにする。外の人の申し上げてする事を申し上げずにする。併しする事はいつも肯綮《こうけい》に中《あた》つてゐて、間然すべき所が無い。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くやうになつてゐる。忠利は初めなんとも思はずに、只此の男の顔を見ると、反対したくなつたのだが、後には此男の意地で勤めるのを知つて憎いと思つた。憎いと思ひながら、聡明な忠利はなぜ弥一右衛門がさうなつたかと回想して見て、それは自分が為向《しむ》けたのだと云ふことに気が附いた。そして自分の反対する癖を改めようと思つてゐながら、月が累《かさな》り年が累るに従つて、それが次第に改めにくゝなつた。  またしても、この弥一右衛門は陸軍省に勤める鴎外みずからの姿を思わせるのだが、とにかく弥一右衛門はこうして主君細川忠利の愛顧を失い、結局、武士の面目にかかわる殉死を拒絶されるはめに立ちいたることになる。弥一右衛門はやむなく許しを得ないままに腹を切るが、それがまた阿部一族をことさら反抗者の立場に追いやることになり、このあと一家の運命は急坂を転げ落ちるように傾いて行く。弥一右衛門を襲った不幸はいわばかたちにならない不幸であったが、彼の遺児たちは、あたかもそれを明確なかたちとして捉《とら》えようとするかのように、いささか自棄的に破滅への道を急ぐのである。  物語の結末は違っているが、先に述べた「栗山大膳」の場合も、境遇の変化はまさに同様のしかたで忍び寄って来ていた。大膳の政敵というべき倉八十太夫の登場は、けっして大膳にとってドラマチックな破局として目に見えたわけではなかった。  併し十太夫の勤振《つとめぶり》にはこれと云ふ廉立《かどだ》つた瑕瑾《かきん》が無い。只利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を経て行はれた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるやうになると云ふだけである。さう云ふ風に忠之と下役のものとが、直に取り計らふ件々は、最初どうでも好いやうな、瑣細《ささい》な事ばかりであつたが、それがいつの間にか稍《やや》大きい事に及んで来た。利章等が跡からそれを役々のものに問ふと、別に仔細《しさい》はない、只心附かなかつたと云ふ。かう云ふ問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追つて行くやうな傾になつた。  利章等は安からぬ事に思つた。そこで折々忠之に事務の手続が違つたのを訴へると、忠之も別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。下に向いて糺《ただ》しても、上に向いて訴へても、何の効果も見えなかつた。  利章等はいつか、どうにかして此悪弊を改めたいと思つた。此悪弊が暫時《ざんじ》も君側を離れぬ新参十太夫の勤振と連係してゐることは、言ふまでもなかつた。併し独り十太夫に廉立つた瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立つた過失がない。利章等は只殆ど本能的に形勢の変じて行くのを感ずるだけである。  明らかに、大膳が「本能的」に感じているのは彼のアイデンティティーの動揺であるが、それがこのようになしくずしの崩壊として感じられるのは、彼が「家父長的」な人間であることのもうひとつの証拠だといえる。なぜなら、「家父長」は政治的な「統治者」とはちがって、明確な主張をもって支配する人間ではなく、むしろひとつの共同体の安定のために、言葉少なに気を配っている存在だからである。  彼が守るべき共同体は原理によってなり立つ組織ではなく、いわば生物学的な、有機的なバランスのうえに成立するまとまりにすぎない。それを支える骨組も論理的な法や規則ではなく、日常の作法や言葉づかいにあらわれる暗黙の秩序のほかには把捉《はそく》できない。そのなかで、「家父長」は必ずしも特別の強権やカリスマ的な魅力も持たず、しかしそれにもかかわらず、自分を共同体の変わらぬ責任者として感じつづけている人間だといえる。そういう人間にとって、アイデンティティーの崩壊はけっして劇的な事件として襲いかかるはずはなく、あたかも生命体の衰弱のように、目に見えない徐々の浸蝕《しんしよく》として迫って来るのは当然だといえるだろう。  ところで、ささやかな偶然によって倒されるにせよ、ゆるやかな持続的浸蝕によって脅やかされるにせよ、このことをいいかえれば、鴎外の世界には、言葉の厳密な意味における「悲劇的」な人間像が存在しない、ということにほかならない。 「悲劇的」な人間とは、たとえばギリシア劇に典型的に見られるように、明確な主張をもって運命の力に対峙《たいじ》して、その主張のゆえにみずから激しく滅んで行く人間をいうのである。こうした人間像は、いわば西洋文学の基底に流れる伝統であって、近代小説の世界にもあるいはスタンダールのジュリアン・ソレルとなり、あるいはメルヴィルのエイハブ船長となって多くの子孫を残している。なによりも彼らには、不運に遭うまえに有形のアイデンティティーが確立されており、むしろ不運は彼らのあまりにも強烈な存在の主張から生まれて来るといえる。彼らは、みずからの巨大さのゆえに日常のそとへはみ出すほかはない人間であり、はみ出すことによって、みずから非日常の世界に非運を迎え撃つ結果になる。そういう人間にとって、不運は偶然ではなくて、みずからの行動の必然的な帰結であり、その遭遇のしかたも、なしくずしではなくて一瞬の劇的な爆発であることは、あらためて念をおすまでもないであろう。  そして、こうした「悲劇的」人間像が欠けていることが、じつは日本文学の伝統的な特色であることは、これまでおりにふれて指摘されて来た。鴎外ももちろんこの例に漏れないわけだが、しかし彼の場合、ある意味でその伝統がひときわ積極的に生かされたと見ることができる。いわば積極的に「反・悲劇的」ともいうべき人間像を、鴎外はおよそ三種類にわけて体系的に描き出したと見ることができるからである。  すなわち、その第一は、明らかに破滅を急ごうとするひとびとであって、「阿部一族」や「大塩平八郎」はそのいちじるしい例だといえるだろう。阿部一族の場合、忍び寄って来る非運は確実だが捉えどころがなく、そのために彼らは少しずつ過剰な自虐的反応を重ねて行くことになる。鴎外の用語によればそれが「意地」というものであるが、「意地」とは、本来的な自己拡張欲の乏しい人間の自己主張だといえる。それは、境遇の圧迫を受けて初めて自覚される自己の手ごたえであって、その表現は、逆に境遇の圧迫をうわ廻る自己放棄となってあらわれて来る。すなわち、他人の目にはあてつけとも見える自虐行為だが、そこへ阿部一族を駆り立てているのは、ネガティヴな自己証明の衝動にほかならない。  弥一右衛門はつく〓〓考へて決心した。自分の身分で、此場合に殉死せずに生き残つて、家中のものに顔を合せてゐると云ふことは、百人が百人所詮《しよせん》出来ぬ事と思ふだらう。犬死と知つて切腹するか、浪人して熊本を去るかの外、為方《しかた》があるまい。だが己《おれ》は己だ。好いわ。武士は妾《めかけ》とは違ふ。主《しゆう》の気に入らぬからと云つて、立場が無くなる筈は無い。かう思つて一日一日と例の如くに勤めてゐた。 「己は己だ」というこの自覚を表現するために、やがて弥一右衛門は主君の許しなく腹を切り、嫡子・権兵衛は主君の霊前で髻《もとどり》を切って出家をする。足もとから崩れる運命に抵抗するのとは反対に、むしろそれをみずからの足で踏み崩すことによって、彼らは自己の存在を証明しようとする。こうして結局は一族全滅の道をたどった阿部家の顛末《てんまつ》は悲惨だが、しかし、その悲惨さはあくまでも厳密な意味での「悲劇」とは無縁のものというほかはない。なぜなら、彼らはつねに迫って来る非運の先廻りをしているのであって、ある意味で、その非運のあり得べき大きさを徹底的に験《ため》したとはいえないからである。真に「悲劇的」な人間は目前の非運にどこまでも抵抗し、にもかかわらず、ついには力尽きることで逆に運命の大きさを身をもって証明する人間だということは、周知の定義であろう。  鴎外の人物には珍しく革命を志し、一見、日常世界のそとへはみ出したかに見える大塩平八郎も、じつは同じ意味で「反・悲劇的」な人間の典型のひとりだといえる。いよいよ叛乱《はんらん》の決行を目前にした朝、過去をかえりみて平八郎の心は早くも微妙に動揺しているのである。  今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己《おれ》の意図が先づ恣《ほしいまま》に動いて、外界の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時《いつ》でも用に立てられる左券を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉《いしや》にした丈《だけ》で、動《やや》もすれば其《その》準備を永く準備の儘《まま》で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗《はかど》つて来たのは、事柄其物が自然に捗つて来たのだと云つても好い。己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉《らつ》して走つたのだと云つても好い。一体此終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。  注目すべきは、ここで平八郎が逡巡《しゆんじゆん》していることではなく、その逡巡にもかかわらず、もはや彼が陰謀を一時遅らせて、計画を再検討する力を失っていることであろう。やがて彼はそのままずるずると立ちあがり、既定の道を歩むかのようにずるずると敗北の坂をくだって行く。計画が予感通りに破れ始めても、平八郎はなんの対策も講ぜず、ついに敗残の身となると、危険な大坂の町へ魅入られたように帰って行く。あたかも彼が真に恐れているのは、敗北よりも自己の内部にある「空虚」であって、それを奥底まで見とどけることの恐わさのあまり、あえてそのまえに肉体的な破滅を急いでいるかのように見えるのである。破滅を急ぐことによって彼は真の「悲劇」を避けているのであるが、もちろんある意味で、その心境はたいていの「悲劇的」人物よりもさらに悲痛であることは想像に難くない。  鴎外の「反・悲劇的」人間の第二の類型は、いうまでもなく、彼のいう「傍観者」的な人物であろう。「椙原品」の伊達綱宗を始めとして、「あそび」の木村、「鶏」の石田少介、さらに「百物語」の飾磨屋《しかまや》など、この類型に属する人物はしばしば作者自身の分身のように見なされている。しかし、この「傍観者」的な人物も、じつは先の破滅を急ぐ人間と無縁ではなく、むしろそれと背中合わせにある存在として理解すべきであるように思われる。阿部一族とは反対に、彼らはいっさいの行動を急がない人間ではあるが、しかし彼らもまた、その根底に一種の過激な感情を秘めていることに違いはないからである。  そのもっとも端的な例が先に述べた伊達綱宗であり、それをさらにわかりやすくした姿が、「百物語」の飾磨屋であろう。ふたりとも「傍観者」の姿勢は微動だにしないが、その足もとで現実の崩壊はじわじわと確実に進行している。それを知りながら崩壊の進行を食いとめる力はなく、しかも彼らはその頽勢《たいせい》からかたときも目をそらそうとはしない。「傍観者」は一見、あらゆる他人にひとしなみにシニカルであるように見えるが、その原点はあくまでも他人ではなく、「傍観者」そのひとの自分の崩壊の傍観にあることを、鴎外は明らかにしているのである。  僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万《きよまん》の富を譲り受けた時、どう云ふ志望を懐《いだ》いてゐたか、どう云ふ活動を試みたか、それは僕に語る人がなかつた。併《しか》し彼が藝人附合《つきあひ》を盛んにし出して、今紀文と云はれるやうになつてから、もう余程の年月《としつき》が立つてゐる。察するに飾磨屋は僕のやうな、生れながらの傍観者ではなかつただらう。それが今は慥《たし》かに傍観者になつてゐる。併しどうしてなつたのだらうか。よもや西洋で僕の師友にしてゐた学者のやうな、オルガニツクな欠陥が出来たのではあるまい。さうして見れば飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍《そうい》を受けてそれが癒《い》えずにゐる為《た》めに、傍観者になつたのではあるまいか。  若《も》しさうだとすると、その飾磨屋がどうして今宵《こよひ》のやうな催しをするのだらう。世間にはもう飾磨屋の破産を云々《うんうん》するものもある。豪遊の名を一時に擅《ほしいまま》にしてから、もう大ぶ久しくなるのだから、内証《ないしよう》は或はさうなつてゐるかも知れない。それでゐて、こんな催しをするのは、彼が忽《たちま》ち富豪の主人になつて、人を凌《しの》ぎ世に傲《おご》つた前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去つた栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見てゐるのではあるまいか。 「少壮にして鉅万の富を譲り受けた」ということは、いいかえれば、この主人公が早すぎる「家父長」になったということであろう。彼は財産の悪しき「管理者」であり、養うべき子を持たない「父」であったかもしれないが、しかしまちがっても、父の庇護《ひご》のもとに放蕩《ほうとう》をつづける「子」の立場にはなかったはずである。そして、あまりにも早く「父」になりすぎ、しかも荷風のいう「生活難を謳《うた》ふ」必要のない人間の場合、ともすれば自己の存在を賭《と》した活動の意欲を失うのは、一種の宿命のようなものだといえる。おそらく、若い飾磨屋は青春期の荷風と同じく、「なすべき仕事」のないことに悩み、さらに荷風と違って、国家や父親にさからって「自己の陰画」を自覚することもできなかった。じつは飾磨屋の受けた「無形の創痍」とはそういう天性の不安であって、その深い無力感が、破産に瀕《ひん》した今日もなお彼を奇妙な「傍観者」にひきとめていると見るべきであろう。  しかし、この場合かんじんなのは飾磨屋が無力であることではなく、無力であるにもかかわらず、冷静に自己の崩壊を見つめて目をそらさないということであろう。  大抵《たいてい》の人は煩悶《はんもん》して焼《や》けになつて、豪遊をするとなると、きつと強烈な官能的受用を求めて、それに依つて意識をぼかしてゐようとするものである。さう云ふ人は躁狂《そうきよう》に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違ふやうだ。一体あの沈鬱なやうな態度は何に根ざしてゐるだらう。あの目の血走つてゐるのも、事によつたら酒と色とに夜を更かした為めではなくて、深い物思《ものおもひ》に夜を穏《おだやか》に眠ることの出来なかつた為めではあるまいか。強ひて推察して見れば、この百物語の催しなんぞも、主人は馬鹿げた事だと云ふことを飽くまで知り抜いてゐて、そこへ寄つて来る客の、或は酒食を貪《むさぼ》る念に駆られて来たり、或はまた迷信の霧に理性を鎖《とざ》されてゐて、こはい物見たさの穉《をさな》い好奇心に動かされて来たりするのを、あの血糸《ちいと》の通つてゐる、マリシヨオな、デモニツクなやうにも見れば見られる目で、冷《ひやや》かに見てゐるのではあるまいか。  悪魔的であるか、あるいはもの思いのまなざしであるかはともかくとして、ここで飾磨屋の目つきが、本質的に客を迎える「主人」のそれであることを注意しておかなければなるまい。おそらく、飾磨屋は財産の大部分をこうして客を招いて蕩尽《とうじん》したのであろうが、いわば人生において、「主人」をつとめて生きることが彼の天性の宿命であったのにちがいない。ちなみに、生涯を同じ遊蕩のうちにすごしながらも、永井荷風がどこまでも孤独な官能の満足を追い求め、ほとんど客を迎える「主人」の労をとらなかった事実は、思い出しておいてもよいだろう。この期に及んでも、飾磨屋は依然として自分の官能よりも客の居心地に気を配り、しかも今では、招いた客との交歓の楽しみにすら多くは期待していないように見える。彼のまなざしがときに皮肉なものになることはあっても、それはあくまでも責任ある「主宰者」の視線なのであって、けっして、招かれながら主人の接待ぶりを観察する「客」の目つきではないことを、見落してはなるまい。いうならば、飾磨屋にとってはこれまでの人生そのものが、遇するにやっかいな、しかしやむを得ず招いてしまった客のようなものであったといえるだろう。そして、「父親」がつねに自分に叛《そむ》く家族に一体化を迫られるように、よき「主人」はとかく趣味にそぐわぬ客にも自分を一体化して生きなければならない。人生の態度として「主人」であることを選んだ人間は、まさに「父親」と同様に、つきあいにくい他人とつきあいながら自己の存在証明の確立に苦しむのである。  こう考えてみれば、鴎外の「傍観者」がなにごとをも見つめて目をそらさず、自分自身の崩壊にすらたじろがない理由は、もはや繰返して説明するまでもないであろう。「父親」であれ「主人」であれ、およそ人生の責任者は、ものごとの推移に最後まで気を配る習慣が身についてしまう。彼らは対象から逃げ出すことを許されず、しかも、それと狎《な》れあうことも許されぬ孤独な立場にみずからを置いている。その、いわば釘づけにされた距離の意識が、いつのまにか彼らの視線を鋭くしていっさいの対象を克明に凝視させることになるのである。たとえば「雁」にあらわれる次のような一節は、その間の事情をきわめて端的に要約したものといえるだろう。  お玉は父親を幸福にしようと云ふ目的以外に、何の目的も有してゐなかつたので、無理に堅い父親を口説き落すやうにして人の妾《めかけ》になつた。そしてそれを堕落せられるだけ堕落するのだと見て、その利他的行為の中《うち》に一種の安心を求めてゐた。併しその檀那と頼んだ人が、人もあらうに高利貸であつたと知つた時は、余りの事に途方に暮れた。そこでどうも自分一人で胸のうやもやを排し去ることが出来なくなつて、その心持を父親に打ち明けて、一しよに苦み悶《もだ》えて貰はうと思つた。さうは思つたものの、池の端の父親を尋ねてその平穏な生活を目《ま》のあたり見ては、どうも老人の手にしてゐる杯《さかづき》の裡《うち》に、一滴の毒を注ぐに忍びない。よしやせつない思《おもひ》をしても、その思を我胸一つに畳んで置かうと決心した。そして此決心と同時に、これまで人にたよることしか知らなかつたお玉が、始て独立したやうな心持になつた。  此時からお玉は自分で自分の言つたり為《し》たりする事を窃《ひそか》に観察するやうになつて、末造が来てもこれまでのやうに蟠《わだか》まりのない直情で接せずに、意識してもてなすやうになつた。その間別に本心があつて、体を離れて傍《わき》へ退《の》いて見てゐる。そしてその本心は末造をも、末造の自由になつてゐる自分をも嘲笑《あざわら》つてゐる。お玉はそれに始て気が附いた時ぞつとした。併し時が立つと共に、お玉は慣れて、自分の心はさうなくてはならぬもののやうに感じて来た。  ところで、「傍観者」というものの意味をこのような方向に掘りさげて見ると、これをさらにひとひねりしたところに、鴎外の「反・悲劇的」人間の第三の類型が浮かびあがって来る。  すなわち、一見、「傍観者」とは対蹠《たいせき》的な生き方を見せる人間像であるが、逆境のなかでいきいきと蘇《よみが》えり、逆に自分の行動に新たな確信を感じ始める一群の人物たちである。ある意味で「雁」のお玉もこの型の人物であり、「最後の一句」の桂屋いち、「護持院原の敵討」の山本りよ、「椙原品」や「安井夫人」、さらに「山椒大夫」の安寿や「澀江抽斎」の五百《いお》をも含めて、この型の人物にふしぎに女性が多いことは鴎外の女性観をしのばせて興味深い。男性の場合では「羽鳥千尋」の主人公などが典型的な人物であろうが、一家の命運を賭けて勉学に励むこの青年は、「自彊《じきよう》不息《やまず》」を座右の銘とした、鴎外そのひとのもうひとつの側面を仮托《かたく》したものと見ることができる。  この型の人物は一様に無欲であり献身的であり、つねに勤勉であって、しかも晴れやかな表情を浮かべている。精神的にはどこまでも健康であり、行動は積極的で、人生の現実に生まれつきの適合を示しているように見える。表面的には、彼らほど自己の生き方に素朴な確信を抱いた人間はないように見えるのだが、しかし注意して見ると、この献身も勤勉も晴れやかさも、彼らの自然というにはいささか過剰であることが感じられるであろう。  たよりに思ふ父親に、苦しい胸を訴へて、一しよに不幸を歎《なげ》く積《つもり》で這入《はひ》つた門《かど》を、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。切角《せつかく》安心してゐる父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣《や》りたいと、努力して話をしてゐるうちに、これまで自分の胸の中に眠つてゐた或る物が醒覚《せいかく》したやうな、これまで人にたよつてゐた自分が、思ひ掛けず独立したやうな気になつて、お玉は不忍《しのばず》の池の畔《ほとり》を、晴やかな顔をして歩いてゐる。  もう上野の山を大ぶはづれた日がくわつと照つて、中島の弁天の社を真つ赤に染めてゐるのに、お玉は持つて来た、小さい蝙蝠《かうもり》をも挿《さ》さずに歩いてゐるのである。  逆境にあってひとが気負った明るさを見せるのは珍しくないが、この場面のお玉の「晴れやかさ」はたんにそれだけのものではない。まえの引用からも明らかな通り、このときのお玉の内部にはもうひとりの自己がめざめていて、みずからの非運を含めて現実を冷たく見おろしているからである。このときから、お玉は自分をとりまく人間を「意識してもてなすやうに」なり、そして彼女自身、自分の優しさがどことなく過剰で、人工的なものであることを感じとるようになる。人生の「責任者」は、他人との人間関係をみずからの手で作り出すひとであり、それゆえに、この世の人間関係をどことなく作りものとして感じる習癖を持つことになる。彼らは人生の演出家であるが、その姿勢はいつしか現実を芝居として眺め、自分自身をすらそのなかでひとりの役者として見る習慣を作りあげる。逆境のなかで責任をひきうけて喘《あえ》いでいるのはその役者であって、少なくとも彼らの自己の半分は、局外に立って苦境を傍観している意識を保つことができる。役者が勤勉と自己犠牲を熱演すればするほど、その熱演が逆にもうひとりの自己を冷静な傍観者に育てるのであって、ほかならぬこの傍観者の静かさが、お玉の表情をかすめるふしぎな「晴れやかさ」となって現われるのである。  いうまでもなく鴎外の「勤勉家」たちが、なんらかの現実的な下心があって克己的な献身を演じているというわけではない。「安井夫人」のお佐代はもっともよい例であるが、むしろその献身にいささかの下心も読みとれぬところが、見る者にある不気味さを感じさせる。「岡の小町」と呼ばれた美人が貧しく醜悪な学究に嫁ぎ、黙々と夫を助けて多くの子供を育て、しかもその子供のほとんどを若くして病気のために失ってしまう。そういう境遇のなかで少しも明るさを失わないお佐代の姿を、鴎外はたんに貞女の鑑《かがみ》として描いたのでないことは明らかである。  お佐代さんが奢侈《しやし》を解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出来ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹《てんたん》であつたとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥《たし》かに尋常でない望があつて、其前には一切の物が塵芥《ちりあくた》の如く卑しくなつてゐたのであらう。  お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。併し若し商人が資本を卸し財利を謀るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたのだと云ふなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。  お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐたゞらう。そして瞑目《めいもく》するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の対象をば、或は何物ともしかと弁識してゐなかつたのではあるまいか。 「お佐代さん」にたいする鴎外の評価は、ほとんど絶讚《ぜつさん》に近いものであって、そこに明瞭な疑いの色は認められない。けれども、この極度に献身的な女性の姿を少しばかり拡張すると、それと背中あわせに、あの「灰燼」の節蔵のおもかげが浮かびあがって来る事実を否定することはできない。  大抵柔和忍辱の仮面を被《かぶ》つて、世の中を渡つて行く人は、何物をか人に求めるのである。その仮面は何物をか贏《か》ち得ようとして、それが為めに犠牲を吝《をし》まないのである。節蔵は何物をも求めない。唯自己を隠蔽《いんぺい》しようとする丈である。  意外なのは、節蔵の此気分が周囲の人に及ぼす効果である。それは多少の畏怖《いふ》を加味した尊敬を以《もつ》て、節蔵に対するやうになつたのである。何物をも肯定せず、何物をも求めないと云ふことは、人には想像が出来ないので、人は節蔵の求める物を、余程偉大な物か、高遠な物かと錯《あやま》り認めずにはゐられない。所謂《いはゆる》大志のある人として視ずにはゐられない。節蔵はいつの間にか、自分の周囲に崇拝者が出来るのを感じた。  一見、シニカルに見えるこの傍観者と、誠実きわまりない恬澹たる女性を、鴎外がまったく別々に思い描いていたことはいうまでもない。「お佐代さん」を描いているとき、「節蔵」が作者の念頭にもなかったことは明白だが、二人をこうして並べて見ると、その姿があたかも一枚の写真の陽画と陰画の関係にあることが、印象的に浮かびあがって来る。「お佐代さん」が、崇拝者の目によって外側から眺められた「節蔵」だとすれば、「節蔵」は、「お佐代さん」の内部の深い所に、ひと知れず秘められたほの暗いものの姿だといえるかもしれない。少なくとも、佐代の「尋常でない望」が外側からは無欲に見え、一方、節蔵の異様な欲望の欠如が外から見て大望に似ているとすれば、この二人の精神の背後に同質のものを読みとらない方が不自然なのである。  いったい、節蔵は意識して「柔和忍辱の仮面」をかぶっているというのであるが、しかしその「仮面」のしたに、なんらひとにものを求める下心をかくしていないというのは、どういうことであろうか。お佐代さんもなんの下心もなくみずからを犠牲にして、こちらはそれと意識することなく柔和な微笑を浮かべていた。だが、この世になんらの下心をもかくさない「仮面」というものがあり得るとするならば、一見お佐代さんの素顔に見える柔和な表情も、同じ意味で、無意識につけられた「仮面」ではないかという疑いが浮かんで来る。いうまでもなく、節蔵の仮面は彼の内面の名状しがたい空虚をかくしていたのだが、お佐代さんの場合もどこかになにか不安なものがかくれていて、それが鴎外に、たんに大望というより一種「尋常でない」ものを感じとらせた可能性が強いのである。  安井佐代はもともと二人姉妹の妹であったが、容貌のうえでは十人並みの姉をしのぐ美人として世評が定まっていた。性格の点では、快活で思ったままを口に出す姉にたいして、つねにひかえめに傍らから見守るような態度が身についていた。女としてすでに圧倒的な優位に立った妹には、姉と争う内面的な必要がなかったからであり、同時に、自己主張の強い無邪気な姉には、思わず妹の保護本能を誘うようなところがあったからにちがいあるまい。境遇のうえでは妹として育ちながら、人生態度においてはむしろ姉としての役割を負った佐代の立場は、やがてそのまま、容貌に恵まれず世智に乏しい夫の保護者の立場へと延長されて行く。彼女の美貌と才能は、ここで夫の不利な条件に対比されてますます世評を高め、それを感じることによって、佐代は一層、夫にたいする保護者の意識を強めて行ったことが想像される。  佐代が夫、仲平との結婚を決意したのは十六歳のときであったが、この縁談はいったん彼女の姉のもとへ持ちこまれ、にべもない拒絶に遭って当事者一同が拾収に困惑するという事情にあったものである。仲平は侮辱を蒙《こうむ》り、媒妁人《ばいしやくにん》は立場を失おうという危機的な瞬間に、佐代はあたかも絶対的な力を持つ救済者として、自分が代りに嫁ぐことを申し出ることができた。容貌ということが主たる問題になっているときに、姉よりもはるかに美しい佐代が結婚を申し出れば、問題が瞬時に解消することは火を見るよりも明らかであった。そのとき佐代の胸中に働いたものをヒロイズムとは呼ばないまでも、あまりにも解決の容易な問題が目前にあるとき、能力ある人間がそれに一種の誘惑を感じるのは想像に難くないところであろう。だがこの瞬間、十六歳の佐代は自分を若すぎる保護者として決定してしまったのであり、その後の人生にいわば降りることのできない軌道を敷いてしまったといえる。  ある意味で、その後の佐代の人生は、あまりにも日々の達成感のありすぎる人生であったといえるかもしれない。美貌であることがすでに女としての達成であるが、そのほかにも多産な体質や家政の才能が、それを必要とする夫の無言の満足によって日々に裏づけられていた。いわば刻刻の達成感に待ち伏せられ、それに誘惑されることによって、彼女は過剰に均質的な人生を一直線に走らざるを得なかったと考えられるのである。もちろん彼女自身はそれを明瞭に意識していなかったとしても、しかし、この人生はいささか人工的な匂いのする人生であった。そこには、ときに達成感を失い、逆に他人の保護を受けたりしながら、そのうえでふたたび保護者の位置に復帰するという有機的な柔軟さが欠けていた。いいかえれば、保護者という人生上の「役柄」が失われたときに、それでもなお、佐代が佐代であり続ける存在の生きた一貫性が欠けていたというほかはない。意地悪くいえば、自分の生涯の人工性に気づかないままに、苦闘のなかで死んだ佐代は幸福だったのかもしれない。万一、彼女がこの不安にみずから気づいたとすれば、おそらく彼女も「灰燼」の節蔵と同じく、今度は内心の不安をかくすために、意識して無欲な勤勉家の役柄を演じなければならなかったにちがいない。そして、いったんそういう意識的な努力が始まってしまえば、やがて彼女の背後に傍観するもうひとりの彼女が立つことになるのは、明らかなのである。  こう考えて見ると、鴎外の描く勤勉家たちは、さらにまた、あの破滅を急ぐひとびとの裏返しでもあることが明瞭であろう。勤勉家はいささかの破綻《はたん》をも恐れて悲劇を徹底的に避ける人間であるが、しかしなにものかに脅やかされて、人生を生き急いでいる点において悲劇を先廻りするひとびとと変りはない。鴎外の「反・悲劇」的人間は、それぞれに人生の底に深い怯《おび》えを秘めた人物であるが、なかでもこの怯えをもっとも鋭く感じているのは、いっさいの破綻を許せないこの勤勉家であるかもしれないのである。  そして、彼らを描いた鴎外という作家は、大方の世評に反して、作中に自分自身をもっとも雄弁に告白した作家だといえるかもしれない。三つの類型の人物を仔細《しさい》に見れば見るほど、それぞれがまさに鴎外そのひとの分身であることが明白だからである。  基本的に、彼の日常生活の主調音をつくっているのは、いわば「勤勉なる傍観者」とでもいうべき人生態度であろう。たとえば「あそび」の主人公、木村などは、そういう鴎外の日常をもっとも直接的にあらわしていると見ることができる。  木村はゆつくり構へて、絶えずごつ〓〓と為事《しごと》をしてゐる。その間顔は始終晴々としてゐる。かういふ時の木村の心持は一寸《ちよつと》説明しにくい。此男は何をするにも子供の遊んでゐるやうな気になつてしてゐる。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのやうに思つてゐる分である。政府の為事は笑談《じようだん》ではない。政府の大機関の一小歯輪となつて、自分も廻転してゐるのだといふことは、はつきり自覚してゐる。自覚してゐて、それを遣《や》つてゐる心持が遊びのやうなのである。顔の晴々としてゐるのは、此心持が現れてゐるのである。 「遊び」というのはしばしば誤解されやすい言葉だが、これは本来の意味においても、けっして当面の課題にたいして消極的な態度をとることではない。むしろ、遊びのルールは現実の法律よりも真剣に意識されており、遊びの世界の勝負は、現実の競争以上に集中的に闘われてこそ遊びとして成立する。遊びにとって、最大の敵はルールを破るいかさま師ではなく、気のない態度で横を向く「遊戯破り《スポイル・スポーツ》」だというのが、ヨハン・ホイジンガの遊戯論の卓説でもあった。すなわち、よき遊び手は当面の世界を人工的なものと知りながら、なおもその虚構のなかに誠実に没入することのできる人間にほかならない。というより、逆に積極的な努力を傾けて、虚構の人間関係をみずから作り出す人間だという方が適当かもしれない。いずれにせよ、遊び手の最大の資格は一座を白けさせない責任感であり、いかなる場合でも自分を励ますことのできる無尽蔵の精力だというべきであろう。  鴎外にはその両方の天分があって、同時に、たいていの問題を解決する過剰なまでの実務能力があった。とくに記憶力と整理能力には抜群のものがあって、それがまずほとんどの雑務を無意識のうちに「遊び」に変えてしまったと想像される。けれども、どんな遊びの達人もいつかは自分の気持をかき立てる努力に疲れるはずであって、鴎外もまた、おりおりはその疲れを近親のひとびとに洩らすことがあった。明治三十四年の秋、小倉の仮寓《かぐう》から母にあてた手紙などは、妹・喜美子をさとすように見せて、じつは何かを自分自身にいい聞かせている口調が明らかである。  小生なども道の事をば修行中なれば、矢張おきみさん同様の迷《まよひ》もをりをり生じ候へども、決して其迷を増長せしめず候。迷といふも悪しき事といふにはあらず。小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据ゑてくるる処《ところ》にすわり、働かせてくるる事を働きて、其間の一挙一動を馬鹿なこととも思はず無駄とも思はぬやうに考へ居り候へば、おきみさんとても姑《しうとめ》に仕へ子を育つることを無駄のやうに思ひてはならぬ事と存候。それが無駄ならば、生きて世にあるも無駄なるべく候。生きて世にあるを無駄とする哲学もあれど、其辺の得失は寸紙に尽しがたく候。  ここには「傍観者」と「勤勉家」の声が完全に重なって聞こえて来るが、もちろん時に応じていずれかがより声高に語る場合が多く、現実の鴎外像はその間を絶えまなく揺れ動いていたと見るのが適当であろう。しかもそれのみならず、この「勤勉なる傍観者」は、私見によれば少なくとも生涯に三度、先に述べた破滅を急ごうとする人間の心境をも、みずから味わったことがあったと考えられる。  第一回目はドイツ留学の最末期、エリスとのあいだに行きずりの情事以上の絆《きずな》を結んだとき、若すぎる彼の心にこの危険な感情の片鱗《へんりん》がかすめたことは想像に難くない。さらに二回目は最初の夫人、赤松登志子との離婚を決意したとき、同居中の弟たちをつれて自分から家を出た鴎外の姿には、誰の目にもただならぬ感情の動揺がうかがわれる。これが過ぎるとその後の四十年、彼は驚くべき克己心で端然たる日常生活を守るのであるが、しかしふたたび最晩年の数箇月、迫って来る死を迎える彼の態度にはある尋常でないものを感じないわけには行かない。友人の忠告と家族の懇願にもかかわらず、彼は異様な頑固さで医師の診療を拒み通し、いよいよ立てなくなる日まで、杖《つえ》にすがって最後の職場となった帝室博物館に通いつづけた。死がほとんど確実となったころ、しげ子夫人の哀訴を容《い》れてようやく形式的な検尿には応じたものの、その容器にそえて医師にあてた手紙には、 「これは小生の小水にはこれなく、妻の涙に御座候」  と書きつけてあったという。   ㈿ 見る人・演じる人  鴎外をこうした「勤勉なる傍観者」に育てた歴史的な条件と、それにからむ彼の家庭を含めた社会的な条件は、すでにこれまでのところであらましは明らかになった。ここで目を向けておかねばならないのは、これらの外的な条件に呼応して、彼を内側から決定した生理的な体質とでもいうべきものである。鴎外の体質は一般的な日本人としてけっして特異なものではなかったが、あらためて日本の近代作家の系譜のなかで考えると、むしろそのことがひとつの顕著な特異性として注目に値いするからである。  第一に目を惹《ひ》くのは、彼が文学者としていちじるしく視覚型の人間であり、その結果相対的にその他の感覚は通常よりも抑圧されていたという事実であろう。ドイツ留学以来、外界を見ることは鴎外にとって国家的な使命であったが、ものの譬《たと》えではなく、彼は生理的な視力にも天性優れていたと思われる節が多い。文章に現われるかぎり彼は見ることを好み、その分だけ、聴くこと嗅《か》ぐことや触れることには関心が薄かったと推察される。そして何よりも顕著なことは彼が他の作家と異り、痛みやだるさや嘔《は》き気のような、肉体内部の感覚にほとんどなんの興味も示さなかったことであろう。  主人は老いても黒人種のやうな視力を持つてゐて、世間の人が懐かしくなつた故人を訪《と》ふやうに、古い本を読む。世間の人が市に出て、新しい人を見るやうに新しい本を読む。  倦《う》めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾《はらん》を見る。  僕八十八《ぼくやそはち》の薦める野菜の膳に向つて、飢を凌《しの》ぐ。  書物の外で、主人の翁《おきな》の翫《もてあそ》んでゐるのは、小さい Loupe《ルウペ》である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外 Zeiss《ツアイス》の顕微鏡がある。海の雫《しづく》の中にゐる小さい動物などを見る。 Merz《メルツ》の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。  この「妄想」の主人公が、浜の松の木や海の波瀾を見ることはあっても、潮の香りにも気づかず、松の枝を渡る風の音にも気づかないのは、たぶん偶然のことではない。彼の愛翫《あいがん》する道具がルーペであり、望遠鏡であり顕微鏡であるのは、彼の視覚が霧や霞《かすみ》の墨色のなかに遊ぶ性質のものではないことを示している。じっさい、作品のなかに現われる鴎外の視覚は恐るべく分析的であって、絵画にたとえればあたかもデューラーやファン・アイクの細密描写を連想させる。  もう時候が大ぶ秋らしくなつて、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰つて、戸を明けようとしてゐた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停《とど》めて、振り返つて岡田と顔を見合せたのである。  紺縮《こんちぢみ》の単物《ひとへもの》に、黒繻子《くろじゆす》と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊《ほそ》い左の手に手拭やら石鹸《シヤボン》箱やら糠袋《ぬかぶくろ》やら海綿やらを、細《こま》かに編んだ竹の籠に入れたのを懈《だる》げに持つて、右の手を格子に掛けた儘《まま》振り返つた女の姿が、岡田には別に深い印象をも与へなかつた。併《しか》し結ひ立ての銀杏返《いちようがへ》しの鬢《びん》が蝉《せみ》の羽のやうに薄いのと、鼻の高い、細長い、稍《やや》寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁《ひら》たいやうな感じをさせるのとが目に留まつた。 「雁《がん》」のお玉が岡田のまえに現われた瞬間の姿であるが、作中人物に「深い印象をも与へ」ないものを描くのに、これだけの細部を重ねるのはあるいは効果からいえば疑問の余地があるかもしれない。しかし、鴎外は一瞬の出遭いにこれだけの細部を見なくてはおさまらない作家であり、これがかえって彼の自分にも抗しがたい視覚の鋭さを物語っていると見ることもできる。敏感すぎるこの視覚は、したがって静かに移動しているときにもっとも的確に働くことになり、しばしば無声映画のように、映像のリズムだけで鮮やかなクライマックスを盛りあげることができる。  併し二日ばかり立つてから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸《ちよつと》見た。竪《たて》に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削つた木を渡して、それを蔓《かづら》で巻いた肱掛《ひぢかけ》窓がある。その窓の障子が一尺ばかり明いてゐて、卵の殻を伏せた万年青《おもと》の鉢が見えてゐる。こんな事を、幾分かの注意を払つて見た為めに、歩調が少し緩くなつて、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余裕を生じた。  そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色の闇に鎖《とざ》されてゐた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見て微笑《ほほゑ》んでゐるのである。  そして、このまなざしは作品の筋が劇的に緊張するときには、かえってそれにさからって動中の一瞬の静寂を見つめることが多い。たとえば「阿部一族」の次の一節はその典型的な例であるが、こういう一節を書くときに鴎外はじつに楽しげに、文章の効果をみずから味わっているという表情をうかがわせる。  寛永十九年四月二十一日は麦秋《むぎあき》に好くある薄曇の日であつた。  阿部一族の立て籠《こも》つてゐる山崎の屋敷に討ち入らうとして、竹内数馬の手のものは払暁に表門の前に来た。夜通し鉦《かね》太鼓を鳴らしてゐた屋敷の内が、今はひつそりとして空家かと思はれる程である。門の扉は鎖《とざ》してある。板塀《いたべい》の上に二三尺伸びてゐる夾竹桃《きようちくとう》の木末《うら》には、蜘《くも》のいが掛かつてゐて、それに夜露が真珠のやうに光つてゐる。燕《つばめ》が一羽どこからか飛んで来て、つと塀の内に入つた。  鴎外は、事態が劇的となったときにいよいよ視覚的になる体質を持ち、また、視覚のなかにもっとも劇的なものを感じ得る感受性の持ち主であったように思われる。視覚が極度に鋭く研ぎ澄まされた瞬間、世界はなりをひそめて音を失うのであるが、いわばこの音のないドラマというべきものが、彼の感受性のひそかな原点をかたちづくっていたように思われてならないのである。 褐色《かちいろ》の根府川石《ねぶかはいし》に 白き花はたと落ちたり、 ありとしも青葉がくれに 見えざりしさらの木の花。(「沙羅の木」)  唐三彩を思わせる三つの色彩だけで作られたこの詩の美しさは、いうまでもなく、そのなかに炸裂《さくれつ》する音のない花火のような動きに秘められている。鴎外はけっして静寂主義の観照を好む作家ではなく、その視線はむしろより多く烈しい爆発の瞬間に向けられるのが常である。ただ、その爆発がふしぎに音も熱の放射も奪われていて、あたかも望遠鏡をさかさにのぞいたような視界のなかで起ることが、静寂主義の印象をあたえるにすぎない。「沙羅の木」の詩は純粋な色彩だけのドラマであったが、鴎外は好んで、より重大な人生上の破局をもこの遠い視界のなかに捉《とら》えようとする。そのさい、彼はどういうわけか鳥のイメージに特別の愛着を感じているらしく、三つの作品において、遠景で撃たれる鳥の最期が印象的に描かれている。第一は、岡田の石つぶてに殺される「雁」の死であって、これが薄幸のお玉の運命を象徴していることはあらためていうまでもないだろう。  石原は黙つて池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁つた夕《ゆふべ》の空気を透かして、指ざす方角を見た。其頃は根津に通ずる小溝《こみぞ》から、今三人の立つてゐる汀《みぎは》まで、一面に葦《あし》が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎《まばら》になつて、只枯蓮の襤褸《ぼろ》のやうな葉、海綿のやうな房《ぼう》が碁布《きふ》せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳《そび》えて、景物に荒涼な趣を添へてゐる。此の bitume《ビチユウム》色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面《おもて》を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。  例によって銅版画の細密描写を見るような風景だが、このなかで雁はじつにあっけなく、苦悶《くもん》の姿も見せずに殺されてしまう。  岡田は不精らしく石を拾つた。「そんなら僕が逃がして遣《や》る。」つぶてはひゆうと云ふ微《かす》かな響をさせて飛んだ。僕が其行方《そのゆくへ》をぢつと見てゐると、一羽の雁が擡《もた》げてゐた頸《くび》をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつゝ羽たたきをして、水面を滑つて散つた。しかし飛び起ちはしなかつた。頸を垂れた雁は動かずに故《もと》の所にゐる。  きわめてよく似た場面は、二年後に書かれた歴史小説「佐橋甚五郎」のなかに見出すことができる。徳川家康の嫡男・信康に仕え、のちに出奔して数奇な人生を歩む不遜《ふそん》な小姓の物語であるが、ここでは彼の運命を一変する動機として、一羽の白鷺《しらさぎ》の撃たれる場面が描かれている。  或る時信康は物詣《ものまうで》に往《い》つた帰りに、城下のはづれを通つた。丁度春の初《はじめ》で、水のぬるみ初《そ》めた頃である。とある広い沼の遥《はる》か向うに、鷺が一羽おりてゐた。銀色に光る水が一筋うねつてゐる側《そば》の黒ずんだ土の上に、鷺は綿を一撮《つま》み投げたやうに見えてゐる。ふと小姓の一人が、あれが撃てるだらうかと云ひ出したが、衆議は所詮《しよせん》撃てぬと云ふことに極まつた。甚五郎は最初黙つて聞いてゐたが、皆が撃てぬと云ひ切つた跡で、独語《ひとりごと》のやうに「なに撃てぬにも限らぬ」とつぶやいた。 「中《あた》るも中らぬも運ぢや。はづれたら笑ふまいぞ。」甚五郎はかう云つて置いて、少しもためらはずに撃ち放した。上下挙《こぞ》つて息を屏《つ》めて見てゐた鷺は、羽を拡げて飛び立ちさうに見えたが、其儘《そのまま》黒ずんだ土の上に、綿一撮み程の白い形をして残つた。  銃声も響かず、煙硝の匂いも流れないままに、遠くひとつまみの綿の塊がふくらんでまた縮むうちに、一羽の鳥の生命が奪われた。そしてこの一瞬は、のちに甚五郎にとって朋輩の小姓を殺害する原因となり、ついには半生を異国の亡命者として送る原因ともなった一瞬なのである。そして、明らかにこのふたつの場面の原型というべきもうひとつの鳥の死を、鴎外は明治四十三年に「生田川」というみごとに凝縮された短篇戯曲のなかに描いている。ふたりの男に同時に求愛され、そのいずれをも選べなかったために自害する少女の悲話であるが、その運命を象徴して殺されるのは白い大きな鵠《くぐい》であった。心を決めかねる少女をまえに、男たちはこの鵠を射た方が選ばれることを約束して弓を競うのであるが、戯曲のクライマックスは、その情景を遠く凝視する少女の呟《つぶや》くようなせりふのなかに訪れる。 処女《をとめ》。(独語のやうに。)ほんに鵠《くぐひ》はどうしたかしら。 (処女徐かに立ちて戸を開け、外を見る。間。) 母。見えるかい。 処女。(見返らずに。)えゝ。(語気緩く。)緑に光る水の上に、団《まる》めた綿かなんぞのやうに、真つ白に見えてゐますわ。 母。二人の方はどうなすつたのだらうね。(間。)川はつひ其所《そこ》だけれど、道が曲がつて附いてゐるから、まだお出《いで》なされぬかも知れない。 処女。あら。 母。なんだい。 処女。白い鳥が大きくなりましたわ。(間。)羽を広げたのでございませうか。(間。)又小さくなりましたわ。(間。)舟が出ますの。(間。)鳥が流れますわ。(間。)鳥の方へ舟がまゐりますわ。(間。)人が二人乗つてゐますわ。(稍長き間。)舟に鳥をいれますわ。(間。)こちらへ漕《こ》いでもどりますわ。(稍長き間。)鳥に矢が立つてゐますわ。矢が二本。 母。なんとお云《いひ》だえ。矢が二本鳥に立つてゐるといふのかい。 処女。えゝ。(間。)舟が着きましたわ。 (母も処女も暫《しばら》く無言。処女はぢつと窓の外を見てゐる。) 二人で鳥を中に置いて、動かずにお出《いで》なさいますの。  短く切ったせりふを畳みこむ技法は的確というほかはないが、それによって描かれた情景は、観客の目から二重の意味で遠い視界のなかに置かれている。少女が遥かの一点に見つめている鳥の死を、さらに観客はその少女の報告を通して見ることになるからである。小説と違って演劇の舞台は、少女やその母親や、さまざまの舞台装置を直接の物体として見せるだけに、かえって目に見えないせりふのなかの情景は、観客の想像を刺戟《しげき》して質的に高い明晰《めいせき》さを示すことができる。無駄な些末《さまつ》はおのずから排除されて、作者は本質的な部分のみを思うままに浮かびあがらせることができる。鴎外は、三木竹二の影響もあって演劇をとくに好んだ作家であったが、おそらく彼を魅惑した主要な要素は、せりふの持つこのふしぎな造型力ではなかったかと思われる。  ここで、少女のせりふから排除されているのはたんに音や手触りばかりではなく、なによりも人間の些末な心理が排除されて、それが明確なものの外形に置きかえられている。死んだ鳥をなかにはさんで、動かずに立ちつくすふたりの男は、その背中の線だけで、いかなる微妙な表情よりも雄弁に事態の意味を語るのである。鴎外は、物語を事態の外形によって描き出す作家として定評があるが、それも内面心理にたいする彼の古典的な嫌悪からというよりは、むしろ外形にたいするあまりにも鋭敏すぎる視覚のもたらした結果と見るべきかもしれない。  視覚に優れた鴎外が、その分だけ、音にたいしてはあまり敏感な感受性を持たなかったと考えられる証拠はいくつかある。小説に現われるかぎり、音楽の描写が印象に残るのは「文づかひ」が唯一の例外であって、「藤棚」の場合などは、音楽会の情景を描きながら音楽そのものの中身は完全に無視されている。かたちに較べて、音が客観的な描写の言葉になりにくいのは当然だが、彼の場合、音を聞いて主観的に感じる刺戟や興奮についても記すところがきわめて少ない。若き日の「独逸日記」を見ても、そののちの日記類を調べても、演劇と美術をめぐる記述が多いのにたいして、音楽会を訪れた感想は意外なほど稀《ま》れである。アメリカ時代の永井荷風がオペラに耽溺《たんでき》して、その感動を繰返し日記に記しているのとは対蹠《たいせき》的だというほかはない。そういえば、日常の雑音についても荷風ははなはだ神経質であって、戦後、家を焼かれて知人の一間に寄宿していながら、それでもラジオの音や三味線の響きに遠慮なく癇癪《かんしやく》を起した逸話が伝えられている。その点、鴎外は雑音についても無頓着《むとんじやく》であったらしく、作品のなかにも、特別の愛着や嫌悪をもって描かれた音というものはほとんどない。隣家から糸車の音が聞こえようが、遊妓の太鼓の音が聞こえようが、作者の分身と思われる主人公はたいてい平然と暮らしている。「余興」という短篇の主人公は、自分を「幸にして無頓着なる聴官を有してゐる私」と呼んでいるが、おそらくこの述懐は鴎外そのひとの日ごろの実感と見てよいであろう。  ちなみに、小金井喜美子の思い出によれば、鴎外は晩年にいたるまで電話を嫌い、自分からはめったに掛けず、電話で話をするときは無器用な切口上になったという。(「鴎外の思ひ出」「電話」)かならずしも座談は厭《いと》わず、また近代的な道具についても科学者として親しんでいたはずの鴎外だから、このエピソードは一段と興味深い。おそらく彼にとって相手の顔が見えていることは座談の必須の条件であって、目によって相手との距離を測定することで会話の姿勢がきめられていたのではないかと思われる。目に見える位置関係が失われたとたん、彼は自分の語調や表情をどのように調節すればよいのかわからなくなり、その不安が、思わず自己防衛的な切口上となって現われたと考えられるのである。  視覚的なかたちが人間に一定の距離を要求するのとは反対に、音の響きは、聞くひとの内部と外界とを一気に融合してしまう力を持っている。外で響いた音はただちに内で響いた音であって、その意味で聴覚は人間の内部感覚の一種にも譬《たと》えることができる。視覚は外界にたいする一定の姿勢を確立させるが、聴覚は逆に姿勢を内から揺さぶり、突き崩す働きを持っているといってもよい。そして鴎外が、こういう意味での音の働きを知っており、また身辺に、こういう意味での音に敏感な人間を知っていたことは、疑いの余地がない。  次に私は敏感である。併《しか》し衰耗《すいもう》に陥ることがないから神経衰弱ではない。  私はあらゆる節奏、旋律、諧調《かいちよう》を聴く毎に、口に言はれない感応をする。夏草の緑の上に、灰色の砂煙を彗星《すいせい》の尾のやうに引いて進む軍隊の大きい子供等の吭《のど》から、単調な、無邪気な軍歌が潮《うしほ》の涌《わ》くやうに起る時、私は背に水を灑《そそ》がれたやうに感ずる。  私は自分では草笛も吹くことを知らない。それに三味線《さみせん》は耳を掩《おほ》うて走りたくなる程厭《いや》で、ピアノやヰオリンは食を忘れる程好きである。  郷校《きようこう》の宿直部屋から夕暮に洩れるオルガンの音《ね》にも、私は臭橘《からたち》の垣根に足を駐《とど》める。  会堂に坐して心が冷灰の如くになつてゐた時、讚美歌《さんびか》の肉声が空気をゆすると、私の胸は器械的に共鳴した。神田の会堂であつた。或る夕《ゆふべ》明るい燭《しよく》の下で、色の白い細面に、漆黒な髯《ひげ》を長く垂れて、白い服を着た酒井勝軍さんが、赫《かがや》く銀の鞭《むち》を揮《ふる》つて、「ああ主は讚《ほ》むべきかな」と歌つた瞬間に、私は確に切実にクリストを懐《おも》つた。  明治四十年の夏用事があつて東京に上《のぼ》つて、帰途浦和駅に着くと、教員らしい色の白い青年に引率せられて、小学生徒がプラツトフオオムの柵《さく》の外に整列してゐた。生徒等の目はもう車に乗つてゐる誰やらの上に注がれてゐた。旗に「送学事視察員一行《がくじしさついんいつこうをおくる》」と書いてある。忽《たちま》ち青年が相図《あひづ》をすると、生徒等は足踏をして、「莟《つぼみ》の花に附く虫の」と歌ひ出した。  私は肩から背へ掛けて戦慄《せんりつ》を感ずると共に、目には涙が浮かんだ。そして周囲の人の恬然《てんぜん》たる顔を見て、却《かへ》つてそれを怪んだ。 「羽鳥千尋」の主人公がみずからを語る一節であるが、ほかの面では作者の分身とも見えるこの青年は、音にたいする敏感さの一点で、鴎外の作中人物のあいだでひときわ例外的な存在となっている。作者がいう通り羽鳥千尋は実在の人物だったとしても、もちろん、鴎外自身がともに実感できなければこの感受性を作中に紹介することもできるはずはない。けれどもその反面、この感受性があまりにも克明に描かれているだけに、かえって、類似の描写がほかの作品にないことが注目を惹くのである。「二人の友」や「独身」を始めとして、いわゆる史伝物にいたるまで、鴎外が実在の人物を描いた例は数多くあるが、これほど念入りに、そのなまなましい感受性に着目されている人物はほかにはない。まして、「半日」や「あそび」や「ヰタ・セクスアリス」など、作者が自分自身を描いたと考えられる作品のなかでは、主人公はこうした感受性とまったく無縁の生活を送っている。「あそび」の木村は作家として「情調」の欠如を非難されるだけでなく、より具体的に、現代人の資格たる「nervosit氏vの欠如を指摘されている。また、「半日」の「博士」は妻が自分の母親の声に過敏な嫌悪を示し、さらに近所の寺の鉦の音に怯《おび》えるのを見て、「此《この》女は神経に異常がありはせぬか」と不安になったりする。このなかで、羽鳥千尋の性格描写ははなはだ異色というほかはないのだが、それだけに、鴎外はむしろこの鋭敏さに或る驚異の目を向けており、それが自分に欠けていればこそ特別の関心を寄せたのではないかと、疑われるのである。  ところで、視覚というものは一種独特の感覚であって、それを主軸にして生きる人間は、たえず自分の姿勢を支えるのに主体的な努力を要求される。すなわち、ものを見るためにはひとは目を見開いていなければならず、目を閉じたとたん、自分と世界との位置関係が根こそぎ失われるということである。これにたいして、聴覚はもちろん、触覚や嗅覚《きゆうかく》やさまざまな内部感覚は、意志的な努力とは無関係に人間のあり方を決定してくれる。音楽を聞いて「背に水を灑がれたやう」な戦慄を感じれば、すなわちその戦慄の実感が、彼がそのときそこに生きていることの証拠なのである、その場合、主体的な姿勢は失われていても、彼はいわば大地に寝転ってしまったような自分に手応えを感じることができる。香りであれ手触りであれ、けだるさや性的な快感であれ、そこには主体的な姿勢以前の好き嫌いが働いて、ほとんど自動的にそれを感じる人間の存在を確証してくれるのである。  たとえば、聴覚に特別の鋭敏さを示す羽鳥千尋は、同時に身辺のあらゆるものについて好悪の感情の明確な人間であった。  私は書棚に書を並べるにも、床に花瓶《かびん》を置くにも、庭に朝顔の鉢を据ゑるにも、かうでなくてはならぬと云ふ、動かすべからざる位置や排列がある。書籍の装釘《そうてい》の意匠なんぞに強烈な好悪がある。  私は好きな詞《ことば》がある。廃墟《はいきよ》、暮春、春鳥、埃及《エジプト》、壁画、藝術、故郷、刀、革、甕《かめ》、踏青、種を蒔《ま》く、その外イタリア、スパニアの地名、梵語《ぼんご》、僧の名などである。私の妹は詞の好悪が一層強烈で、〓《かし》と云ふ一語に並ぶ好きな語《ことば》はないと云つてゐる。  これにたいして、視覚的な人間であった鴎外の場合、誰の目にも明らかなのは、生理的な好悪の感情がほとんど固定していないということであろう。かまえた姿勢でさまざまな対象に批評をくだすことはあっても、いったんこの批評的な目を閉じたとたん、反射的におのずから働く趣味というものを、彼の言動のなかに探すことは不可能に近いのである。  身辺の整頓について鴎外の潔癖さは有名であるが、この場合も、整頓の原則は徹底した合理主義であった。ものの配列に関して趣味的な感情のはいる余地はなく、ひたすら、暗闇のなかでも必要なものに手が届くようにするのが、彼の整頓であった。先にも述べた荷風の「日和下駄」には観潮楼の書斎の模様が描かれているが、ここで荷風が驚いているのもその軍隊風の簡素さにほかならない。  額もなければ置物もない。おそる〓〓四枚立の襖《ふすま》の明放《あけはな》してある次の間を窺《うかが》ふと、中央《まんなか》に机が一脚置いてあつたが、それさへ云はば台のやうなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出《ひきだし》もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯《すずり》もインキ壺も紙も筆も置いてはない。然しその後に立てた六枚屏風《びようぶ》の裾からは、紐《ひも》で束ねた西洋の新聞か雑誌のやうなものの片端が見えたので、私はそつと首を延して差覗《さしのぞ》くと、いづれも大部のものと思はれる種々なる洋書が座敷の壁際に高く積重ねてあるらしい様子であつた。世間には往々読まざる書物をれい〓〓と殊更人の見る処《ところ》に飾立《かざりた》てゝ置く人さへあるのに、これは又何といふ一風変つた癇癖《かんぺき》であらう。  ついでながら、この六枚屏風は小金井喜美子によれば模様のない金屏風であったはずだが、それさえ鴎外の好みではなく、母の峰子の趣味によるものであったという。そして、この殺風景きわまる部屋のなかへ、主人は白い金巾《かなきん》のシャツに軍服のズボンといういでたちで、「夏はこれに限る。一番涼しい」などとうそぶきながら応対に現われるのである。  また、鴎外は熱心な蔵書家としても知られているが、書物にたいする彼の態度にもおよそフェティシズムの匂いは感じられない。「澀江抽斎」の冒頭に彼がみずから述べている通り、ここでも蒐集《しゆうしゆう》の原則は純然たる合理主義のほかにはなかったといえる。  わたくしは少《わか》い時から多読の癖があつて、随分多く書を買ふ。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆《しよし》と、ベルリン、パリイの書估《しよこ》との手に入《い》つてしまふ。しかしわたくしは曾《かつ》て珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの文学史の序を読むと、バルテルスが多く書を読まうとして、廉価の本を渉猟し、文学史に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないと云つてあつた。わたくしはこれを読んで私《ひそ》かに殊域同嗜《しゆいきどうし》の人を獲《え》たと思つた。それゆゑわたくしは漢籍に於《おい》ても宋槧本《そうざんほん》とか元槧本とか云ふものを顧みない。経籍訪古志は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が澀江と森とであつたことをも忘れてゐたのである。  もちろん、鴎外は書物をものとしても愛するひとであって、片々たる雑誌も製本して保存し、表紙の汚損した古書はみずからつくろって愛蔵したという。けれども、これはあくまでも実用的な手入れの域を出るものではなく、装釘や造本などにたいする格別の嗜好から発した行為ではなかったらしい。生涯唯一の楽しみというべき書物についてすらこの態度であったのだから、まして、日常の些事《さじ》にたいする趣味的な淡泊さは想像にあまりがある。とくに記録されているのは食物に関する好みであるが、どちらかといえば菜食を好んだとはいうものの、彼の味覚はむしろ鈍かったという方が正確であろう。  嫌いなものは鯖《さば》の煮つけと福神漬であったというが、それも寄宿舎や軍隊であまり食べさせられすぎた結果であった。喜美子は若き日の兄が牛乳を好まなかったと述べているが、それもあながち絶対に飲まないという嫌い方ではなかったらしい。茄子《なす》や隠元《いんげん》の煮つけを好み、葉《は》蕃椒《とうがらし》の佃煮《つくだに》を喜んだといわれる反面、喜美子の料理する鴨《かも》肉や牛の舌の塩煮なども好物のひとつであったと伝えられる。(「鴎外の思ひ出」「レクラム料理」)油濃いものは性にあわぬといいながらも、「独逸日記」の彼はきわめて健啖《けんたん》であって、「一皿の米粒肉汁、一大塊の牡牛肉、蒸餅及牛酪」を飽食して、「滋養には余あり」などと書き残している。また、若いころには歯が痛むといって蕎麦掻《そばがき》ばかりを一箇月も続けたり、晩年には米飯に餡《あん》をのせて食べたというような逸話もあって、控えめにいっても鴎外の味覚は総じて無頓着であったというほかはなさそうである。  こうした鴎外の「体質」をつくりあげたものは、第一に質実な彼の家庭であったことはいうまでもない。父の静男は茶の湯を唯一の道楽にしていながら、一生涯、茶器に名物を求めるような境地には踏みこまなかったらしい。晩年には観潮楼の茶室を居間にしていたが、壁には前住者の残した額がそのまま掛けてあって、家人が注意をしても、静男は自分には「趣味がないから」といって平然と笑っていた。鴎外がこういう家長のあり方を無意識に見習ったのは明らかだが、第二に重要な要因として、森家が故郷を失った移住者の家庭であったことを注意しておくべきであろう。衣食住の好みというものは地方性が強く影響するものであるが、その点、東京へ移った森家は始めから根なし草となる運命にあった。家の作りから味噌醤油の味にいたるまで、異質の趣味に適合することが、彼らには生きるための絶対的な条件であった。わが家の味や自分の好みを育てるまえに、彼らはまずそれを矯正し、外界に服従させることが、いつのまにか身についた習慣になっていたものと想像される。  当然のことながら、外界適合のこの努力は彼らの言葉のうえにも及んでいた。 「精出して勉強しんされえ。鰐口君でもどなたでも、長者の云ひんさることは、聴かにやあ行けんぜや。若《も》し腑《ふ》に落ちんことがあるなら、どういふわけでさう為《せ》にやならんのか、分りませんちうて、教へて貰ひんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待つとるから、来んされえ。」  父親がこういう言葉を使えば、息子の友人がたちまちそれに「来んされえ」という綽名《あだな》をつけるのが、彼らの新しい環境であった。そのなかで彼らが使う標準語はまだまだ抽象的な言葉にすぎず、それを手触りのある現代語に変える仕事は、のちに鴎外自身の努力を待たねばならなかった。大正期の羽鳥千尋がほとんどフェティシズムすら感じているあれらの単語も、青年時代の鴎外にとっては、大部分がニュアンスのない記号のようなものにすぎなかった。たとえば「サフラン」という言葉を聞いても、彼は「背中に水を灑がれる」ような感情を味わう暇はなかったのであって、一刻も早く、それが意味するもののかたちを正確に知ることが至上命令であった。  父は所謂《いはゆる》蘭医である。オランダ語を教へて遣《や》らうと云はれるので、早くから少しづつ習つた。文典と云ふものを読む。それに前後編があつて、前編は語を説明し、後編は文を説明してある。それを読んでゐた時字書を貸して貰つた。蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引つ繰り返して見てゐるうちに、サフランと云ふ語に撞着《どうちやく》した。まだ植学啓源などと云ふ本の行はれた時代の字書だから、音訳に漢字が当て嵌《は》めてある。今でも其《その》字を記憶してゐるから、こゝに書いても好いが、サフランと三字に書いてある初の一字は、所詮《しよせん》活字には有り合せまい。依つて偏旁を分けて説明する。「水」の偏に「自」の字である。次が「夫」の字、又次が「藍」の字である。 「お父つさん。サフラン、草の名としてありますが、どんな草ですか。」 「花を取つて干して物に色を附ける草だよ。見せて遣らう。」  父は薬箪笥《くすりだんす》の抽斗《ひきだし》から、ちぢれたやうな、黒ずんだ物を出して見せた。父も生の花は見たことがなかつたかも知れない。私にはたま〓〓名ばかりでなくて物が見られても、干物しか見られなかつた。これが私のサフランを見た初である。(「サフラン」)  要するに森家は、近代の日本人を襲った趣味と教養の変質をもろに受けとめていたわけであるが、そのなかで幸か不幸か、とくに長男の鴎外は外界にたいする抜群の適合力を持っていた。そしてそれを内側から支えた要素として、われわれは第三に、彼の強靱《きようじん》な健康への意志を忘れることはできない。青年期には肋膜炎《ろくまくえん》を経験し、死因のひとつには肺結核が数えられる肉体でありながら、彼は生涯、病苦を訴えることの驚くべく少ない作家であった。胃病の苦しみが作品の主題にまでなった漱石や、頑健なくせにつねに自分を病身だと思いこんでいた荷風に較べて、肉体にたいするこの無関心はまさに目を疑うばかりである。最晩年を除いて彼の日記のなかにも、家族の病気の記録はあっても自分自身への言及は皆無に近い。小説においてもこの無関心を反映してか、病身の主人公は羽鳥千尋がただひとりの例外であろう。じつをいえばこれは日本近代文学史を通じて異例のことであって、奇妙な話だが、このことがまた鴎外という作家を大衆的な親しみから遠ざけたひとつの理由ですらあった。  いったい日本の近代文学の世界に、「佳人薄命、才子多病」というような美意識が、潜在的にどこまで働いていたかはわからない。しかし結果として、蒲柳《ほりゆう》の質が作家の資格のようになったのは事実であり、とくに胃病と肺結核を訴えなかった作家を探すのは誇張でなく難しい。明らかなことは、このふたつの病気がとかく人格形成に影響するほど長く続き、作家にとっては、現実にたいする不適合の意識を研ぎすます要因となるということであろう。これにもうひとつ痔疾《じしつ》を加えてもよいのだが、これらの病気は必ずしも、人間の活動能力をただちに奪い去る猛威は持っていない。また、ある種の畸形《きけい》や不具などとも違って、人生の一局面を決定的に毀してしまう過酷さも備えていない。それは、人間の能力と尊厳をうまく保証しながら、そのうえで彼に、外界との隔絶を拡大して意識させる機能を持っている。一方で、外界は彼にたいしてより重い抵抗を示し、他方、たえまない内部の不快は、生存の感覚に手ごろな信号を送って来るからである。なかんずく胃病と肺結核は、人間を生理的な嗜好《しこう》のうえで狷介《けんかい》にし、その狷介さを家族や社会に容認させる力さえ持っている。食物の好悪にせよ、対人関係の気難しさにせよ、それらは患者を主体的な精神以前の段階で他人から孤立させる。そして、この孤立は本質的には彼の弱さの表現であるにもかかわらず、現実の社会においては、しばしば彼の主体の明確さと混同して受けとられているのはよく知られた実情であろう。  もはやあらためて念を押すまでもないことだが、これらの病気は、いわゆる近代的自我の「陰画」を形成するためにまたとない条件だったといえる。したがって、これがまた日本の近代文学の成立にとって、結果的に重要な条件となったのも当然だといえるだろう。不幸なのは、こうした精神風土のなかで皮肉にも「衛生学」の徒でもあり、生まれつき健康を美徳と信ずる習慣しか持たなかった鴎外であった。たんに健康を守ることが美徳であるのみならず、多くの平凡な市民にとってそうであるように、彼にとっては健康の欠陥をひとまえに見せないことが美徳であった。事実としても健康であった鴎外だが、同時に彼は、いっさいの内臓感覚をたえまなく黙殺する習練をみずからに課していたものと考えられる。そして、肉体の内部にたいするこの鍛練された無関心は、たがいに原因となり結果となって、外界にたいするあの視覚的な観察の鋭さと支えあっていたにちがいない。たんに、視覚が肉体の雑音によってわずらわされないというだけではなく、むしろ自己の内部に手応えのない漠然とした不安感が、ますます鴎外の目を外へ向けて、みずからの空間的な位置を手探りさせたと考えることができるからである。  ところで、こうした鴎外にとって、身辺のさまざまな事物とのつきあい方がどのようなものであったかを想像することは、興味深い。なぜなら、肉感的な趣味をもって事物を選びとれない人間は、当然、それだけ環境から疎遠になり、事物にたいするアパシーに陥る危険が多いからである。事物は彼にたいして冷たく無表情になり、外界は生活の活きた環境としての性格を失ってしまう恐れがある。その危険を無意識のうちに予感してか、ものを選びとれない人間は、しばしばまた、ものを容易に捨てられない人間になるようである。選べない人間はつねにそういう自分が心もとないのであって、偶然によって選ばれたものと自分との関係に縋《すが》ろうとするのだといってもよい。一瞬の選択によって対象と劇的な黙契を結ぶかわりに、彼はものに手入れをしそれを手塩にかけて、長い時間のなかで身辺の事物と断ちがたい因縁を結ぼうと努めるのである。そう考えて見ると、整理癖が強く、極度にもの持ちがよかったといわれる鴎外の心情には、たんなる勤倹の倫理以上に、もう少し切実な衝動を読みとることができるのかもしれない。たとえば、彼の詩のなかで人口に膾炙《かいしや》した「扣鈕《ぼたん》」の主題にしても、この角度から読みなおして見ると、ロマンチックな感傷のかげに、むしろ作者の深い存在感の不安が語られているようには見えないであろうか。 南山《なんざん》の たたかひの日に 袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ その扣鈕《ぼたん》惜し べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 電燈あをき 店にて買ひぬ はたとせまへに えぽれつと かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女《をとめ》 はや老いにけん 死にもやしけん はたとせの 身のうきしづみ よろこびも かなしびも知る 袖のぼたんよ かたはとなりぬ ますらをの 玉と砕けし ももちたり それも惜しけど こも惜し扣鈕 身に添ふ扣鈕(「うた日記」)    最後に、鴎外の「体質」を考える場合、特筆すべき事実は、健康な彼がそれとともに一種の運動神経に恵まれていたということであろう。彼がとくに武術やスポーツに優れていたという記録はないが、自伝的性格の強い「ヰタ・セクスアリス」は、いかにも軽快で敏捷《びんしよう》な彼の少年時代を彷彿《ほうふつ》させる。男色家の先輩に襲われて危うく蒲団蒸しの憂目にあいながら、助けが来るとすかさず自分の本とインク壺をさらって逃げる少年の姿は、おそらく作者自身の実体験にもとづいたものと考えられる。また、ドイツ時代の鴎外をしのばせる「妄想」の一節を見ても、そこで主人公が誇りとしているのは、なかんずく機敏で活溌な身体の能力であった。  昼は講堂や Laboratorium《ラボラトリウム》で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、痴重《ちちよう》といふやうな処《ところ》のある欧羅巴《ヨオロツパ》人を凌《しの》いで、軽捷《けいしよう》に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲《コオフイイ》店に時刻を移して、帰り道には街燈丈《だけ》が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。  じっさい、青年時代の鴎外は手先の仕事にきわめて熟達していたらしく、その優れた実験技術について、「軍医森鴎外」の著者・山田弘倫は知人の証言を引いて次のように述べている。  森教官が衛生学的の実験に卓越した妙技の持主であつたことを親しく実認したものは私位のものであらう。実に理化学的実地操作は堂に入り、其の手捌《てさば》きの巧みなることは、全く驚異に値ひしたものだ。化学天秤《てんびん》取扱ひの周密、ビユレツト、ピペツト取扱ひの妙手、何《いづ》れも鮮やかなもので、我々が模倣しても仲々及ばない事を痛感した。留学中の本場仕込の為《ため》もあらうが、矢張森教官天稟《てんびん》の器用に帰着するものかと思つてゐる。  こうした器用さが鴎外の勤勉に拍車をかけたことは想像に難くないが、さらにこれが、先に述べた彼の肉体にたいする無関心をも一層助長したものと考えられる。器用に動く肉体はその持ち主に抵抗を感じさせることがなく、それだけ、彼は生活のなかで肉体を意識する機会が少ないはずだからである。  だがそれ以上に注意すべきことは、この運動神経が、いつのまにか鴎外の社会的な適合能力を助けていたと考えられることである。運動神経というものはたんに肉体の技術に現われるだけでなく、しばしば言葉の能力というかたちをとって、人間の社交上の関係を滑らかなものにする。その場の気分にあわせて言葉を即妙に選び、快い会話のリズムを的確に保つためには、たんなる知的能力というよりは、一種の運動神経を必要とすることは明らかであろう。そして、とりわけ外国語の習得に示された鴎外の言葉の能力は、同時代の日本人はもとより、西洋人のあいだにも定評のあるところであった。  語学能力の高さは明治の日本人の一般的な特色ではあったが、彼の場合、とくに注目を惹《ひ》くのはその会話の流暢《りゆうちよう》さであった。この点については若年の彼自身大いに恃《たの》むところがあったと見えて、「独逸日記」のなかにはたびたび頬笑ましい自讚《じさん》の言葉が現われている。なかでもドレスデンの地学協会の会合で、例のエドムント・ナウマンを論駁《ろんぱく》した演説のくだりなど、たんなる語学能力を超えて一種の芝居っ気をすら感じさせる逸話である。  在席の人々よ。余が拙《つたな》き独逸語もて、人々殊に貴婦人の御聞に達せんとするは他事に非ず。余は仏教中の人なり。仏者として演説すべし、今ナウマン君の言に依れば、仏者は貴婦人方に心なしといふとの事なり。されば貴婦人方は、余も亦此《またこの》念を為《な》すと思ひ給ふならん。余は弁ぜざることを得ざるなり。夫《そ》れ仏とは何ぞや。覚者の義なり。経文中女人成仏の例多し。是《こ》れ女人も亦覚者と為るなり。女人既に能《よ》く覚者となる。豈《あに》心なきことを得んや。貴婦人方よ。余は聊《いささ》か仏教信者の為に冤《えん》を雪《すす》ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決して耶蘇《やそ》教徒に劣らさるを証せんと欲するのみ。請ふらくは人々よ、余と与《とも》に杯を挙げて婦人の美しき心の為に傾けられよと。  いうまでもなく、大切なのはこの演説の内容ではなく、これだけの言葉が必要な瞬間に口をついて出たということである。もっというならば、彼がこの酒宴の気分の流れを完全に掌握していて、とっさのうちに、「夫れ式場演説は駁す可《べか》らず。酒間の戯語は弁ずべし」と判断して、立ちあがったことであろう。場違いということは社交的な会話の最大の敵なのであって、発言の効果は、その場の空気の流れをいかに掴《つか》んでいるかということにかかっている。そしてこの流れは、けっして分析的な知能によって捉《とら》えられるものではなく、むしろ肉体全体の感受性で直接感じとるほかはないものだといえる。あたかも自転車を乗りこなしたり、水泳で水に浮く最初の勘を掴んだり、あるいは舞踏のリズムをからだで覚えたりするのと同様に、会話の流れもまた、自分の肉体を環境に共鳴させて乗りこなさなければならない。それは反射神経と平衡感覚の微妙な組合せによってなりたつものであり、譬喩《ひゆ》ではなく、スポーツそのものと同じ天分を必要とする。知能とともに、ほかの分野で優れた反射神経を示した鴎外が、この特殊な感受性においてもひと並み以上の天分に恵まれていたことは、容易に想像できるところであろう。  小金井喜美子や小堀杏奴氏の回想によれば、鴎外は数字の記憶がはなはだしく苦手であり、電話番号はもちろん、近親者の命日すらメモの助けなしには思い出せなかったという。機械的な記憶力においてはむしろひと並み以下であった彼が、一方では、四十歳になって本格的に始めたフランス語をたちまち習得したというような逸話を残している。彼にとっては、外国語を覚えるということがすでに一種の流れの把握《はあく》であって、頭の作業というよりはむしろ全身の作業であったことを、雄弁に物語る証拠であろう。彼自身、こうした語学習得法をかなり明確に意識しており、小倉時代の生活を描いた「二人の友」にも、 「然るに私とF君とは外国語の扱方が違ふ。私は口語でも文語でも、全体として扱ふ。F君はそれを一々語格上から分析せずには置かない。」  というような一行がある。  ところで、いうまでもなく運動神経は必ずしも知的能力に伴うものではなく、とくに日本の近代作家の場合、知的には優れていながらこの内的な運動神経というべき能力に欠けている例が多い。漢文と英文に卓越した才能を示しながら、社交的な英会話を好まなかった漱石なども、おそらくその不運な一例と見ることができる。ちなみに、漱石は語学にたいする態度も鴎外とは対照的であり、とくに教室においては、"prefix" "suffix"といった文法上の分析に厳格であったといわれる。そして、重要なことはこの運動神経がたんにそれだけのことにとどまらず、人間の性格形成に深い目に見えぬ影響を及ぼすという事実であろう。なかんずく、人間が人生にたいして「主人《ホスト》」として、「責任者」として生きようとする場合、この能力の多少は人格形成にほとんど決定的な役割を演じると考えられる。  なぜなら、人生の「主人《ホスト》」は、現実的にもまた譬喩的にも、たえずひとびとのなかにあって、身辺の気分の流れを正確に把握していなければならないからである。彼はその流れをすみずみまで管理していなければならず、にもかかわらず、それを自分の好みにあわせて強制することは許されない。逆にいえば、彼はみずからを流れのリズムに共鳴させ、そのくせ、押し流されることなくそれを乗りこなしていなければならない。たださえ困難な仕事なのだが、そのうえの問題は、ひとびとの気分が場面により状況によってさまざまに異なるということであろう。とくに急激な西洋化を経験した日本においては、文化の質が多元的であるために、集会の雰囲気《ふんいき》も場所柄によっていちじるしく違って来る。公の会議の席と私的な酒宴の席、さらには家族どうしの茶の間の会話は、ほとんど異質の法則によって支配されているといえる。そのうえ、それぞれの会合に集まる人間が、同じ理由で多様な教養の質を負っているのだから、日本の社会で「主人《ホスト》」として生きることは極度の難事だといわなければならない。  とりわけこの異質性は、家庭のなかと、その外の世界の分裂となって集中的に現われている。ふたつの世界のあいだでは話される用語さえ違っているのであって、職場ではいわゆる「標準語」を使い、家庭では生まれ故郷の言葉を話しているひとが今日でも少なくない。そしてこの分裂は、当然、伝統的な生活感情と近代化された生活様式の対立というかたちをとり、平たくいえば、内では浴衣を着て義理人情に生きるひとが、外では背広姿で近代合理主義を口にするといった戯画が描かれることにもなる。それに見合って、何より大きいのは言葉そのものの比重の違いであって、伝統的な家庭は寡黙を美徳とするのに、外の社会は何ごとにも論理的な説明を求めるというギャップが成立する。この事情は今日もなお尾を引いており、家族の饒舌《じようぜつ》はどことなくうさんくさく受けとられ、むしろリアリティーは、微妙な表情のうちになり立つ無言の交流にあると信じられている。その一方、こうした人間の黙契は外へ出ればなんの力も持たず、その代りに、「立てまえ」という名の暴力的な言葉の支配があることも、多くのひとが指摘する通りであろう。  こういう状況に生きることは、なかんずく、日々にふたつの世界を往復する男たちにとって耐えがたい苦行となる。教養の質によって差はあるにしても、大部分の男たちは、外の近代的な世界にひそかに虚構の匂いを嗅《か》ぎつけている。にもかかわらず、この世界は生活にとって決定的な重みを持っているから、彼らはそのなかで全力を傾けて生きる「演技」をつづけなければならない。ここではたとえば、不機嫌な顔も理由なく見せることは許されず、彼らはつねに、表情のひとつにいたるまで何ごとか論理的な表現として説明する用意をしていなければならない。説明の語彙《ごい》を豊富に持つことはいうまでもなく、さらにその語彙が滑らかに口をついて出るために、彼らは自分を励ましてつねに快活な気分を保たねばならない。じつは、こうした「演技」に日本の伝統的な男の心は深く疲れているのであって、その反動として、彼らは家庭の寡黙さに実際以上のリアリティーを感じることになる。彼らは家へ帰れば、背広とともに快活さの仮面をもなげうって、なりふりかまわず「自閉症」的な暗い沈黙に沈もうとするのである。こうして、近代の分裂はついに彼らの性格の内部にまで及んだのであって、その結果がいわゆる、「外づら」の好い男ほど「内づら」が悪いという、周知の現象となって現われたのだといえる。  ところでいくつかの近親者の回想を見ただけでも、鴎外が、明治の男性としては異様といえるほど「内づら」のよい性格であったことは明白である。「生まれながらの父」としては当然のこととはいいながら、彼ほど家庭というものを意識的に、いわば毀《こわ》れものに触れるように取り扱った日本人は稀《まれ》であろう。  まだ生意気盛りの学生の時代から、彼は祖母や母や妹や、いわゆる家庭の女たちと中身のある会話をする習慣を持っていた。仕事の話や文学の話、さらに人生上の突っこんだ問題にいたるまで、伝統的な日本の男が女には語らないテーマが森家では家庭の話題となった。鴎外の文学作品そのものが家族の全員に開かれており、最初の長詩「盗侠行」を妹の喜美子が暗誦《あんしよう》したという逸話は、先にも述べた。問題の「舞姫」を書いたときにも、まず家族を集めて篤次郎が読み聞かせているし、「即興詩人」の序文には、とくに母親に読ませるために四号活字で印刷した旨が明記されている。とりわけ、喜美子にたいする彼の態度は注目を惹くものがあり、落合直文らと新声社を興したころには、この意欲的な近代詩の結社に彼女を同人として加えたりもした。先に引用した小倉からの手紙などを見ても、彼は母と妹にみずからの不遇の心境を告白して、ともに人生を考える真剣な姿勢を見せようという努力が明らかであろう。  このような「内づら」の好さは、やがて二度目の結婚後の複雑な家庭のなかで、ひときわ顕著に発揮されることになる。気難しい母親と、わがままな妻にはさまれたこの辛い日常については後に述べるが、そのなかで鴎外の見せた快活なまでの「主人《ホスト》」ぶりは瞠目《どうもく》にあたいする。母には一家の家計をゆだねて安心させ、一方、妻のしげ子には心の不満を小説に書かせ、それにみずから筆を加えて出版するという配慮をも見せた。旅に出れば母にも妻にも筆まめに便りを書いたが、とくに日露戦役出征中のしげ子あての手紙には、家庭における彼の言葉づかいすら彷彿させるものが少なくない。  只今手紙が来たが日附がない。消印もぼんやりして居るが二日のだらうとおもふ。手紙には日づけをするものだよ。(中略)手紙はいくらでも遠慮なしによこして好いよ。おれの処へは色々な手紙が毎日十本づゝ位来るのだからやんちやのが其中にまじつて居たつて目立ちはしないよ。  皆さんによろしく。    四月四日夜林       やんちや殿  (前略)広しまでおれが馬鹿なことでもするだらうといふやうな事がおまへさんの手紙にあつたから歌をよんだ。お前さんは歌なんぞは分らせようともおもはない人だからだめだけれどついでだから書くよ。  わが跡をふみもとめても来んといふ  遠妻《とほづま》あるを誰とかは寐《ね》ん 追つかけて来ようといふやうな親切に云つてくれるおまへさんがあるのに外のものにかゝりあつてなるものかといふ意味なのだよ。歌といふものは上手にはなか〓〓なれないが一寸やるとおもしろいものだよ。何か一つ歌にして書いておこしてごらん。直してやるから。    四月十七日歌よみ       遠妻殿  十月九日と十二日とのお前さんの手紙がとゞいた。向嶋《むかふじま》においでだつたさうだが茉莉をしつかり頼んでおく人さへあるなら気晴らしに出るが好いよ。同窓会なんぞといふやうな処へもなる丈出るやうにしてかはつた人に逢ふのは至極よろしい。内にばかり居てくだらない事ばかし考へて居るほどつまらないことはないのだ。(後略)  (前略)軍司令部に小川一真の大きな写真帖《ちよう》があつて東京の藝者をあつめたものだ。すきな女の上に一同名をかけといふことだ。そこで女の《かほ》のないところへ妻のおのろけをかいてやつた。  つるばみのなれしひとへのきぬのうへに  かさねんきぬはあらじとぞおもふ ツルバミといふのは昔の染色でクロづんだ色なのだ。それを万葉集といふ本に妻の事にして遊女の事をクレナヰ(紅の花ぞめ)としてある。どうだ。ずゐぶんでれ助だらう。併《しか》しあまり増長してはこまります。    一月二十四日でれ助        しげ子殿  いささか人工的な匂いのする快活さだが、それなりに、ここに横溢《おういつ》しているものが一種饒舌な気分であることを否定するひとはないであろう。そういえば、私小説的な色彩の濃い例の「半日」においても、主人公の「博士」は不快な状況のなかで驚くべく饒舌である。現実の鴎外がそれほど口数が多かったかどうかは別として、少なくとも彼は家庭のなかでも、つねに自分を励まして饒舌な感情状態を保っていたことは疑いない。ひとり葉巻をふかして本のうえにうつむいているときにも、彼の背中の表情はつねに家族に向かって開かれており、その無言の触手が間断なく彼らの傷つきやすい神経をなでつづけていた。そういう「父」を持った家族の幸福を、小堀杏奴氏は次のような的確な言葉でわれわれに伝えてくれる。  愛情のような雰囲気、それは父が一人で作って、一人で(自分でも知らないで)あたりの妻や子供や家、本、空気にまで振り撒《ま》いていただけだ。  父はまた落着いて物を片附ける事が好きだった。埃《ほこり》が積った本を引出して、羽みたいなもので丹念に払っている時など、如何《いか》にも楽しそうにしていた。 「なんでもないことが楽しいようでなくてはいけない」と云うのが父の気持だった。処が子供の私にそんな事が解る筈は無かった。  唯自分が遊んでいる傍《そば》に、いつも落着いた父が葉巻をふかすか本を読むかしていてくれると、父の持つやわらかな楽しい気持が乗りうつって来るようで、とても楽しかった。子供の時、出来るだけ狭いものの中に身を小さくちぢめて、何んとも云えない幸福感を感じたものだったが、あの感じに似ていた。(「晩年の父」)  この鴎外の思い出と、たとえば家族が回想するあの家庭における漱石の姿を較べると、はなはだしい対照に誰しも或る感銘を禁じ得まい。文学の弟子たちには父のように慕われた漱石だが、息子たちの目に映った彼は暗い「自閉症」の殻に閉じこもった父親であった。人生にたいする彼の基本的な態度もさることながら、それに加えて彼の運動神経のつたなさが、二種類以上の気分を演じわけることをいちじるしく苦痛に感じさせていたことが考えられる。多様な社会のなかで彼は自分自身のただひとつの気分しか持っておらず、そこから発する言葉が通じないことに耐えがたい疲労を覚えていたのにちがいない。家族にたいして自分を楽しげに見せることは、健全な市民の平凡な倫理だが、漱石はそれを知らなかったというより、それを支える肉体的な条件にめぐまれていなかったというべきであろう。  それにたいして鴎外には、健全な市民の平均以上に、さまざまな人工的な気分を演じわける感受性がそなわっていた。自分を快活な気分へと励ますことが彼には不思議に容易であり、いわばその能力にそそのかされて、かぎりなく「主人」の役割を演じつづけることが彼の宿命であった。幼い小堀氏の観察は正確というほかはなく、彼がひとりで作ってふりまいていたものは、まさに「愛情のような雰囲気」にすぎなかった。それは愛情そのものと呼ぶにはいささか過剰な何ものかであって、鴎外自身、それに気づいていればこそ、たえず自分に向かって、「なんでもないことが楽しいようでなければ」と囁《ささや》きつづけていたのである。  こうした鴎外と漱石とを較べて、そのどちらかをいくらかでも幸福であったと考えるほど、愚かなことはない。たしかに鴎外は、その軽捷な肉体とともに生まれつき身軽な心にめぐまれたといえる。しかし、その軽い心からこぼれつづける淡い微笑のなかに、一瞬かすめるモーツァルト風の哀《かな》しみが見えるのは、たんなる感傷のせいだけではないはずである。 第三章   ㈵ 愛情のような雰囲気《ふんいき》  大手をひろげて、文字通り覆いかぶさるように家族を慈しみつづけた晩年の鴎外が、それにもかかわらず娘の小堀杏奴氏に、ただ「愛情のような雰囲気」をひとりで作ってひとりで撒《ま》き散らしていたにすぎない、と受けとられていた事実は興味深い。そして鴎外みずから、おそらくはこの批評を直接に突きつけられたら、淋しげな微笑を浮かべてそれにうなずいて見せたにちがいあるまい。愛情というものが、受けとる人間によっていかに冷酷に分析されるかを物語る挿話《そうわ》でもあるが、それ以上に、鴎外の生涯の孤独の性質を惻々《そくそく》と伝えるような証言だといえる。  きわめて象徴的なことは、彼がその文学的な出発点において、すでにこの同じ孤独を骨身に沁《し》みる思いで噛《か》みしめながら踏み出していたということであろう。  明治二十三年一月、鴎外の小説として初めて発表された「舞姫」が世に出たとき、若い批評家・石橋忍月は、その主人公・太田豊太郎に作中人物としてひとつの矛盾があることを指摘した。この批評は忍月自身にとっては純粋に美学的なものであり、人物の性格と物語の展開にかかわる技術上の論難にすぎなかった。すなわち、一方で、豊太郎がほとんど心の弱さと見えるほどの優しさを持ち、不遇の少女に逢うとたちまち溺《おぼ》れるような愛を注ぎながら、いったん国家的な地位と名誉に誘惑されると、結局は愛を捨てて功名を選ぶのは性格上の矛盾だという論理である。豊太郎がもし性格的に強ければ不幸な女にあれほど惹《ひ》かれるはずはないし、逆にあれほどまでに心弱い人物なら、自分に処女を捧《ささ》げた女性を功名のために捨て得るはずがない、というのが忍月の批判であった。いかにも明治初期の気鋭の批評家らしい形式的な論理であるが、これが思いもかけず、反駁《はんばく》した鴎外にひとつの重大な告白をさせることになった。  豊太郎は、作中の境遇から見て鴎外自身の分身であることは明らかであったが、注目すべきことに、彼はいささかも豊太郎を倫理的な意味で弁護する態度を見せなかった。むしろ鴎外は忍月の批判を逆手にとって、豊太郎を徹底的に性格の弱い人間として裁断し、女性を愛したのもまたそれを捨てたのも、一貫してこの青年の弱さの現われにほかならなかったと説明した。そうすることによって、たしかに作品構成の一貫性は弁護されるとしても、その反面、主人公の人間的な魅力が傷つくことを鴎外がかえりみなかったのは不思議であった。「舞姫」という作品の全体を通じて、まぎれもなく作者はその主人公とともに泣いている。鴎外の豊太郎にたいする同情は疑いの余地もないのに、忍月との応酬のなかでは、逆に自分の分身を冷酷に突き放すような態度がとられたのである。むしろ忍月の批判は豊太郎の人格については同情的であって、問題は、この心弱い人情家がどうして最愛の女を裏切り得るのかという疑問に置かれていた。しかし、作者の主人公批判はほとんど残酷なまでに徹底していて、豊太郎はたんに人情にもろいばかりではなく、もっぱら境遇によって動かされる受動的な人物として説明されることになった。  そうなれば当然、豊太郎の女性にたいする愛情そのものの質が問われるわけだが、ここへ来て、鴎外ははからずも決定的なひと言を洩らしたのである。 「謫 天 情 仙《たくてんじようせん》は甞《かつ》て此《この》記を評して云《いは》く。太田は真の愛を知らぬものなりと。僕は此言を以て舞姫評中の雋語《しゆんご》となす。舞姫を読みてこゝに思到らざるものは、猶《なほ》情を解すること浅き人なり。」(「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」)  要するに、豊太郎の女にたいするあの慈しみは「真の愛」ではなく、まさに「愛情のような雰囲気」にすぎなかったというわけだが、この発言は印象的というほかはない。薄幸の踊り子エリスにたいする思いやりは「舞姫」全篇に溢《あふ》れていて、ほとんどそれが主人公のものであるか、あるいは作者自身の感情であるか区別もつかないほどだからである。もしあれをさして作者が「真の愛」ではないというのなら、いったいあの感情を彼はどういうものとして自覚していたのだろうか。もちろん、その答えを鴎外は暗示すらしていないが、ここで胸を搏《う》たれるのは、彼が自分にたいしてこういう痛切な反省をつきつけていたことであろう。大手をひろげて覆いかぶさるような思いやりを注ぎながら、しかしなにかが違うということをすでに二十代の青年が感じていた。もっともこのときは彼もなお自分の未来に夢をつないでいて、 「太田生は真の愛を知らず。然れども猶真に愛すべき人に逢はむ日には真に之《これ》を愛すべき人物なり。」(同右)  というひと言をつけ加えている。けれども、この夢が豊太郎についても鴎外自身についてもついに実らなかったことはいうまでもなく、やがて人生の終りにのぞんで、彼は同じ孤独を自分の家族にすら嗅《か》ぎつけられることになったのである。  鴎外の豊太郎にたいするこの苦い反省が、たんに批評家・石橋忍月にたいする論争のための詭弁《きべん》でないことは明らかである。作品構成の一貫性を弁護するために、自作の主人公にたいする愛着を犠牲にするのは、およそ実作者というものの心理に反している。さらに注意深く見ると、作者の主人公批判は忍月の批評とはまったく無関係に、始めから「舞姫」という作品そのもののなかに仕掛けられていたと見ることができるのである。  このあまりにも有名な青春の物語は、その冒頭から、主人公の苦渋に満ちた自虐の言葉で埋められている。祖国の輿望《よぼう》を担ってドイツ留学を命じられた俊才の自負心も、新鮮な感受性をもって受けとめたヨーロッパ文明の印象も、すべてが真暗な自己嫌悪に変わるほどに豊太郎の後悔は深いのである。考えて見れば、極貧のなかに父を亡《うしな》い、葬儀の費用にも窮しているエリスに遭ったときから、豊太郎のとった行為は文字通り一方的な庇護《ひご》の提供であった。彼は必要な金をあたえ、無教養の少女に文字や趣味の教育をさずけ、ついにはその老母まで含めてエリスの全生活を支えるところまで踏みこんで行く。もし豊太郎の出現がなければ、エリスの運命はのちに彼に捨てられた状況よりもっと悲惨になったことは明白であるのに、彼はいささかもその事実を思いあわせてみずからの自責の念をやわらげようとはしないのである。  いったい、豊太郎に女を一時の慰みにする気がなかったのはいうまでもなく、最後の瞬間まで、彼はエリスを裏切るという明確な決心すらくだしたことはなかったといえる。彼が少女と深い関係を結んだのは、たまたま上司との対立から官費留学生の地位を失い、加えてただひとりの母親の訃報《ふほう》に接して、精神の極度の衰弱に襲われているさなかであった。「国家」と「家」というふたつの帰属の世界を一瞬に奪われて、動揺のあまり、豊太郎はこのときたった一度だけエリスに受動的な態度で接したといえる。彼は庇護するのではなく逆に慰めをあたえられたのであるが、この関係はふたりのあいだにたった一度しか成立していない。そののちの豊太郎はしがない新聞通信員の仕事に報酬を得ると、あらためてエリスの一家にたいする「家父長」的な庇護者の地位に就くのである。そのときどきの細かな心理の動きは別として、豊太郎のとった行動の図式はあまりにも明晰《めいせき》だというほかはない。若い明治国家と母ひとり子ひとりの彼の家庭は、それまで手をたずさえて豊太郎に「父」としての役割を求めていた。その期待の糸がにわかに断たれた瞬間に、彼の目のまえには、おりから「父」を失ったエリスの一家が同じ役割を求めて手をさしのべていたのである。  あたかも天使のような救済者の立場から、ついで少女の教養の師匠となり、やがて夫と父親とを兼ねたような庇護者となるのが、豊太郎のエリスにたいする関係であった。きわめて注目に値いするのは、彼らの二年にわたる生活のなかで、ただの一度もエリスが豊太郎の将来について真剣な配慮をする場面がないことであろう。男としての志から見ても、故国や同胞との関係から見ても、このときの豊太郎の立場が不自然であることは誰の目にも明らかである。男を愛する女なら当然そのことに心が痛むはずであるのに、エリスの言動にはそうした思いやりの片鱗《へんりん》すらうかがわれない。のちに友人の周旋で豊太郎が天方伯の愛顧を得ることになったときにも、エリスの心をよぎるのは自分自身の将来の心配だけであった。男の仕事を認め、それと自分たちの愛情をなんとか折り合わせようとするのはごく普通の人情だが、一家の主婦となるべき女なら当然のこの努力さえ、エリスの念頭に浮かんだ形跡はないのである。  いわば女というより完全な「子」として生きるエリスにたいして、豊太郎と作者のまなざしはじつに驚くべく寛容である。エリスは終始あくまでも美しく、可憐《かれん》に描かれていて、そのことが相対的に、豊太郎の最後の行動をいやがうえにも利己的に見せるようにしくまれている。エリスにたいするこの異様なまでの理想化は、じつは「舞姫」という作品を理解する重要な鍵《かぎ》なのであるが、その点を鋭く指摘した研究に谷沢永一氏の『森鴎外の「舞姫」の発想』がある。  谷沢氏の分析の底にあるのは、これまで文藝批評と呼ぶにはあまりにも道学的な、浅薄な「舞姫」批判が横行して来たことにたいする抗議だといえる。かつて石橋忍月が美学的な意味で性格の矛盾として捉《とら》えた恋愛と功名心の対立を、昭和の批評家はさらに歪曲《わいきよく》して、太田豊太郎の道徳的な二者択一の問題として捉えようとした。少し極言すれば、それは「君と寝ようか五千石取ろか」という俗謡の選択にすぎないのだが、従来まじめに、豊太郎を女を捨てて「五千石取った」人物として非難するていの批評が行われることがあった。もちろん、そこには「近代的自我の挫折《ざせつ》」とか、「ヒューマニズムと官僚性の矛盾」といった言葉の装飾はつけたされたものの、その真意はきわめて古風な意味で、豊太郎の男としての利己心を非難するところにあったといえる。そしていうまでもなく、この道徳的非難は究極には作者・鴎外を串刺《くしざ》しにして、その「反人間的」な、「卑劣な官僚性」を攻撃することをめざしているのがつねであった。  だが、こうした批判が見逃していたのは、鴎外が豊太郎の行為を弁護する一片の意図も持たず、むしろエリスを理想化することによって、豊太郎の「罪」をことさら強調しようとしている事実であった。それは主人公をとくに罪人にしたてようという自虐趣味の表現ではなく、いっさいの倫理的立場を離れて、作中の行動をただ客観的に眺めようとする態度の現われと見ることができる。その結果、浮かびあがって来るのは、女性にたいする深い誠実を知りながら、にもかかわらず、社会的な活躍に野心を抑えきれないひとりの健康な青年の現実の姿なのである。たしかに女性にたいする思いやりと、現実世界に自分の能力を大きく試したいという欲望とが、ともに同じ重さをもって心に疼《うず》くのは健全な青年の本来の姿だといえるだろう。だとすれば鴎外が「舞姫」で描こうとしたのは、そうした青春の通有のアンビヴァレンスであり、その具体的な現われとして、豊太郎が前者に万斛《ばんこく》の涙を注ぎながら、それでもなお後者の道を歩くことになんの不思議もないはずである。  こうした公平な「舞姫」解釈を読んで見ると、いまさらのように奇異に感じられるのは、恋愛にたいして、男の社会的な野心をただちに悪と見るこれまでの「舞姫」批評の先入観であろう。とりわけ、同種の挿話を扱った永井荷風の「あめりか物語」や「西遊日誌抄」を思い出すにつけ、とくにこれが、鴎外の「舞姫」においてのみ倫理的な問題になったということは奇異というほかはない。女にたいする男の身勝手さを問題にするならば、豊太郎はとうてい荷風のあのふたつの作品の主人公の足もとにも及ばない。豊太郎は天方伯の奨めを受けて日本への帰国を承知したとき、その場の空気に呑まれ、不意をつかれてほとんど反射的な返答をしたにすぎなかった。そして、この約束がしだいに彼を縛ってのっぴきならない現実となるにつけ、彼は自分を「免《ゆる》すべからざる罪人」として責めさいなみ、「黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とかいはん」と煩悶《はんもん》するのである。これにたいして荷風の場合、男ははっきりと女を捨て去るという意識を持っており、しかもそのことについて、いささかも相手の女のために悲しむという気持を見せていない。たとえば、荷風そのひとと考えられる「西遊日誌抄」の主人公は、自分の藝術的な功名心のために、追いすがるイデスを捨てることになんの倫理的なとがめも感じていない。  今余の胸中には恋と藝術の夢との、激しき戦ひ布告せられんとしつゝあるなり。余はイデスと共に永く紐育《ニユーヨーク》に留りて米国人となるべきか、然らばいつの日か此《こ》の年月あこがるゝ巴里《パリ》の都を訪ひ得べきぞ。余は妖艶《ようえん》なる神女の愛に飽きて歓楽の洞窟《どうくつ》を去らんとするかのタンホイゼルが悲しみを思ひ浮べ、悄然《しようぜん》として彼《か》の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし。(「西遊日誌抄」明治三十九年七月八日)  イデスと別杯をくむ。此の夜の事記するに忍びず。彼の女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二三人もあればいかにもして旅費を才覚しこの冬来《きた》らざる中に巴里に渡りそれより里昂《リヨン》に下りて再会すべしといふ。あゝ然れども余の胸中には最早や藝術の功名心以外何物もあらず、イデスが涙ながらの繰言《くりごと》聞くも上の空なり。(同右明治四十年七月九日)  もちろん、この述懐には別の意味で、人間としての荷風の本質的な悲しみが秘められている。こののち二度と彼は愛をまっとうし得る真の恋人に逢うことができず、生涯、第二、第三のイデスと同じ別れを繰返すことになった。豊太郎とは違った意味で、荷風もまた「真の愛」を知らない人間であったのだが、ここにはそういう自分の宿命を予感した悲しみがこめられている。しかし、少なくとも世俗的な倫理を問題にするかぎり、自分をタンホイザーになぞらえて恍惚《こうこつ》とする青年より、自責のあまり高熱にうなされる青年の方が読者の同情をさそっても不思議ではなかった。にもかかわらず後世の批評家によって、倫理的に責められたのが後者であったというのは示唆的な現象で、おそらく考えられる理由はただひとつしかないのである。すなわちここでもまた、批評家の頭を支配していたものに「近代的自我」の神話があり、それを尺度にして裁いたとき、同じ功名心も荷風の場合は許せるが鴎外の場合は許せない、という先入見を招いてしまったのにちがいない。 「舞姫」の主題が「近代的自我」の悲劇であり、豊太郎の運命はその萌芽《ほうが》と無残な挫折をあらわしたものだという解釈は古くからある。エリスとの愛は幼い自我の自由な飛翔《ひしよう》の象徴であり、一方、日本への帰国はたんにエリスへの背信ではなく、豊太郎みずからの自我にたいする裏切りだという解釈である。そして、もしこの図式が適用されるとすれば、これにたいして荷風の「功名心」が非難を免かれるのは当然であろう。なぜなら、彼の野心はパリへ渡ってフランス文学を学ぶことであり、あくまでもひとりの青年の欲望を奔放に追求することだったからである。荷風においては外国留学そのことが父にたいする叛逆《はんぎやく》であって、恋愛も功名心もその同じ一線のうえに乗っていた。イデスとの交情が自由な自我の表現であるのはもちろんだが、荷風の場合にはそれを裏切ることもまた自由な自我の溢出《いつしゆつ》だということができた。そして、「近代的自我」というこの呪文《じゆもん》に似た言葉が顔を出すと、近代の日本人は、たいていの残酷さや神経の粗笨《そほん》さにひそかに目をつぶる習慣を養って来たのである。 「舞姫」の場合には、ふたりの男女のあいだに「国家」というものが立ちはだかり、あたかもその力が「純粋な愛」を外側から踏みにじったかのように見えるところが、非難の焦点となった。「国家」という要素があるために、ここでは恋愛と功名心が正反対の極に置かれ、恋愛は自我の表現だが、功名心はその放棄だという図式があてはめられた。この図式はあまりにも広く信じられて来たので、誰も、鴎外の時代における国家と青年の特別の関係を正しく見なおそうとはしなかった。まして豊太郎のエリスにたいする感情については、それが近代的自我の純粋な愛だという前提を疑おうとはしなかったのである。豊太郎は「真の愛」を知らなかったという作者自身のほそぼそとした声は、圧倒的な先入観のまえにあっさりと黙殺された。それはあたかもあの「妄想」において、痛切に自我の空虚を訴える作者の述懐が、これまで多くの批評家によって無視されたり曲解されたりした事情に見合うものだといえるだろう。  先入観を捨てて虚心に読めば、われわれはただちに「舞姫」の悲劇をこれとは正反対のものとして読むことができる。もし豊太郎が恋愛を捨てて功名心を選んだとするならば、その理由は通説とは逆に、このふたつが彼にとっては同質のものであったからにほかならない。その意味では表面の見かけとは違って、「舞姫」の悲哀は「西遊日誌抄」のそれをちょうど裏返したかたちで相似形をしているといえる。荷風の場合に、恋愛と功名心がともに父を拒絶するという感情に貫かれていたのにたいして、豊太郎の場合には、このふたつはいずれもなにものかを拒絶し得ない心情によって導かれていた。恋愛も功名心も、若い荷風にとっては基本的に人生にたいする攻撃的な主張であったが、豊太郎においてはそのどちらもが、むしろ他人にたいする配慮から思いがけなく巻き込まれて行く経験にすぎなかった。  こうした心の傾向を鴎外は豊太郎の「弱き心」と呼ぶわけであるが、その萌芽というべきものは、すでに早くから彼の幼少の性格のなかに現われていた。  彼《かの》人々は余が倶《とも》に麦酒《ビイル》の杯をも挙げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且は嘲《あざけ》り且は嫉《ねた》みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼《ああ》、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歓《ねむ》といふ木の葉に似て、物触《さや》れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学《まなび》の道をたどりしも、仕《つかへ》の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能《よ》くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条《ひとすぢ》にたどりしのみ。余所《よそ》に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横浜を離るゝまでは、天晴《あつぱれ》豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾《しゆきん》を濡らしつるを我れ乍《なが》ら怪しと思ひしが、これぞなか〓〓に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。  彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。  ひとの目には嫉ましい出世主義とも見えたにちがいない勤勉ですら、彼にとっては人生にたいする攻撃的な要求の表現ではなかった。もちろん豊太郎は一面すぐれた才能にめぐまれていたから、こうした性格が彼をただ無力で退嬰《たいえい》的な人間にすることはなかった。むしろ、攻めて来る敵にたいしては強い防衛的な力を見せることもあるのだが、それとても彼の内部になにか絶対に譲れない要求があるからではなかった。その結果、豊太郎がみずから告白するように、 「余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抵抗すれども、友に対しては否とはえ対《こた》へぬが常なり」  というのが彼の基本的な人生態度となった。自分に固有の要求があれば友にも敵にも同様に譲れない一線ができたはずだが、彼が問題にするのは、もっぱら敵として現われる他人の攻撃的な態度のほかにはなかった。いいかえれば、彼は敵に攻められたとき始めて守るべき自己を自覚するのであり、敵という外枠《そとわく》がなくなれば、たちまち彼の存在そのものが砂のように崩れ去ってしまう不安を認めているのである。  したがって、功名心それ自体が、豊太郎においては始めからあのジュリアン・ソレル風の自我拡張の道につながってはいなかった。それは逆に、友人や母親を含めた他人の期待に応える道であり、どこまでも身辺の人間と和解し、協調しようとする心の表現であった。こういう青年が欧洲の自由な風に触れて、一瞬「まことの我」にめざめたとしても、それがはなはだ観念的な、しかもネガティヴな経験になるのは当然であろう。「舞姫」の冒頭で、豊太郎はたしかに「きのふまでの我ならぬ我」に気づいたといっているが、積極的に自覚されているのはあくまでもそこまでのことにすぎない。それでは、仮面を捨てた「まことの我」がどれだけの実体を持っているかといえば、彼は具体的にどのような内部衝迫も自分のなかに感じとることはできない。ドグマチックに自分の行動を規制する倫理的な信条もないし、そうかといって、彼の肉体にはいっさいの倫理を圧倒するほどの強烈な動物的欲望もないのである。  おそらく問題のエリスとの愛の性質がこれまで誤解されて来たのは、一見、豊太郎の自我の覚醒《かくせい》を思わせるこの冒頭の述懐があるためであろう。しかし、仔細《しさい》に作品を読めば誤解は一目瞭然なのであって、豊太郎をエリスへと押しやったものは、まぎれもなくあの「弱い心」の裏返しの働きのほかにはなかったのである。挑発的な娼婦などには魅《ひ》かれたことのない彼の心を、一瞬に捉《とら》えたのは少女のいじらしく寄る辺なげな姿であった。  この青く清らにて物問ひたげに愁《うれひ》を含める目《まみ》の、半ば露を宿せる長き睫毛《まつげ》に掩《おほ》はれたるは、何故《なにゆゑ》に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。  彼は料《はか》らぬ深き歎《なげ》きに遭ひて、前後を顧みる遑《いとま》なく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫《れんびん》の情に打ち勝たれて、余は覚えず側に倚《よ》り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累《けいるい》なき外人《よそびと》は、却《かへ》りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆《あき》れたり。 「臆病なる心」が「憐憫の情に打ち勝たれて」、「覚えず」少女に近づいたというのは、きわめて正確な告白だといわねばならない。これは彼ののちのちの行動までも含めて、豊太郎のエリスにたいする感情の質を端的にいいあてている。彼はみずからの激しい心の動きをいぶかしがっているが、このとき待ち受けていたのは豊太郎にとってもっともなじみ深い状況であった。目前にいるのは父をなくして全身で庇護を求めている少女であり、その無力な少女の双肩にかかっている年老いた母親であった。一面で、エリスの姿は幼い日の豊太郎自身を思い出させるものであり、他面では、遠く彼の庇護の手を待つ自分の母親を思わせるものでもあっただろう。とっさに近づいて言葉をかけるところから、やがてエリス・ワイゲルト一家の若い「父」として振舞うところまで、いわば彼の反射的な行動を導くレールは完璧《かんぺき》なまでに用意されていた。少なくとも豊太郎がこれだけの行動を決意するために、とりたてて「独立の思想」も「まことの我」の自覚も必要なかったことは明白なのである。  不幸であったのは、彼がこの過程で母親を失い、さらに国家からも切り離されて、「父」として生きるための本来の場所を喪失したことであった。もしこういう事件がなければ彼の帰属感覚に迷いの生じる余地はなく、おそらくエリスとの関係も心暖い友人の範囲にとどまったことであろう。あるいはまた、これらの事件なしにエリスへの思慕が深まって行けば、そこに初めて帰属関係の重大な選択の必要が生まれ、豊太郎はもっと意識的に家と国家とを捨てなければならなかったかもしれない。そしてそうなれば、初めて豊太郎はこの愛を自己の内発的な欲求として貫くことになり、いわゆる近代的な男女の愛として純粋化することに成功したかもしれない。しかし実際に起ったことはその逆であって、豊太郎はいっさいの選択をするまえに、家と国家の側からむしろエリスのもとへ追い立てられたかたちになったのである。  もちろん、豊太郎のエリスにたいする感情が、始終、単純な憐憫や同情にすぎないものでなかったことは明らかである。エリスは美貌であり、性的な魅力もあり、豊太郎は最初からそれに男としての衝動を感じている。そのうえ、のちにエリスと肉体的な関係を結んだとき、彼が暫《しば》しにもせよ逆に彼女にたいして甘えの感情を抱いていたことも疑いない。  余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇《わがさつき》を憐《あはれ》み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢《びん》の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺戟《しげき》によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何《いか》にせむ。  この瞬間、彼は「父」としての役割を放棄し、愛することよりも愛されることを求めてエリスの腕のなかに身を投じた。「恍惚の間」に彼はそれまでの自己でなくなる一瞬を経験したのだが、じつをいえばこの一瞬こそ、彼の感情が「真の愛」に変り得るおそらく唯一の機会だったのである。豊太郎にとって、この経験が長くは続かず、ふたたび内部の「父性」がその後の行動を圧倒的に支配してしまったことは不幸であった。なぜなら真の愛を同情や憐憫から区別する決定的な一点は、その感情が、それを経験する人間の人生態度を深く混乱させるところまで高まるかどうかにかかっているからである。  いうまでもなく、男女の愛というものは、第一にふたりが自分たちの閉鎖的な世界を造るところから出発する。男女の愛の第一条件は余人を容《い》れぬ閉じられた関係を結ぶことであり、その結果、しばしばそれは積極的に反社会的な形態をとることになる。愛する男女がもうひとりの男女を受け容れないのはもちろんのこと、しばしば彼らは家族や友人や、その他の社会的な関係の束縛を断ち切ろうとする。人類愛にせよ家族愛にせよ、さまざまな精神的な愛が複数の人間を対象とし、究極的により多くの他人を内に包もうとするのにたいして、男女の愛だけは、精神的でありながら他人の排除をめざす特異な愛のかたちだといえる。ちなみにいえば、こういう感情をひとつの精神的な愛として、いいかえればひとつの道徳的な価値として、公然と認めたのは西洋文化だけの特色であった。東洋においてはそれは肉欲の一種としてひそかに許されるか、あるいは家族愛の一変形として制限つきで容認されたにすぎなかった。日本においても古くからその美的な価値は公認されたものの、他の徳目と並ぶひとつの倫理的な価値として認める伝統がなかったことはいうまでもあるまい。その意味でも、この時代の豊太郎や鴎外のような青年は、東西ふたつの価値観の鋭い対立にひきさかれていたことを忘れてはならないだろう。  けれども、男女の愛の最大の特徴は、それが他人に叛逆するだけにとどまらず、最後には、愛しあうふたりがそれぞれ自分自身に叛逆するにいたるという一点であろう。  それぞれの価値観と人生態度によって選んだはずの恋の相手であるのに、逆にその相手によって自分の人生態度を変質させられるのが、恋というものの宿命だといえる。表面的な現われとしては、利己的な人間がにわかに自己犠牲にめざめたり、尊大な人間が卑屈なまでに膝《ひざ》を折るというのはありふれたエピソードである。精神的な子供が成熟することもあれば、常識に安住していたおとなが逆に少年の日に帰るという現象もしばしば見受けられる。要するに、恋する人間には人生上の役割の動揺が不可避なのであるが、これは男女の愛というものが、本質的に深い矛盾の産物であるからだといえるだろう。一般に、精神的な愛は相手にどこまでもあたえ続けることを意味しているが、肉体的な欲望は、それとは反対にあくまでも相手からあたえられることをめざしている。そして、男女の愛はそれが深まれば深まるほど、ますます鋭く矛盾するこの正反対の願望の結合のうえになりたっているからである。  人間の態度の面からいえば、愛することは一方で純粋に能動的な肉薄であり、いいかえれば徹底的に主体的な選択であることはまちがいない。恋愛というものは相手を全面的に肯定することから始まるものであり、恋する人間は、いっさいの悪条件を自分ひとりの責任として一方的に引受けることを喜びとする。恋する相手の魅力をも含めて、彼はさまざまの客観的条件を考慮に入れ、その論理的な帰結としてひとを愛することを決意するのではない。ともかくもひとを愛することが先にあって、愛すべき条件は逆に愛する心が造り出すものであることは、スタンダールのあの「結晶作用」の譬喩《ひゆ》が示す通りであろう。  だが、恋愛というものの痛烈な逆説は、相手を選びとり、創り出すこの能動的な心の働きが、他方において、相手に愛されるという完全に受動的な状態をめざしていることである。全精力を傾けて相手を無数の美点で飾りながら、しかし恋する人間は、藝術鑑賞家のようにそれだけで満足することはできない。彼の唯一の目標は相手によって自分が選びとられ、その美しい生きものによって理解され、受け入れられることにおかれているからである。最愛のアベラールのために結婚の幸福すら犠牲にしたエロイーズも、また不実なマノンのために全生涯を捨てたシュヴァリエ・デ・グリューも、最後まで、その犠牲を相手に受け容れられたいという望みだけは捨てることができなかった。宗教的な犠牲が自己犠牲そのものによってひとを安心させるのと違って、恋する人間は相手にすべてを捧げながらもなお不安を脱しきれない。なぜなら、そういう献身も所詮《しよせん》は相手が必要としてこそ意味があるといえるのだが、恋する人間は相手が自分を必要としているかどうか、けっして確信を持つことができないからである。さらに残酷なことに、彼は実際にあらゆる犠牲を払いながら、そういう自分に一種の倫理的な美しさすら感じることはできない。なぜなら、どれほど一方的で献身的な犠牲を払おうとも、恋の犠牲は結局はひとつの大きな代償のために払われていることを、彼自身が知りつくしているからである。  ところで、もし男女の愛がこういう性質のものだとすれば、太田豊太郎の感情がその必要な条件の半ばも満たしていないことは明らかであろう。なるほど、彼の心にも強い「結晶作用」が起っていたことは疑いなく、そのことは作中におけるエリスの姿の極端な美化となって現われている。だが、裏返していえばその「結晶作用」はあまりにも純粋に無欲であり、孤独といってもよいほど主体的でありすぎるのである。  第一に目につくことは、豊太郎がエリスにたいして極度に自分を語ろうとせず、無意識のうちに、自分を理解されたいという欲望を強く押し殺していることであろう。母を失い故郷に見離された不安をすら、彼はその切実な意味については語ろうとせず、その結果エリスは、それを「故里《ふるさと》に頼もしき族《やから》なし」という事実としてしか理解していない。じつをいえばそれは彼自身が語るまでもなく、むしろエリスが積極的に聞き出すべきことであったのだが、不幸なことに彼女は豊太郎の心の伴侶《はんりよ》としてはあまりにも幼かったというべきだろう。「我学問は荒《すさ》みぬ」という苦渋に満ちた感慨にしても、彼はただそれを胸中にひと知れず反芻《はんすう》するばかりであった。しかも、たったひとりの伴侶をまえに、心のもっとも切実な問題を語り得ないのは淋しいことであったはずだが、奇怪にも豊太郎はその孤独を意識している様子すらない。のちに天方伯に伴われてロシアへ旅立ったとき、彼はエリスから切々と惜別の思いを訴えた手紙を受けとって悩むのだが、そのときにも彼が今さらのように感じるのは女にたいする自分の責任の重さのほかにはない。恋人がありながら、胸中の煩悶を誰に訴える相手もない深刻な淋しさを、この期に及んでも豊太郎は思い出した気配さえ見せないのである。  そう見て来ると、この作品の結末がエリスの発狂で終り、最後まで、豊太郎と彼女が真剣な対話の機会を奪われていることも、偶然ではないように思われる。これは物語に悲劇的な効果をそえようという意図の産物ではなく、愛についての作者の感受性が必然的に生み出した結果にちがいない。すなわち、かりに豊太郎をあの状況のもとで正気のエリスに会わせても、彼にどのような態度でなにをいわせてよいか、鴎外の感受性ではまったく想像することもできなかったのである。その意味で興味深いのは、先に述べた石橋忍月にたいする鴎外の反駁文のなかの一節であろう。彼は作品の別の結末を仮定して、  太田は弱し。其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹《かか》ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦《また》知る可《べ》からず。彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚《ざんい》して自殺せしも亦知る可らず。臧獲《ぞうかく》も亦能《よ》く命を捨つ。況《いはん》や太田生をや。  と想像をめぐらしている。興味深いのは、たとえ豊太郎がこうして正気のエリスに会ったとしても、その結末はやはり彼が独力で事を処理し、おそらくはひとりで自決を覚悟する以外には考えられなかったということである。鴎外の想像力のなかには、たとえば豊太郎が理解を求めてエリスのまえに膝をつき、これにたいして彼女の側から、たとえ稚拙な解決であれ一策を申し出るという場面は思い浮かばなかった。そのときにこそ、じつはエリスの側の真の愛が験《ため》されたはずであったが、豊太郎は自分の心を験すことはあっても、女の愛を験すということは最初から夢にも考えていないのである。  スタンダール風にいえば、恋する男はやがて第二の「結晶作用」に進み、相手の愛の証拠を執拗《しつよう》に求めるのであるが、いわば豊太郎の心にはこの「結晶作用」の第二段階が欠けていたというべきだろう。端的にいえば、彼はエリスを極度に「父性」的に愛するあまり、無意識のうちに、彼女によって愛されることを拒んでいたと見ることができる。さらにまた、エリスにとって彼の庇護者としての存在はあまりにも不可欠であって、どの瞬間にも、恋人としての彼には自分の必要性を疑う機会がなかったといえる。要するに外的な条件から見ても、また彼の内面の性格から見ても、エリスにたいする豊太郎の「父性」はあまりにも堅固であり、そこには最初から、愛の逆説的な二面性が割り込んで来る空隙《くうげき》があり得なかった。豊太郎には恋人としての根源的な不安がなく、いいかえれば愛する者から愛されたがる者へ、すべての恋人が味わうあの役割の転倒が起り得なかったのである。  そして、愛されることを望むこの受動的な側面が欠けたとき、その愛はけっして先に述べた愛の閉鎖的な世界を造ることはできない。なぜなら、純粋に能動的な愛はむしろ人類愛や家族愛に似るのであって、本質的に、より多くの対象を求めて外の世界へ開かれているものだからである。  現実の豊太郎とエリスの生活はひとつの世界を造って閉じられていたように見えるが、それは第一に、彼らの関係が偶然によって外の世界から切り離されていたからにすぎない。積極的に彼らを結んでいたのは彼らの肉欲と日常の安逸であり、せいぜいそれを外から支える貞操の観念のほかには考えられない。だが、肉欲も安逸も他の欲望のまえにいつか相対化されるし、貞操の観念も観念である以上、他のさまざまな義務の観念によって逆襲を受ける。そして、これらを除けば豊太郎の愛は、本来エリス以外のもうひとりの少女に及んでもよいものであり、極言すれば、彼の助けを求めるあらゆる対象に及んでもしかるべきものであった。  これにつけて思い出されるのはのちの「ヰタ・セクスアリス」の主人公であるが、彼は結婚を奨められて、どうしても特定の女性を選びとることのできない自分の奇妙な無感動をいぶかしがっている。  僕はお嬢さんを非常な美人とは思はない。併《しか》し随分立派なお嬢さんだとは思つてゐる。品格はたしかに好い。性質は分らないが、どうもねぢくれた処《ところ》なぞが有りさうにはない。素直らしい。そんなら貰ひたいかと云ふと、少しも貰ひたくない。嫌では決してない。若《も》し自分の身の上に関係のない人であつて、僕が評をしたら、好《すき》な娘だと云ふだらう。併しどうも貰ふ気になられない。なる程立派なお嬢さんだが、あんなお嬢さんは外にもあらう。何故《なぜ》あれを特に貰はねばならないか分らないなどと思ふ。そんな事を考へては、娵《よめ》に貰ふ女はなくなるだらうと、自ら駁《ばく》しても見る。併しどうも貰ふ気になられない。僕は、こんな時に人はどうして決心をするかと疑つた。そして、或は人は性欲的刺戟を受けて決心するのではあるまいか。それが僕には闕《か》けてゐるので、好いとは思つても貰ひたくならないのではないかと思つた。 「好い」と思うのは相手に愛をあたえることであり、「貰ひたい」と思うのは相手によって愛されたいと願うことである。生理的な欲望とは別のところで、この人物もまた、女性から愛を受けとりたいという欲望をみずからにたいして禁じている。そして、この受動的な姿勢を拒んでしまえば、ひとは恋人であれ友人であれ、関わるべき相手を選べなくなるのは当然なのである。なぜなら、たんに一方的にあたえるだけなら、ひとは見知らぬ乞食にでも思いやりをあたえることができる。受けとるということは自分の弱い面で他人と触れあうことにほかならず、そこに始めて相手を選ぶという必要が生じるものだからである。したがって、この人物は太田豊太郎の極端な分身であり、その不幸を拡大鏡でのぞいたような人物だといえる。豊太郎はエリスとのあいだに閉じられた世界を完成することができなかったが、ここにはついにその門口にさえ立てなかった人物が描かれているのである。  そういう豊太郎のまえに、あたかももうひとりの求愛者のように迫って来たのが彼の祖国という存在であった。この場合の国家の性格について、あらためて多くの説明を繰返す必要はないであろう。現象的にはそれは天方伯という権力の顔をしていたわけであるが、実質的には、幼い明治国家が有為の青年にむしろ助けを求めて近づいて来たのであった。実際に天方伯の外交交渉を手伝って見て、豊太郎はいかに国家が彼の助けを必要としているかを身に沁みて実感した。しかも一面、その国家は相沢謙吉という彼の親友によって代表されており、エリスからは期待すべくもない母性的な理解の手をさしのべていたのである。豊太郎の本来の才能も、その現在の失意をも十分に理解したうえで、相沢はさらに、豊太郎の恋の決定的な弱点を指摘する。 「又彼少女との関係は、縦令《よしや》彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。」  自分の恋が惰性にすぎないといわれて豊太郎は不満であったにちがいないが、それに反論できなかったのは、「人材を知りてのこひにあらず」というひと言が鋭かったからである。いうまでもなく人材を知らぬ恋とは、その裏にある男の孤独も知らない恋ということであり、相沢はそれと知らず、豊太郎がエリスによって愛されていないという事実の核心を衝いていたのである。返す言葉もなくうなだれる豊太郎の脳中には、ただ、 「縦令《よしや》富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣《のたま》ふ如くならずとも。」  といってとりすがる、あまりにも無邪気なエリスの姿が浮かぶばかりであった。  このときの豊太郎の心の葛藤《かつとう》は、彼がみずから自覚していたよりもさらに複雑なものであったといわねばならない。彼が自覚していたのは愛と功名心の対立であったが、ほんとうの分裂はむしろ、愛についての彼の感受性そのもののなかにあったといえる。  すなわち、一方で豊太郎の「父性」は宿命的なものであり、エリスであれ誰であれ、それが無意識のうちに相手によって愛されることを拒んでいた。だが、同時に彼の心の底にはひと知れぬ餓えがあって、それがひそかに、母性的な愛を求めて疼《うず》きつづけていたことが考えられるのである。現実には、「父」として生きる以外に生き方を知らないにもかかわらず、なおかつそのことに彼は或る漠然とした悲しみを感じていた。逆にいえば、彼はこの世に「真の愛」というものがあることをうすうす予感しながら、しかしどうしてもそれにはいりこめない自分に、或る欠落を感じていたことは想像に難くないのである。  そして、これはまた作者である鴎外そのひとの悲しみでもあったはずだが、これを裏づける示唆的な証拠は彼の女性のタイプにたいする好みであろう。興味深いことに、エリスは鴎外の作品のなかではまさに例外的な女性であって、大部分のヒロインは、母性的というよりむしろ父性的といってよいほど、能動的で強い性格を示している。「安井夫人」の佐代や「澀江抽斎」の五百はあまりにも典型的であるが、「舞姫」とともに初期三部作と呼ぶべき「文づかひ」や、「うたかたの記」のヒロインたちも同じだといえる。「文づかひ」のイヽダも「うたかたの記」のマリイも、ともにきわめて鴎外的な日本の青年と触れあうのであるが、その愛のかたちはどちらもエリスの場合とは正反対の主体的な強さを見せるのである。  イヽダは生まれつき、愛されることよりも愛することを求める女であり、愛するに値いする男が見つからないとわかると、生涯にわたって愛の生活そのものを拒絶しようとする女である。彼女の身辺には平凡だが実直な貴族のメエルハイムがあり、さらに遠くには欠脣《けつしん》の忠実な羊飼の少年がいて、いわば彼女はかしずかれ、愛されるための相手にはこと欠いていない。にもかかわらず、もっぱら「恋ふるゆゑに恋ふる」という内発的な情熱が感じられないために、彼女は愛されることそれ自体を拒んで身を隠そうとするのである。  また、「うたかたの記」のマリイはそれ以上に強烈な性格を持っていて、エリスと同様の境涯にありながらいささかも男の庇護の手を待ちうけていない。一介のモデル女という身分にもかかわらず、近づいて来る軽佻《けいちよう》な画学生たちにあたかも「女神ミネルワ」のように君臨している。そして、主人公である日本の画学生・巨勢《こせ》にたいしても、終始、主導権をとってふたりのあいだに愛を育《はぐく》んで行くのは、この少女の側であった。かつて菫《すみれ》売りの娘であったマリイに庇護の手をさしのべたのは巨勢であったが、六年ののちに再会して見ると精神的な立場はすっかり転倒していた。鴎外の象徴的な表現によれば、巨勢は「唯母に引かるる穉子《をさなご》の如く」にマリイの誘いに従うことになる。まもなくスタルンベルヒの湖に少女が不慮の最後をとげるまで、ふたりの関係はあたかも「舞姫」の場合と対蹠《たいせき》的なかたちで進行して行くのである。  やがて、イヽダやマリイの系譜はのちの鴎外文学の主流を占め、むしろますますその庇護者的な性格を強めて行くことになる。五百や佐代を始めとして、「山椒大夫」の安寿も「最後の一句」の桂屋いちも、さらに「椙原品」のヒロインも「百物語」の看護婦のような女も、いいあわせたように身辺の人間に庇護の手をさしのべる女である。また「魚玄機」の女主人公も「即興詩人」のアヌンチヤタも、明らかに愛されることよりは愛することを望む女だといえる。戯曲「生田川」のあの不幸な少女にいたっては、ふたりの男に愛されながら、愛すべきひとりの男が選べない自分の心を悲しんで、ついに身を投げて死ぬのである。  明らかに、鴎外の心の底にはひとつの深刻な欲求の分裂があった。すなわち、一方で自分自身に徹底した庇護者の姿勢を命じながら、同時に他方では、自分をうわまわるほどの庇護者的な女性に憧《あこが》れていたということである。自分にたいして愛されることを強く禁じながら、しかも無意識のうちに、彼は自分を潜在的に愛し得る女を探し求めていた。愛することと愛されることとが、彼においては愛の本来的な葛藤に高まらず、それぞればらばらのままに彼の欲求を引き裂いていたといってもよい。愛の二面性が同時に体験されることがなく、現実の体験はその一面だけにとどまって、他の一面はもっぱら空想のなかの強迫観念となって彼を苦しめていた。この分裂はのちに鴎外の生涯を貫く宿業となるのであるが、そう考えて見ると、「舞姫」はその苦しみのいわば最初の表現であったと見ることができるだろう。豊太郎は鴎外の心の分裂を仮托《かたく》されて、愛されることを自分に禁じながらも、そのことにひそかに疲れはてていた。ついに一瞬、彼は自分の愛に酬い得る相手を受け入れてしまうのであるが、それがたまたまもうひとりの女ではなく、相沢謙吉の顔をした「国家」というものであったことが、豊太郎の不幸であった。 「嗚呼《ああ》、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡《のうり》に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。」  という彼の結びの言葉が、あたかもひとりの女にたいするくり言のような響きを帯びているのは、けだし当然なのである。  また、このように考えて見ると、鴎外の初期三部作が思いがけずたがいに有機的な関連にあることがはっきりとわかる。  分裂する鴎外の欲求を平和のうちに両立させようとすれば、その結果は、「文づかひ」に見るように男女の関係をただ傍観者の関係にとどめるほかはない。イヽダにたいする小林大尉の憧憬《どうけい》は明白だが、彼が豊太郎と同質の人物であるかぎり、その感情が恋愛に高まった場合の状況は想像しにくい。たがいに愛されることよりは愛することを望み、相手をより多く庇護しようとする男女が会えば、長い時間のなかでは逆に微妙なかたちで傷つけあうことが予想されるからである。ふたりのあいだにはおそらく自己犠牲の競争が起り、それを裏返した自尊心の争いが芽生えるにちがいない。そして、その過程でイヽダも小林も、けっしてあの役割の転倒をみずからに許すとは想像し難いのである。したがって、もしこのふたりが恋愛の情熱に身を投ずるとすれば、行きつくところは「うたかたの記」の悲劇のほかにないことは、これまた明らかであろう。巨勢が豊太郎の分身であることは小林の場合より明白であり、彼がマリイとともに、いつまでも「母に引かるる穉子の如く」生きられないことは疑いの余地がない。にもかかわらず、彼の願望が「女神ミネルワ」のような女に激しく愛されることだとすれば、その不幸な相手はつかのまの燃焼ののちに、ただちに彼の視界から消え去るほかはないからである。  ちなみに、このふたりを「舞姫」のエリスにつきあわせると、 「太田生は真の愛を知らず、然れども猶《なほ》真に愛すべき人に逢はむ日には真に之を愛すべき人物なり。」  という謎《なぞ》めいた言葉がにわかに実感を帯びて迫って来る。このとき鴎外の脳裏に浮かんでいた理想の女性像が、具体的にイヽダやマリイのような女であったことはほぼまちがいないのである。  だが、それがはかない願望にすぎないことをも、鴎外はただちにこの二作のなかで証明してしまった。処女作というべき三部作を書くことによって、彼は早くも自分の人生に決定的な答を出してしまったというほかはない。三部作の共通テーマは「愛の不可能性」ということであったが、事実、彼の人生はそれを身をもって実演して見せる舞台となった。生涯、イヽダやマリイのような女に遠く憧れながら、現実の鴎外は逆にエリスに似た家人と生活をともにすることになった。というより、彼の内部の宿命的な「父親」が、妻であれ子供であれ、身辺の人間をすべて第二の「エリス」に変えないではおかなかったというのが真相であろう。たとえそのことがどれほど辛かろうとも、それ以外に人生の道がないことを、彼は青春の半ばにして見届けてしまっていたのである。   ㈼ 罰せられた人  生まれながらの「父」として生きた鴎外であったが、その「父権」は、生涯のあいだにいくたびかの重大な挑戦を受けなかったわけではない。  第一回目の挑戦は、先にも述べたように、彼がようやく青春のとば口にたどりついたとたんに襲って来た。弟の篤次郎に養子縁組の話が起り、やがてそれがこじれたことがいちじるしく若い鴎外の自尊心を傷つけたのであった。  想像をめぐらせば、縁談の具体的なこじれ方とは無関係に、弟を聟《むこ》養子に出すということそれ自体が、すでに彼には心穏かならぬものを感じさせていたのかもしれない。相手は元老院議官の川田佐久馬であり、社会的にも経済的にも森家を圧倒するようなこの家にはいれば、篤次郎にとって永久に「父権」の確立は困難になることが予想されたからである。養子なるがゆえにつねにひかえめに振舞う自分の父親を見ていた鴎外が、少なくともその恐れを余人よりも深刻に感じていたことは疑いない。さらにこの縁談は同じ元老院議官の西周の斡旋《あつせん》を受けており、悪いことには西は森家にとってきわめて有力な親族であった。なまじ親族であるだけに彼の容喙《ようかい》には世間に通る一種の正当性が認められ、そのことがまた鴎外をひときわ敏感に反応させたと考えられる。看過していればこの一族の成功者はきりもなく森家の中枢にはいりこみ、ひかえめな父親から実質的に家長の地位を奪うかもしれなかった。そうなれば森家には人工的な力と繁栄がもたらされるのは確実であったが、その反面、「家」というあの自然な黙契の統一が毀《こわ》されることもまたまちがいなく予想された。  鴎外にとって、「家」とはあくまでも自然な生命の秩序の現われであり、力ではなくて、趣味や風習や耳慣れた言葉遣いによって結ばれるべきつながりであった。それが危機に瀕《ひん》したと感じたとき、彼は異様なまでに強い反撥を示し、川田家の違約を口実に縁談そのものを自分の手で打ち毀してしまった。「今後一生、篤の事は引き受けますから」と、十八歳の鴎外は気負った言葉を口にしたが、事実これが、彼にとって森家の家長の座を決定的に引き受けるきっかけとなった。  だが、この事件はその後微妙なかたちであとを引いて、鴎外に家長であることの辛さを身に沁《し》みて思い知らせたと考えられる形跡がある。当人である篤次郎がこの破談に思いがけない衝撃を受け、持ちまえの快活さと人生にたいする積極性を目に見えて失って行ったらしいのである。  其後のお兄いさん(篤次郎)は前とはすつかり様子が違つて、何やら陰気になつて一緒に遊びなどはなさいません。あまり静かなので勉強部屋になつて居る四畳をそつと覗《のぞ》くと、机に向かつて何か考へて覗かれたのも知らぬらしく、空を見詰めて居られる事がよくありました。  お兄い様(鴎外)も日曜には一緒に散歩したり、気に入りさうな本など買つて来たりなさいます。皆が優しくいたはつておあげになつても、そんなに喜びもなさいません。小さい頭に種種書いて居られた事を一度に打ち摧《くだ》かれたのですものを、無理もないと思ひます。今考へてもお気の毒でなりません。(小金井喜美子「次ぎの兄」)  結局、思いあまった親たちが気晴らしに奨めたのが猿若町の芝居見物で、これが病みつきになって篤次郎はのちに劇評家として身を立てるようになるのである。しかし、このときを境い目に、篤次郎はついに一生、現実を生きるための腕力のようなものを失ってしまったように見える。大学にはいってからも本業の医学の習得には熱を入れず、芝居見物も値段の高い桟敷席に通いつめて、そのことがひとの注目を惹《ひ》くような趣味人風の生活を送ることになる。これにたいして、自分にはあれほどの質素と勤勉を課していた鴎外が、そういう弟に一言の批判も叱責《しつせき》もあたえたふしがないのは興味深い。むしろ、篤次郎が趣味を生かして身を立てることができるように、ともに芝居に通い同人雑誌の仲間に加え、先に立ってあらゆる努力を惜しんでいないのである。  おそらく鴎外は、このとき「父」であることの宿命的な「罪」を犯したのであり、そのために罰せられているという思いをひそかに噛《か》みしめていたことが考えられる。  際限なく自分を割いてあたえながら、「父」はそのことによって「子」の人生を方向づけ、その結果生じる思いがけない不幸の責任を負うことになる。それは本質的に、「生む」ことそれ自体のなかに含まれる罪であって、ひとの人生にたとえ僅かでも神の役割を演じたことの罪だともいえる。実際には、そういう責任は神ならぬ身では負いきれない負担なのであるが、それをあえて負ったと自覚したときに、人間は動物と違って初めてもうひとりの人間の親になることができるのかもしれない。親であることがもともと完全な善意のうえに立っているだけに、百の内にひとつの過ちがあってもこの責任はずっしりと胸の底に響くことになる。常識的な意味では満足に成長したわが子のまなざしのなかにすら、或る日、かすかな怨みを読みとって愕然《がくぜん》としなかった親は稀《ま》れなのではないだろうか。  それにしても、鴎外の場合はあまりにも早く、すでに青春の出発点においてこの罪の自覚を経験してしまった。そして、たんなる思いやりや青春の気負いではなく、むしろこの罪の意識こそ、ますます決定的に彼の人生を父性的にしてしまったと見ることができるのである。「父」であることによって犯してしまった罪を、さらに「父」として償おうとするのは苦い皮肉だというほかはない。しかし、現実に庇護《ひご》を必要とする人間を自分の手で産み出してしまった以上、それに庇護の手をさしのべつづけるほかにどんな責任のとり方があり得るだろう。鴎外を「父」の座につかせたものはたしかに若い気負いであったが、逆にその座を降りられなくさせたものは彼の罪の意識であったといってもよい。そういえば、「舞姫」の豊太郎のあの執拗《しつよう》な自己叱責も、どこかで作者のこの苦い思いと隠れた繋《つなが》りを持っていたかもしれないのである。  そういう鴎外にたいして、やがて第二の事件は彼の青春がようやく終ろうとするころに襲って来た。すなわち明治二十二年二月、赤松登志子を迎えた彼の最初の結婚が、翌年秋には長男・於菟《おと》を儲《もう》けながら早くも離婚に終るという事件であった。  この離婚についてはこれまでさまざまな臆説が伝えられているが、信頼するに足る直接的な証言というものは残されていない。登志子の容貌があまり優れなかったことは確かであり、そのために嫉妬《しつと》が激しかったというような理由も、求めれば間接的な資料のなかからうかがうことができる。また、登志子が結核を患っていてそれが鴎外に感染する恐れがあったという疑いも伝えられており、のちに彼女が早逝《そうせい》したことからもその可能性を推察することはできる。しかし、それらがいずれも決定的な理由でなかったこともほぼ確実であって、そのことは小金井喜美子の伝える母・峰子の証言からも十分裏づけることができる。大切な長男についてはつねに露骨な偏愛を隠そうとしなかった峰子が、この一件に関してはむしろ嫁の登志子に同情的な口吻《こうふん》を洩らしているのである。  やつと落付いてからお母あ様の仰《おつ》しやるには。 「今度の事は、お父う様も私も決してこちらばかり尤《もつとも》と思つたのではなく、誰にも済まぬ事はよく知つてゐるが、家の為に大切な長男が、近頃ひどく血色も悪し、気も鬱《ふさ》ぐらしく、あのまま置けば煩《わづら》ふに極まつてゐる。さうなると取返しがつかないから、涙を飲んで云ふままにしたので、其《その》かはり孫は私の命にかけて育て上げるから、不甲斐《ふがひ》ない親とお思ひになるのでせうが、どうぞ許して下さい。皆さんのお笑ひにまかせますといつたのだよ。」(「次ぎの兄」)  結局、主たる原因は鴎外の心理問題にあったらしいのだが、その内容は家族にもはっきりとは告げられていなかったことがうかがわれるのである。  この心理問題を説明しようとするとき、従来しばしば話題にのぼって来たのがいわゆる現実の「エリス事件」である。留学中に鴎外と知りあい、ついに東京まであとを追って来たドイツ女性の一件であるが、詳しい事情についてはこれもまた直接的な資料を残していない。「舞姫」の女主人公とこの女性は同じ名を持っているところから、常識的には両者のあいだになんらかのモデルの関係を考えたいところである。しかし乏しい資料が示すかぎりでは、鴎外がこの件について豊太郎のような劇的な煩悶《はんもん》を経験したという徴候はない。むしろ、現実のエリスにたいする彼の態度は一種の自己傍観に似たものを感じさせ、煩悶というよりは、もっと索漠たる風が胸中を吹きぬけていたという印象をあたえるのである。間接的な証言からまず明白なことは、彼がエリスの来日を歓迎もせず、しかし積極的にそれをとめようともしなかったという事実であろう。エリスの決心はエリス自身にくださせ、やがて東京で何が起るかはなりゆきにまかせようという態度がうかがわれる。そして、いよいよエリスが現実に日本に到着すると、彼はその後の事態を完全に彼女と自分の家族の直接折衝にゆだねてしまうのである。  あわただしく日を送る中《うち》、九月二十四日の早朝に千住からお母あ様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすつた女が追つて来て、築地の精養軒に居るといふのです。私は目を見張つて驚きました。(中略)  八日お帰りの晩に、お兄い様はすぐ其話をお父う様になすつたさうです。ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱ふ事は極不得手なのに、留学生の多い中では、面白づくに家の生活が豊かな様に噂《うはさ》して唆《そその》かす者があるので、根が正直の婦人だから真に受けて、「日本に往《い》く」といつたさうです。踊もするけれど手藝が上手なので、日本で自活して見る気で、「お世話にならなければ好いでせう」といふから、「手先が器用な位でどうしてやれるものか」といふと、「まあ考へて見ませう」といつて別れたのださうです。(「次ぎの兄」)  もっともこの間の事情について、もう少し劇的ないきさつがあったと推察する証言もないわけではない。長男・森於菟の「父の映像」がその例であって、幼時に祖母・峰子から聞いた話として、家族が総がかりで鴎外を説得して女と別れさせたという説を伝えている。しかし、この説は取材の時点が事件から離れすぎていることもあり、また森家の家族関係を考えあわせても、いささか信憑《しんぴよう》性に欠ける点があるように思われる。たしかに、一家の望みを托《たく》した息子の立身ばかりを願う老人たちにとって、この事件にたいする上司の意向が最大の関心事であったというのは、おそらくまちがいではあるまい。したがって、静男や峰子が主観的に気をもんだということは十分に想像されるが、それにしても於菟が伝えるように、「親孝行な父を総がかりで説き伏せる」というような場面があったかどうかは、いささか疑わしい。なぜなら、篤次郎の養子問題を見ても、喜美子の結婚問題を見ても、森家における鴎外の主導権はすでに七、八年もまえから確立しているからである。森家の安危にとっては、さきの篤次郎事件はエリス問題に劣らぬ大事であり、さらにのちに起る登志子との離婚事件は、考えようによってはこれよりもはるかに重大な事件であった。外国人との婚姻は当時の官界においても皆無のことではなかったし、少なくともそれは離婚事件のように、有力な関係者を直接傷つける結果にはならないはずである。にもかかわらず、それらの事件に際して鴎外の一方的な意志に従った両親が、エリス問題に関してのみ本人の明確な希望をねじまげたとは信じがたい。のちに峰子は於菟に向かって、 「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶《めと》らせたが父に気に入らず離縁になつた。お前を母のない子にした責任は私達にある」と語ったそうであるが、この言葉もむしろ、於菟にたいする祖母の思いやりが語らせた誇張と受けとった方がよいように思われるのである。したがって、言葉遣いに多少の潤色はあるとしても、「次ぎの兄」に記録された鴎外はおおむね正直に実情を語っていたと考えられる。これに加えて来日したエリスの側の反応を見ると、こちらにも思いつめた煩悶というべきものが意外に少ないように見受けられるからである。森家を代表した篤次郎と喜美子の夫・小金井良精のとりなしを受けて、彼女はまもなく築地の精養軒からおとなしく帰国して行った。その態度には男の違約を責めるといった激しいものはみじんもなく、むしろ関係者が不思議とするほどこだわりのない様子であったという。証言が家族のものに限られているとはいえ、エリスが東京の町で手藝品の買物に打ち興じ、喜々として帰国の土産品をそろえて見せたというような逸話は、創作できるものではない。公平に見てどうやらエリス自身の心のなかに、始めから、鴎外との関係はいささか真の恋愛とは違うという諦《あきら》めがあったように見えるのである。  はるばる六十日の舟旅をして男のあとを追う女心と、この異様に淡泊な諦め方のあいだにはたしかに奇妙な分裂が感じられる。しかし、この分裂こそじつは彼らの関係の正確な反映なのであり、鴎外が誰にたいしてもあたえる、あの畸形《きけい》な愛情の照り返しだったにちがいないのである。  おそらく鴎外の腕に抱かれているとき、エリスはどこまでものめりこむように甘えることができ、かえってそのことのゆえに不安を感じるのが常であったにちがいない。男の悩みも当惑も女には手の届かぬところにあり、その反面ふとわれに返ると、彼女は自分が本当に相手によって必要とはされていないという、氷のような実感に驚いたことであろう。甘えと不安の両極のあいだを往復しているうちに、しだいに女の感情がいらだって行ったことは容易に想像できる。いったいどこまで甘えれば男の寛容に限界が見えて、彼女は恋愛というもののリアリティーにぶつかることができるだろう。たとえそれに頭をぶつけて血が流れるとしても、女の気持として、自分が相手にとってどれだけの存在であるかを試して見たくなるのは当然であろう。この焦燥がついに極点まで高まったときに、エリスはあたかも男に挑戦するような気持で、はるかな極東への旅を決意したことが想像されるのである。  むしろ、エリスにとってはそれを聞いた鴎外が狼狽《ろうばい》し、保身欲を剥《む》き出しにして彼女の決意を飜《ひるが》えそうとした方が救いになったかもしれない。彼女には自分の置かれた人間関係の意味がはっきりとしたであろうし、怒りにせよ悲しみにせよ自分の感情を明確に整理して落ちつくことができたであろう。じっさい、このときの鴎外がもし世俗的な保身欲にしっかりと貫かれていれば、僅かの可能性でも彼はエリスの来日をもっと真剣に恐れたにちがいない。萌芽《ほうが》のうちに阻止しようとすれば世間の常識はそれを許す時代でもあったし、友人関係や金銭的な面からいっても彼にはそれができる十分な才覚があった。ふたりにとって不幸だったのは、逆に鴎外にそれだけの確固たる保身本能が働かず、ぎりぎりのところで事態を外側から眺めてしまう気持が揺れ動いたことであろう。そしてまた、この気持はおそらく裏返せばエリスにたいする愛着の薄さに結びついており、家族の反対を押して彼女とともに暮らそうという欲望の弱さにつながっていたものと思われる。  生涯にわたってそうであったように、事態が自分の一身の問題にかかわって来ると、彼はにわかに無器用になり、決断を導く確固たる原理を見失ってしまう。いいかえれば、若すぎる父親は「父」としての行動原理が働かなくなると、踏みとどまる足場を失って、いきなり幼児的な無力にまで転落するほかはないのである。  耻《はづ》かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係《かかは》らぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此《この》決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。  そして、こういう途方に暮れた恋人が、かえって冷酷な蕩児《とうじ》よりもひとりの女性を不幸にすることは少なくない。帰国するエリスにして見ればただ幻のようなものを追って、数千浬《カイリ》の海路を自分が求められていないことを知るために旅をする結果になった。鴎外にもそのことの残酷さは身に沁みて感じられたはずで、右に引いた「舞姫」の一節などはその痛ましい自責の念の反映のようにも見える。少なくとも保身欲でもなく不誠実でもなく、自分の内奥のどうしようもないものが、意図せずしてひとを傷つけ得ることを彼はこのときあらためて思い知ったにちがいない。その意味で赤松登志子との結婚にあたって、彼の心に一抹《まつ》の黒い翳《かげ》のようなものがわだかまっていたことは想像に難くないのである。  だが、事態の真相がこのようなものであったと考えると、この「エリス事件」が彼らの離婚の直接の原因であったと見るのは難かしくなる。この家庭にエリスの記憶が隠微な影を落していたことは事実だとしても、そこにはもうひとつ、この影をことさらどす黒くする別の心理問題がひそんでいたと考えなければならない。そしてそういう目で見なおして見ると、にわかに浮かびあがって来るのは、この結婚と、先に述べた篤次郎の縁談との驚くべき条件の類似性なのである。  すなわち、その第一は森家と登志子の実家・赤松家との格差であり、もうひとつは、この結婚がまたしても西周の強い周旋によって実現したという事情である。  登志子は海軍中将・男爵・赤松則良の長女であり、子爵・榎本《えのもと》武揚が母方の叔父にあたるという家の生まれであった。また西周にとっても遠縁にあたる旧知のあいだ柄で、西はかねがね「林の嫁はあれに限る」といいつづけていたという。家格の差からいえばこれは川田家との格差よりもさらに大きく、西との関係からいっても、森家がより強く彼の影響下に引き入れられるような縁談であった。両親も鴎外自身も必ずしもこの話に乗り気ではなく、互いに親が喜ぶなら、本人が承知すれば、というかたちで決断を譲りあっていたらしい。両親にして見れば家長権はすでに長男に譲ったつもりであったところへ、鴎外自身はことが自分の問題であるだけに明確な判断がくだせなかった。結局、西の強引な奨めによって結婚は実現したのだが、このときの森家はいわば中枢を欠いた状態で家の意志を決定してしまったといえる。新家庭はいったん篤次郎の肝いりで下谷根岸の鉄道わきの家にはいったが、汽車の音がやかましいというのでまもなく上野花園町にあった赤松家の持ち家に移り住んだ。赤松家から老女と女中が新婦について来て、おのずから家政の采配《さいはい》はこの老女の手に渡ることになった。森家からは篤次郎と三男の潤三郎が同居し、さらに赤松家からは登志子の妹の勝子と曾代子も同居して、この新家庭はいささか奇妙な雰囲気《ふんいき》のなかで出発することになったのである。  居宅の選定といい家族の構成といい、この結婚が赤松家の圧倒的な主導権のもとにあったことは一目瞭然であろう。登志子の妹たちが同居したばかりでなく、この家には赤松家の親族がほとんど自宅同様の気安さで出はいりしていたらしい。  私が一人で根岸を尋ねた時でした。恰幅《かつぷく》のいい立派な方がお姉え様の連れて来られた老女に髪を結はせて居られました。それは榎本子爵夫人でお姉え様の叔母様でした。結婚の席に出なかつた私は初めてお逢ひしたのです。「一寸《ちよつと》旅行をするから持髪《もちがみ》にするので結つて貰ひに来ました」と仰つしやいました。老女は赤松家に長年勤めてゐて、日本髪も洋髪も上手に結ふ人でした。行届かぬからと、老女と下働きの女と二人つけてよこされたのです。其老女が今迄《いままで》の習慣で、お兄い様を殿様、お父う様を大殿様といふ、お兄いさんをも若殿様と呼びました。ある時「篤は若殿様といはれて得意らしい顔をしたよ」と笑はれましたが、私はふと前年の養子の事が胸に浮んで、何だか一緒に笑ふ気持にはなれませんかつた。(「次ぎの兄」)  この喜美子の言葉にはいささかのひがみも混っているとしても、少なくとも赤松家の優位ということが双方の家族に強く意識されていたことは疑いない。とくに新家庭に同居した篤次郎や潤三郎には、そのことが日々の生活の現実問題として迫って来た。  赤松家からは老女と女中が附いて来て、その老女が指揮するから次兄とわたくしとは自然差別待遇を受ける形であつた。或時夕方兄が帰宅して、わたくしの膳に貧弱な菜のあるのを見て、自分の膳から鯛《たひ》の焼物を取つてくれ、女中に聞けば御奥からの御差図ですといふたから、兄は「潤はおれの弟だ、これからおれと同じにしなければいかん」と叱り付け、それから待遇が改まつたのを覚えてゐる。(森潤三郎「鴎外森林太郎」)  話題ははなはだじじむさいが、それだけにここには赤松家の家風と鴎外の家庭観があざやかに対立していて面白い。ひとり「鯛の焼物」をあてがわれる家長のイメージと、逆にそれを家族にわけあたえるひととしてのイメージと、ふたつの家の相違はそれが感覚的な次元にまで及んでいるだけに深刻であった。いずれにせよ、このとき森家の秩序のなかに明白な異質の秩序が侵入しつつあったわけで、それをいらだたしげに見守っている鴎外のけわしい表情が目に浮かぶようである。  あたかもこの空気に反撥するかのように、彼は花園町の家の二階に落合直文や幸田露伴といった友人を集め、篤次郎や喜美子も仲間に加えて、活溌な文学運動を起すことになった。詩集「於母影」や雑誌「しがらみ草紙」が刊行されて、にぎやかな談笑が朝の二時、三時に及ぶという生活が始まった。新家庭はさながら「文士の梁山泊《りようざんぱく》」の観を呈するようになったのだが、これが赤松家の習慣と正面からあい容《い》れないのは当然であった。じつは登志子自身は文学的な教養も豊かな女性で、漢文の力など夫を驚かせるほどのものがあったにもかかわらず、彼女がこの文学仲間に一度も加わった形跡がないのは注目に値いする。のみならずときには客をもてなす茶菓や什器《じゆうき》の問題をめぐって、登志子と姑《しゆうとめ》の峰子が家風の違いを隠微にほのめかすような対話をかわすこともあった。いわんや、赤松家の女中たちのあいだには不快を露骨に顔に出す空気があったらしく、森潤三郎によれば、 『客が女中に何時だと聞いて、女中が眠むさうにモウ十二時過ぎですといふと、兄は「なぜまだ十二時を過ぎたばかりです」といはぬと叱つた。』  というような挿話《そうわ》も伝えられている。  明らかにこのころの鴎外は、何ものかに縛られつつある自分を過度に意識しており、それをふりほどこうとする身ぶりもことさらに大きくなっている。直接感じられていたのは、森家の家長がいつしか赤松家の養子にとりこまれつつあるという焦燥だが、それを背後から刺戟《しげき》していたのは、おそらく篤次郎にたいする彼の根深い罪の意識であったと思われる。赤松家の力にたいする反撥と同時に、彼にはその庇護のもとで、自分がひとり幸福になることをみずから禁ずるような気持が働いていたにちがいない。なぜなら、それはかつて篤次郎が川田家で得られたかもしれない幸福であり、結果的に鴎外が弟からとりあげてしまった幸福にほかならないからである。赤松家の家風や習慣が話題になるたびに、森家の家族が自然に川田家のことを思い出したのは、先に引いた喜美子の言葉からも明らかである。そういう気分のなかで、赤松家にたいする鴎外の心理的な要求がことさら強くなり、登志子や女中に向ける猜疑《さいぎ》の目も過剰に鋭くなったことは容易に想像できる。だが、なにより悲惨なことは、この猜疑の目が結果的に、彼と登志子のあいだに生まれる幸福感そのものに向けられたと考えられることである。妻とのあいだに日常の小さな幸福を感じるたびに、それを誰かから盗んでいると感じざるを得ない人間ほど悲惨なものはない。しかし鴎外は、新婚生活のひと駒について軽い冗談を口にするにつけても、篤次郎の不遇を思い出して顔をこわばらせる妹の表情を見なければならなかったのである。  もちろん、最終的な離婚ということに立ちいたるためには、さらに具体的で決定的な事件が起ることが必要であろう。けれども、逆にこれだけの心理的な条件が整っていれば、どんなにささやかな事件もただちに決定的な破局につながり得ることは疑いの余地がない。あたかも問題のありかを暗示するかのように、鴎外はふたりの弟を伴って花園町の家をみずから出た。またしても彼は森家の「父」としての立場を貫いたのであるが、しかし同時に、「父」としての新しい罪をも重ねることになった。彼には於菟という文字通りの息子が生まれており、この離婚によって彼は母のない子と、それを抱いて手負い猪《じし》のように気負っている不幸な老母をつくり出してしまったからである。  於菟と峰子というこのふたりの存在は、当然のことながら、のちに彼と荒木しげ子との第二の結婚生活に複雑な影を投げることになる。峰子としげ子の関係は、於菟の存在によってたんなる嫁・姑の対立にとどまらず、しげ子と於菟の関係も、峰子の存在によってたんなる継母子の関係以上に複雑なものになった。不幸な孫と祖母とはひとつの完全な家庭の雛型《ひながた》をつくっており、その結合は鴎外にはいつまでも微《かす》かな罪の疼《うず》きを思い出させるものであった。新しい家庭が明るい幸福の色を帯びれば帯びるほど、彼の内奥にひそかにその幸福をうしろめたく思う気持が働いたとしても不思議ではない。その分だけ彼は家庭における峰子の立場を守らなければならず、しげ子に完全な主婦権を渡すことがためらわれたとも考えられる。しげ子と峰子の対立は小説「半日」の材料ともなってあまりにも有名だが、ひょっとするとあの対立は、半ば以上、鴎外自身の内面の分裂の反映だったかもしれないのである。  しげ子との結婚は明治三十五年のことであり、鴎外はすでに四十一歳になっていた。その歳で二十三歳の美貌の妻を迎えた心境には、あるいはふたりの関係を普通の「家庭」にはしたくないという願望がひそんでいたかもしれない。「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と友人に書き送った彼は、その言葉通り、彼女を始めから一家の主婦とは違う立場で慈しむつもりがあったと推察できる。しげ子の書いた小説「波瀾《はらん》」によると、新婚当初の彼はひそかに避妊の処置すら講じていた可能性がうかがわれるのである。しかし、現実はもちろんそのような逃げ道を許すはずはなく、翌年には長女の茉莉も生まれて、第二の結婚生活はいやおうなく「家庭」としてのリアリティーを持つことになった。家庭をひとつの統一ある生きものとして守ろうとしつづけて来た鴎外は、皮肉にもその意図によって、逆にふたつの分裂した家庭の父として生きることになったといえる。  彼はあらためてこの家庭の理想的な父になろうと努めるのであるが、その努力は奇妙に彼の表情を一種人工的なものに変えたようである。「半日」を読み、あるいは小堀杏奴氏の描く晩年の父親像を見ていると、彼の妻子にたいする献身ぶりにはなにやら痛ましいものすら感じられる。子供たちに「パッパ」と呼ばれ、その子供たちに「アンヌコや、ボンチコや」と呼びかけ、勉強の相手をしてやるのはもちろん、娘が毛糸をもつらせて癇癪《かんしやく》を立てていると、黙って書斎へ持って行って三十分もかけてほぐしてやったりする。なりふりかまわぬ溺愛《できあい》の模様が随所に記録されているが、こういう感情は鴎外自身の育ったかつての森家にはけっして見られないものであった。そういえば、戦場から妻にあてて「遠妻殿へ、でれ助より」と書き送る手紙の文体にも、自然のユーモアというにはいささか誇張された庇護の感情がめだっていた。喜美子にも篤次郎にも、あるいは親友の賀古鶴所にも、彼はかつてそういう人工的な文体で手紙を書く必要はなかったのである。  おそらくこの過剰な優しさのなかには、いわば二重に屈折した複雑なうしろめたさが隠れていたように思われる。一方に、新家庭の幸福を於菟と峰子にたいしてうしろめたく思う感情があり、他方には、そういう動き方をする自分の心をしげ子にたいしてうしろめたく思う感情が働いた。このふたつの感情のあいだを揺れ動いているうちに、彼はますます強く自分を鞭打《むちう》つようになり、あげく、その自責の念を家族にたいする自虐的な献身として表現して行ったと考えられるのである。  明治三十九年の一月、日本軍が日露戦争の戦場から凱旋《がいせん》したとき、しげ子は一種の別居状態で芝明舟町の実家の家へ帰っていた。東京駅に着いた鴎外は妻と言葉をかわす暇もなく、宮中へ参内し、そのまま多くの客の待つ千駄木町の自宅へ向かわねばならなかった。来客がすべて帰るとすでに夜半の十二時を過ぎていたが、彼は「林やもうお休み」という母親の言葉を聞くと、やおら靴をはいて厳冬の戸外へ出た。「行くのなら俥《くるま》をさういふから」という峰子の声をよそに、彼は本郷から明舟町まで、二時間の道のりを歩き通して妻と小さな娘に会いに行った。小堀氏はこの話を母・しげ子からの聞き書として伝えていて、凍《い》てついた夜道を黙々と歩く父の姿を思うと、気の毒でたまらない気持がすると書いている。おそらくこのときの鴎外はたんに妻子を喜ばすためにではなく、こういうしぐさによってしか癒《いや》すことのできない自分の感情のために歩いていたのである。  だが、こういう奇怪な愛情が、子供はともかく、ひとりの女としての妻を幸福にし得ないことはいうまでもない。公平な観察者である小堀氏の目には、事実、しげ子の生涯が根本的に不幸なものとして映っていた。  併し母は普通の人間、普通の女であった。くだらない事ではあるが人間には誰にも所有慾がある。愛すれば愛する程其《そ》の所有慾が強くなるのも亦《また》当然であろう。しかも母は激しく父を愛した。そして自分が父を所有していると云う一つの喜びも与えられないではないか。(中略)あらゆる人は父を愛し、そして敬する。子供迄が父一人のものになる。父の偉大さは仕事ばかりにとどまらず、其の精力のある優しさであらゆるものを自分のものにする。母は何もかも父から奪われてしまった。(小堀杏奴「鴎外の妻」)  いうまでもなく、「愛」という言葉ほどパラドクシカルな言葉はない。愛によって相手を所有するとは、相手に自分を必要と感じさせることであり、いいかえれば少しでも多く相手にあたえることを意味している。だが、みずからを深く罰して、一生そのために一方的にあたえつづけようとしている男にたいして、どんな心の豊かな女も自分の方から何をあたえることができるだろう。しかも、その贖罪《しよくざい》の原因となった「罪」については、もともとしげ子の側には許す権利も慰める資格も存在してはいないのである。  それにしても、こうして振り返って見ると、今さらのように驚かされるのは、鴎外の生涯があまりにも一方向的な、ひと筋の直線のうえを進行していることであろう。あたかも坂道を転げ落ちる雪だるまのように、彼は自分の内部の「父親」がうむをいわさずふくれあがって行くのを呆然と見つめている。最初はありあまる自信から篤次郎を庇護し、最後は逆に贖罪の思いから妻子を庇護することになったとしても、結局、彼の人間関係は一度も逆転するということがなかったといえる。あまりにも早く生涯の姿勢が決められていたがゆえに、ひと言でいえば、鴎外の人生には厳密な意味での「成熟」のドラマというものがあり得なかったのである。  とくに彼の青春時代を仔細《しさい》に観察すると、先のふたつの事件が「成熟」の機会を完全に奪うように働いたことがわかる。通常、青春はひとりの人間を過去から切り離すように働くものであるが、「篤次郎問題」も「登志子問題」も、逆に鴎外を過去へ縛りつけるものとして作用している。彼は新しい人生に身軽なからだで跳びこむことができず、どの跳躍点でもそれまでの帰属関係を背負ったままで進むことになった。というよりむしろ新しい人生への跳躍が、そのたびに、かえってのっぴきならないかたちで彼を過去の人間関係に帰属させたといえる。事実、「篤次郎問題」は登志子との結婚によって深刻さを増したのであり、次にはその破局の結果として、母・峰子の存在が新しい重みをおびて浮かびあがることになった。人生を進めば進むほど彼の帰属関係は数を増すばかりであり、そのあげく晩年の鴎外は、いっさいの現実にたいして逆に帰属意識が薄らいで行くのを感じることにすらなるのである。  さらにまた、十八歳の鴎外が篤次郎問題に「父」として対処したとき、明らかにその「父」は彼が仮面として身につけた虚構であった。現実の父親がなみの成人として持つ利己心もなく、その利己心のゆえに知る能力の限界も知らなかった。無垢《むく》の少年は現実の父親よりはるかに純粋な「父」であり、ほとんど抽象的なまでに完璧《かんぺき》な庇護者の役割を演じることができた。  だが、通常の人間が父親になる場合、むしろ前提になるのは「子」としての利己心なのであり、成長しようとする人間の自己拡張の欲望なのである。「父」というものは「子」にとってまずは羨望《せんぼう》と嫉妬の対象であり、より多くの自由と権利の独占者として目に映るものである。「父」の本質が酬われない庇護者であり、無限の自己を割きあたえる存在だということを、たいていの子供は考えようともしない。彼らにとって「父」はとにかく自分の頭上にあるものであり、したがってそれと闘うことが自己の成長のものさしとなる。目標を達したとたんにじつは皮肉な逆転が起るのだが、さしあたり少年にとって「父権」は自己の拡張のために闘いとるべき目標なのである。当然の結果として、現実の父親になったとき、通常の人間はけっして純粋な「父」の役割に徹しようとはしない。なぜなら、彼は父親になるまえにすでにひとりの男としてめざめており、むしろその権利を主張するためにあやまって父親になったにすぎないからである。庇護者としての責任はやむを得ず引き受けながら、彼はそれをなんとかして自分の本来の要求と折り合わせようとする。いいかえれば、父親としての役割から一時でも解放されたとき、彼はいつでも自分の内的な衝動にしたがってどう行動すればよいかを知っているのである。  これにたいして、仮面としての「父」を身につけたとき、鴎外にはまだそのしたにひとりの成熟した男としての素顔ができていなかった。もともと彼にとって父親はおよそ羨望の対象ではなく、逆に外圧のもとに苦しむ無力な庇護者であることが明らかであった。父親になることは、したがって彼には始めから自己拡張の欲求とは関係がなく、反対にさまざまな欲求をみずから捨てることですらあったといえる。成熟のためのばねとなるべき少年の欲望を、彼は一時棚あげにして「父」の役割を演じようとした。いわば、常人が成熟の結果として父親になるのにたいして、鴎外は自然な成熟をみずから中断することによって「父」になったというべきであろう。  だが、不幸なことに、この仮面劇は幕をあげると現実同様の効果を持ち、現実はいささかの容赦もなく彼に継続的な責任をとることを要求した。弟が勉強部屋で鬱《ふさ》いでいればそれは白昼の夢ではなく、両親が不安な表情を見せればそれも現実の行動によって慰めなければならなかった。そしてそれらの問題を解決する唯一の方法は、いうまでもなく彼が身につかぬ仮面をかぶりつづけることのほかにはなかったのである。成熟の一時的な中断によって演じた役柄であったが、演じて見ると逆にその役柄が自然な成熟を許さなくなった。一方で彼は急速に老成の相貌《そうぼう》を見せながら、そのじつ、仮面のしたには太田豊太郎のいうあの合歓《ねむ》の葉に似た幼さを残すことになったのである。老成と幼さのこの奇妙な共在は、しかし、たまたま自己抑制という一点において矛盾のない見かけを現わすことができる。自己抑制は努力による老成の徴候でもあるが、同時にまた成人の欲望を知るまえの少年の自然でもあるからである。おそらくこの事情がながく鴎外に仮面の存在を忘れさせ、かすかな異和感は覚えながらも、ついに生涯その仮面を脱いで見ようという心を起させなかったのだと考えられる。  ちなみに、ほぼ同じころに書かれた「青年」と「灰燼《かいじん》」というふたつの長篇は、この意味での作者の姿を赤裸々にあらわした作品として興味深い。どちらも世評のうえでは比較的低く扱われた作品であり、とくに「灰燼」は作者も認める通り未完のままに投げ出されている。「青年」は明治四十三年に稿を起され、「灰燼」はその翌年、「青年」の完成とともにもうひとつの長篇「雁」と並行して書き進められて行った。そのなかでは「雁」だけが従来も傑作の呼び声が高く、事実、いま読み返して見ても他の二作をはるかに抜く完成度を示している。一方、この三作の構成を較べて見ると、「雁」だけを除いて、「青年」と「灰燼」がともに一種のビルドゥンクス・ロマンとして書かれていることは、おそらく偶然ではないのである。 「青年」の主人公・小泉純一は田舎の小さな町から東京へ出て来た青年であり、新しい環境で体験を重ねて将来は小説を書こうと志している。旺盛《おうせい》な好奇心を持って開かれた世界を探求する主人公の設定は、当然、この作品がひとりの青年の成熟のドラマをめざしていることを予想させるであろう。けれども奇妙なことに純一は現実にさまざまの体験を重ねながら、その体験によって少しもひとつの「生活」をしたという実感を持ち得ない。過去の記憶と未来の期待とのあいだに、自分の全人格をゆすぶるような「現在」があるはずだが、彼にはどうしてもその現在の充実が感じられないのである。そのことにいぶかしさと軽いあせりを覚えながら、彼はやがて偶然知りあった未亡人と肉体的な交渉を持つことになる。しかし、この経験もまた彼にはたんなる行きずりのエピソードにとどまって、歓喜にせよ苦渋にせよ、閉じられて充実したあの「現在」の手応えを味わわせてはくれなかった。結局、純一は現実の体験というものの可能性を諦めて、体験からひとつの文学的世界を形成する計画をなげうってしまう。小説を書く夢はいぜんとして捨ててはいないが、その素材は、「国の亡くなつたお祖母さんが話して聞かせた伝説」の世界になるだろうというのが、純一の結論的な予想である。  ひと言でいえば、「青年」は成熟の起らないビルドゥンクス・ロマンであり、その主題は、体験がどうしても劇的な完結をつくり得ない悲しみだといえる。人間が成熟するためには「現在」を過去から引きちぎり、そのなかで過去の意味が逆転するような閉じられた時間を経験しなければならない。それまでの自己がいったん死に、同じ瞬間に新しい自己が蘇生《そせい》するのが成熟ということの内容であろう。しかし純一はめまぐるしい体験にもかかわらず、そういう劇的な逆転の瞬間がどこにもないことを悲しんでいるのである。  じつは、この淡い悲しみは作中に的確に描かれているのだが、それが今ひとつの説得力を持たないのは、主題が自覚的に追究されていないからであろう。明らかに純一は成熟を禁じられている人間なのであるが、しかし、それが何ものかによって禁じられているという自覚が主人公に欠けている。この自覚が見えない以上、読者は「青年」をありきたりのビルドゥンクス・ロマンとして読むほかはなく、そう読めば、「成熟なきビルドゥンクス・ロマン」という奇怪な矛盾に当惑せざるを得ない。成熟にいたらない青春をただ時間の流れに沿って描けば、それがまとまりのない事件の羅列に終ることは火を見るよりも明らかであろう。もし作者にそれだけの自覚があれば、当然、純一の目は自分の成熟を禁じているその原因の探究に向かうべきであった。かりに原因そのものは最終的に解明され得ないとしても、この探究の姿勢が貫かれていれば、少なくとも純一はもっと明確な行動の線をたどることができた。そうなれば「青年」はこれなりに統一ある作品展開を見せることになり、いわば「反・ビルドゥンクス・ロマン」ともいうべき新しいジャンルを開いていたかもしれないのである。  この問題に気づいていたかどうか、鴎外は次の「灰燼」においては、主人公の現在から過去を振り返る構成を試みている。純一が成熟を禁じられた永遠の少年であるのにたいして、「灰燼」の山口節蔵は自然の成熟をとび越えてしまった老成を示している。  節蔵は折々自己を反省して見て、我ながら一切の物に対する興味の淡いのと、要望の弱いのとに驚かざることを得なかつた。過去を顧みれば、いかに濃厚でないと思はれた興味も今程淡くはなく、いかに強烈でないと思はれた要望も今程弱くはなかつた。  作者はこういう人物の青春を履歴風に描こうとしており、やはり一種のビルドゥンクス・ロマンが計画されていたことは明白である。しかしながら、この節蔵は純一よりもさらに徹底していて、いっさいの体験を自己の人格の内部に受け入れ得ない性格である。純一には少なくとも旺盛な好奇心があったが、節蔵は始めから現実のすべてに虚無的な無感動を示している。彼にとっては体験そのものがすでに体験として成立しないのであるから、こういう人物に成熟のドラマが起り得ないのはいうまでもない。ここでは人物の性格とビルドゥンクス・ロマンという形式の矛盾があまりにも露骨であり、そのために作者がこの矛盾をむしろ自覚的に利用しているようにも見える。すなわち、成熟なき青春というものの矛盾を浮き彫りにして、それ自体がいかに形成されたかを追究するのが作者の目標であるかのように見える。けれども、もしそれをめざすならば重要なのはただ一点であって、節蔵がいつ、いかなる事情で自然な成熟をとび越してしまったかを描くことであろう。残念ながらこの一点は作中に描かれておらず、それを描く予定すら作者にはなかったように見受けられる。節蔵の没感動はむしろ天性の性格として前提され、ただ年月とともにその傾向が強まったにすぎないというのが、基本的な設定だからである。節蔵にとって、人生最大の事件はこの性格が決定されたその瞬間にあったはずだが、それを前提として作品の外に置けば、あとには描くべき筋も物語もなくなるのは当然というほかはない。ここでもまた、「青年」の場合と同様に、作者の目はさまざまの周辺的な逸話に拡散して行ってしまうのである。  だが、このふたつの作品はこれだけの重大な欠点にもかかわらず、虚心に読めば或る不思議な感銘を残すこともまた事実である。ここにはあの索漠たる思いを噛みしめながら、しかし誠実に、内部の空虚から目をそらさない人間が描かれているからである。いうまでもなく、人生に成熟を経験し得ない人間は、けっして節蔵や純一のような人物ばかりではない。逆に生涯を最後まで「子」の姿勢で生きぬいて、その結果、成熟の錯覚だけを味わっている人間はおびただしくいるのである。彼らのまえにはつねに倒すべき「父」があるから、それと争うことによって人生に絶えず見せかけの節を刻むことができる。それは成熟とは何の関係もない事件にすぎないのであるが、とにかく事件であるかぎりは筋のある物語をかたちづくることができる。そして、そういう物語によって次々と自分の人生を「劇化《ドラマタイズ》」しながら、そのおかげで節蔵や純一を無縁だと感じ得る呑気者《のんきもの》は現実の生活者のなかにも多いのである。   ㈽ 「石見人《いはみのひと》」  中年以降の鴎外は心境を語る重要なエッセイを何篇か書いているが、そのなかで大正六年九月に書かれた「なかじきり」は最晩年のものとなった。彼が死ぬのが大正十一年の夏であるから、「一生の中為切」として書かれたこの短文は、事実上、彼の公的社会にあてた遺言とも見ることができる。 「老は漸《やうや》く身に迫つて来る。  前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る。」  こう書き始める鴎外はこのとき五十六歳にすぎなかったが、過去をかえりみる口調は明らかな沈痛の響きを隠していない。なしとげて来たさまざまな業績を振り返って、彼はそのひとつひとつに十分な達成感のないことを歎《なげ》くのである。医者としても文学者としても思想家としても、彼にはそれぞれの領域にしっかりと所属しているという実感が欠けている。仕事の場所は多岐にわたったが、そのどのひとつにも自分の生存の基盤としての安心が感じられないというのである。  わたくしは医を学んで仕へた。しかし曾《かつ》て医として社会の問題に上ったことは無い。「婀《あんあ》雕朽木、老大免左遷」の句がある。  わたくしの多少社会に認められたのは文士としての生涯である。抒情詩《じよじようし》に於《おい》ては、和歌の形式が今の思想を容《い》るるに足らざるを謂《おも》ひ、又詩が到底アルシヤイスムを脱し難く、国民文学として立つ所以《ゆゑん》にあらざるを謂つたので、款《かん》を新詩社とあららぎ派とに通じて国風新興を夢みた。小説に於ては、済勝《せいしよう》の足ならしに短篇数十を作り試みたが、長篇の山口にたどり附いて挫折《ざせつ》した。戯曲に於ては、同じ足ならしの一幕物若干が成つたのみで、三幕以上の作は徒《いたづら》に見放《みさ》くる山たるに止《とど》まつた。哲学に於ては医者であつたために自然科学の統一する所なきに惑ひ、ハルトマンの無意識哲学に仮の足場を求めた。恐くは幼い時に聞いた宋儒理気《そうじゆりき》の説が、微《かすか》なレミニスサンスとして心の底に残つてゐて、針路をシヨオペンハウエルの流派に引き附けたのであらうか。しかし哲学者として立言するには至らなかつた。歴史に於ては、初め手を下すことを予期せぬ境であつたのに、経歴と遭遇とが人のために伝記を作らしむるに至つた。そして其《その》体裁をして荒凉《こうりよう》なるジエネアロジツクの方向を取らしめたのは、或は彼《かの》ゾラにルゴン、マカアルの血統を追尋させた自然科学の余勢でもあらうか。  いうまでもなく、ここで注目に値いするのはもっぱら鴎外の主観的な気分のあり方だけである。客観的に見ればひとりの作家の生涯にとって、数十の短篇小説と数篇の一幕戯曲がはたして不十分な仕事であるかどうか疑わしい。医者として哲学を学んで、独自の体系ができなかったことを問題にするのも奇妙であるし、まして医学の分野で、衛生学者としての彼が「社会の問題」を大いに賑《にぎ》わせたことなかったとは考えられない。だが、それにもかかわらず彼は小説を書くことが彼にとって「足ならし」にしか感じられず、理解した哲学が「仮の足場」以上に感じられないことにいらだっている。できばえの客観的評価とは無関係に、人間は自分の仕事にもっと深く関《かか》わったという実感が持てるはずだ、といっていらだっているのである。  然るにわたくしには初より自己が文士である、藝術家であると云ふ覚悟はなかつた。又哲学者を以《もつ》て自ら居つたことも無く、歴史家を以て自ら任じたことも無い。唯、暫留《ざんりゆう》の地が偶《たまたま》田園なりし故に耕《たがへ》し、偶水涯なりし故に釣つた如きものである。約《つづめ》て云へばわたくしは終始ヂレツタンチスムを以て人に知られた。  明らかに彼が問題にしているのは仕事の具体的な内容ではなくて、その仕事の枠《わく》によって自分が何者であるかを証明することができなかったという不安である。彼にできなかったのは、文士や歴史家や哲学者としてみずから任ずることであって、いいかえれば、それぞれの仕事の領域に自分の人生をはめこんで行くことであった。そうすることによって、ひとは自分の存在に明確な輪郭をあたえることができるのだが、鴎外は生涯をかえりみてそれができなかったといって歎いているのである。いうまでもなく、これは仕事のしかたそのものの反省としては、いささか奇妙な感慨だといわざるを得ない。なぜなら、専門領域を横断して多様な仕事をしたということは、業績の評価それ自体としては、ひとつの領域に沈潜するのと同様に誇らしいことでもあり得るからである。というより、現実に仕事をしているときの鴎外には、もともと領域を超えて多様な表現形式を使おうという意識があったかどうか疑わしい。むしろ、そのときどきにまず具体的な表現の主題があって、彼はそれぞれの主題が要求する形式として、必然的に小説や戯曲というかたちを選んで来たにすぎなかったはずである。生涯全体についていえば、鴎外にはそういう多様な方法によってしか追求できない何ものかが見えていて、それを捉《とら》えるために不可避的に、いくつもの領域をめまぐるしく横断して来たというのが真相であったにちがいない。  いいかえれば、鴎外は生涯「文士」や「歴史家」であるまえにひとりの人間だったということにほかならず、その自由な関心の必然性にしたがって、あるいは田園に耕しあるいは水涯に糸をたれて来たということにすぎなかったはずである。にもかかわらず、一生の「なかじきり」にのぞんだ彼の意識から、この必然性の側面が消え失せて、逆にジャンルにたいする帰属感の薄さばかりが残ったということは、興味深いのである。言葉のうえではたしかに「文士」や「歴史家」に徹しきれない不安が語られているが、ここで鴎外が本当に心もとなく思っていたのがそのことでないことはほぼ明らかであろう。もし彼がそれ以前にひとりの人間としての自分に明確な身許《みもと》証明を感じていれば、そのうえの細かな肩書は始めから必要がなかったはずだからである。そう考えると、彼がここで洩らしているのはたんに仕事にたいする反省ではなく、それ以前の人生全般にたいする帰属感の薄さだということは容易に推察することができる。生涯にわたって予感を重ねて来たあの内面の空虚を、最晩年に及んで彼はもう一度言葉に出して噛《か》みしめることになったのである。  彼がこの予感を最初に直接的なかたちで語ったのは、もちろんこれまでたびたび引用した「妄想」においてであった。「妄想」が書かれたのは明治四十四年であるが、彼が第二期の文筆活動にはいるのが四十二年であったから、これと「なかじきり」は十年にわたる活動期の始めと終りを劃《かく》するものだったといえる。印象的なのは彼が「妄想」において早くも老いを意識しており、「なかじきり」と同じ回顧的《レトロスペクチイフ》なまなざしで自己を眺めようとしていることであろう。しかもその内容の点からいっても、「なかじきり」の問題がすでに「妄想」のなかで完全に先取りされていることは、あらためて注目にあたいする。過去の仕事にたいする達成感の乏しさも、またそれが自分の存在証明の心もとなさにつながることも、彼は十年まえからはっきりと意識していた。さらに理論や世界観が彼にはどうしても相対的な虚構に見えて、人生にとって「仮の足場」以上のものには感じられないこともすでに「妄想」のなかに述べられている。  帽は脱いだが、辻《つじ》を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた。多くの師には逢つたが、一人《ひとり》の主《しゆ》には逢はなかつたのである。  自分は度々此《この》脱帽によつて誤解せられた。自然科学を修めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voit《フオイト》の標準で駁撃《はくげき》した時も、或る先輩が「そんならフオイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、姑《しばら》くフオイトの塁に拠つて敵に当るのだ」と云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフオイトに脱帽したに過ぎないのである。  とりわけ、 「辻に立つ人は多くの師に逢つて、一人《いちにん》の主にも逢はなかつた。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上《けいじじよう》学でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云ふことを知つた。」  というような一節は、思想にたいする彼の態度をもはや引き返すことのできない明晰《めいせき》さで語ってしまっている。このふたつの告白的な文章を読み較べて見ると、鴎外にとってはあいだの十年が少しも流れない歳月であり、ひとつの問題をめぐって息苦しくなるほど渦巻きつづける時間であったことがわかるのである。  この十年のあいだに鴎外が必死に試みたことは、ただひとつ、しだいに疎遠になる自分と現実世界との関係を再調整することであったといえる。いわば、把握《はあく》し難い世界にいくらかでも爪を立て、手応えの稀薄《きはく》に耐えながらなおも行動の可能性を探るこの仕事を、彼は作品のなかで二つの違った方向から試みようとしている。  その最初の試みは、いっさいの仕事に帰属感を持てぬ自己を現実として認めながら、それにもかかわらず、自分をなんとか日々の活動へ駆り立てて行く「原理」を探すことであった。人生を内発的な衝動に従って生きることのできない人間が、それでも人生を積極的に生きるためにばねとなる原理を探すことであった。もちろん、彼には現実にたいする不適合を逆手にとって、みずから作った「自我の陰画」のなかに立て籠《こも》る生き方は始めから禁じられていた。そこで苦心のすえに、彼は自分自身に似た三種類の人間像を作中に描き出し、それぞれを動かしている独特の人生態度を定着しようと試みた。ひとつは「百物語」の飾磨屋のように人生に「主人」としてのぞむ態度であり、あたかも招かざる客を優遇するように日常の諸事とつきあうことであった。ついで考えられるのは「安井夫人」の佐代のように、内面の空虚に直面する暇がなくなるほど、庇護者《ひごしや》の役割に徹して人生を駆けぬけることであった。さらにまた場合によっては「阿部一族」の親子のように、人生そのものを回避して自分を破滅に向かってせきたてるという生き方も考えられた。それらが人生をたっぷりと生きる方法であろうとなかろうと、とにかく鴎外には日々の生活をなんとかやり過して行くことが焦眉《しようび》の急であった。そういえば、「意地」といい「遊び」といい、さらに「技癢《ぎよう》」といい「好奇心」といい、彼の作中には外界に反応して人間を行動に向かわせる独特の感情の記述が多い。そうしたさまざまのヴァリエイションを探りながら、彼はこの世界にたいする帰属感なしに、しかし、いかにしてアパシーに陥ることなくそれに行動の爪を立て得るかを摸索《もさく》していたのである。  それと同時に、鴎外は一方でかなりの努力を、外界の世界そのもののイメージを調整することにも傾けている。すなわち、すべての世界観が絶対的でないのはどうしようもないとして、それを認めたうえで、なおも現実世界と肯定的な関係を結ぶ方法を探そうとするのが彼の第二の努力であった。一方で、世界を絶対的に説明するあらゆるイデオロギーを排除しながら、そのうえで彼は日常生活に混乱を来たさないだけの統一的世界像を持ち得る立場を求めようとした。その結果、彼が思いついたのがハンス・ファイヒンガーの「かのやうに」の哲学であって、これを鴎外は同名の小説のなかで主人公・五条秀麿の口をかりて展開している。ひと言でいえば、これは懐疑主義にたいして常識の復権を主張する哲学であり、いわば醒《さ》めた常識主義、あるいは飼いならされた懐疑主義とでもいうべき哲学であった。懐疑主義によれば世界についての重要観念はすべて虚構にほかならないが、ファイヒンガーはそのことを認めたうえで、あえて人間の生という最高目的のためにそれらが実在するかのように考えることを提唱する。たとえば「魂」も「自由意志」も「世界精神」も、さらには自然科学の「物質」といったものすらも、人間はそれらが実在することを具体的に証明することはできない。それらはあくまでも思考の便宜のためにつくられた虚構にすぎないのだが、その反面、それらが実在するかのように考えなければ人間はこの人生を生きることができなくなる。人間の生と行動の意志を最高価値とするファイヒンガーは、それを破壊してしまうような剥《む》き出しの懐疑主義を許すわけには行かなかった。あたかも小説の虚構がより高い真実のために意識的に作られた嘘であるように、彼は、いっさいの知的産物は人間の生のために作られた有用な嘘だと考えることを提案する。そのことによって、いわばファイヒンガーは常識と懐疑主義の立場を両立させながら仲介しようとしたのである。  小説「かのやうに」の五条秀麿は、この哲学を借りて道徳と啓蒙《けいもう》主義を仲介し、民族神話と科学的な歴史の関係を和解させようとする。道徳と科学、神話と歴史というものをいったん理性的に切り離し、そのうえで神話や道徳を否定するのではなく、それがあたかも実在するかのように尊敬して行こうというのである。  かのやうにがなくては、学問もなければ、藝術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのやうにを中心にしてゐる。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈《かが》めたやうに、僕はかのやうにの前に敬虔《けいけん》に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切つた、純潔な感情なのだ。道徳だつてさうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云ふこと丈《だけ》分かつて、怪物扱ひ、幽霊扱ひにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣《ふんまん》に堪へない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。併《しか》しその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かなやうな外観のものではあるが、底にはかのやうにが儼乎《げんこ》として存立してゐる。人間は飽くまでも義務があるかのやうに行はなくてはならない。僕はさう行《おこな》つて行く積りだ。(中略)生類は進化するかのやうにしか考へられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのやうに背後《うしろ》を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。さうして見れば、僕は事実上極蒙昧《ごくもうまい》な、極柔順な、山の中の百姓と、なんの択《えら》ぶ所もない。只頭がぼんやりしてゐない丈だ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶ所もない。只頭がごつ〓〓してゐない丈だ。  いうまでもなくこの秀麿の主張が、そのまま作者自身の迷いのない確信をいいあらわしているわけではない。同じ作品の結末の部分で、鴎外はこういう思想が、けっして民衆や政治的権力者によって容易に受け入れられるものではないことを予想しているからである。だが、それ以上に注意しておかねばならないことは、彼がこの哲学をたんにジャーナリスティックな次元で、当時の政治的問題にたいする対案として思いついたわけではないということであろう。じつはそういう政治的解釈はすこぶる広く行われていて、とくにこれを明治四十三年の幸徳事件にたいする反応と見る解釈はひところ有力な説明となっていた。また近年にいたって、これを明治四十四年におこった「南北朝正閏《せいじゆん》」論に触発された彼の感懐の現われと考える研究もいくつか行われている。たしかに、鴎外がいわゆる革命思想のファナティズムに嫌悪を抱いていたことは事実だし、山県有朋を通じて、彼が「正閏」問題に関心をもったことも推察されるが、しかし、「かのやうに」の思想がそういうジャーナリスティックな動機からのみ生まれたものでないことだけは明らかだといえる。事実、彼はこれに似た思想をかなり古くから抱いていた形跡があり、すでに明治二十二年の「女子の衛生」のなかで、 『「俗」の為めに制馭《しはい》せられさへしなければ、「俗」に随《したが》ふのは、悪い所ではない、却《かへ》つて結構です。』  という考え方を明らかにしている。そのうえ、さらに決定的な証拠は彼の年来の美学にたいする傾倒であって、とりわけ「美的仮象」という観念にたいする傾倒は、その内容においてまさに「かのやうに」の哲学の予習であったと見ることができる。鴎外は明治三十年代の前半に美学にたいする集中的な興味を示し、エドゥアルト・フォン・ハルトマンを下敷にして「審美綱領」、「審美新説」などつぎつぎに著作をまとめている。これらの仕事が主としてあの小倉時代に行われ、不遇の鴎外はかたわらクラウゼヴィッツの戦争論を飜訳《ほんやく》しはじめていたという事実も、思い出しておいてよいことかもしれない。クラウゼヴィッツのいわゆる「純粋抵抗」の理論が、当時の彼にとっては鬱屈した人生感情の反映であったといわれるが、同じ時期の鴎外が美学的な発想に惹《ひ》かれていたということもたんなる偶然ではないように思われる。もちろん、美学理論そのものは彼の藝術にたいする真摯《しんし》な関心を示すものでもあり、また藝術批評に根源的な基礎づけを求める理論家らしい彼の面目をあらわすものでもある。しかし、それと同時に、あるいはそれ以上に、彼にとっては美学が世界観的な不安にたいする救済の場所として見えていた可能性を見落してはならないであろう。なぜなら、彼の美学の中心を占める「美的仮象」という観念は、ものが実在するかしないかという、世界観を左右するもっとも根本的な問題を始めから超越しているからである。  美しき仮象は偽にあらず。意識の中に盛られて実在する以上は、想なる実物なり。抑《そもそ》も美象は唯だ現れむことを欲して毫《ごう》も有らむことを欲せず。穉《をさな》き実際主義(素朴実在論)の実も、その棄てたるところなり。官而上実際主義(先験的実在論)の実も、その顧みざるところなり。奈何といふに、仮象は始より実を脱して浄《きよ》く現れたるものなればなり。然る上は仮象は実際主義の上の真をも、亦《また》棄てゝ顧みざること明なり。実際主義の上の真とは、相応の実と吻合《ふんごう》するを謂《い》へばなり。仮象は既に真ならむことを欲せず。故に人に真なりとおもはせて、おのれ贋なるやうなる虞なし。これを偽にあらずといふ。これその誠にして絶えて人を欺くことなき所以《ゆえん》なり。  哲学の経験派と主理想(イデアリスムス)派は、識論(認識論)の上に於《お》いても、実世間の上に於いても、毎《つね》に「純なる経験」を以て立脚点となさむとして能《あた》はざるに、吾徒は審美(美学)上に能《よ》く有を離れて現れ、実を脱して立てる主象をして確立せしめたり。吾人の本能は、所覚(感覚所与)と実とを、料《はか》らずも必ず相関するものゝやうに思ひ做《な》せり。こは心理上に止むことを得ざる迷惑なるか。さらずば真なるか。そを定めむは識論上の事なり。審美学は実を脱しての上の主象をのみ、その論材とするものなれば、かゝる問に答へむやうなし。(「審美論」傍点及び括弧内の註《ちゆう》は著者)  言葉遣いは難解に見えるが、簡単な実例を頭において読めば主旨はきわめて明快である。たとえば「盆のような月」というイメージは誰もが口にするが、実在論の立場からいえば、これが形の点でも大きさの点でも嘘であることはいうまでもない。自然科学という別の認識方法によれば、月は直径三千キロを超える巨大な球体であることが明らかだからである。だが、この科学的認識がさらにそれ自体絶対の真実かといえば、認識論のうえでは依然として面倒な問題が残されることになる。それが月という実在の性質の反映なのか、あるいは科学という特定の認識方法の産物なのか、深く考えれば問題はけっして単純ではないのである。これにたいして、もとの「盆のような月」というイメージは、それが絵や歌のなかに現われるかぎり絶対の真実だといえる。藝術を鑑賞するとき、問題は或るかたちがそこに見えるかどうかであって、それが実在するかしないかはどちらでもよいことだからである。文学のフィクションも同様であって、読者はもちろん小説を読みながらその物語がそのまま事実だとは考えていない。しかしその反面、彼らはそれを明確に嘘だと考えているわけでもなく、いって見れば、真偽に関する判断をみずから一時停止しながら読んでいるのである。  或る意味ではこうして得られる事実の仮象ほど、いいかえればものの見かけほど、世の中に確実なものはないといえるかもしれない。なぜなら、或る事実が実在するにせよしないにせよ、それを判断するためにも、人間は前もってそのものの仮象を頭に浮かべておかなければならないからである。この世に幽霊が実在しないというためにすら、まず幽霊の見かけを知らなければ、何が実在しないといっているのか意味をなさなくなってしまうであろう。実在は疑うことができるが、疑うためにも必要な仮象をそれ自体疑うことはできない。そこで現代の哲学には、そういう意味での仮象から現実世界を構成しなおそうとするいくつかの試みがあるが、美学という学問は、昔から仮象そのものがひとつの独自の世界を作り得る可能性を追求して来た学問であった。したがってそれは、実在を論じるさまざまな世界観のいわば休戦地帯の性格を持っており、その意味で、世界観の絶対性を信じられない鴎外が、美学に一種の心の安らぎを見出したとしても不思議ではなかった。事実、彼はハルトマンの形而上学を体系として受け入れることは拒絶しながら、その美学説だけは自分の立場にすると随所にはっきりいいきっているのである。(「妄想」、「月草叙」)  そしてこれだけの背景を見れば、「かのやうに」の立場が鴎外にとっていかに自然な、精神の必然的な到達点であったかは明白であろう。いうまでもなく、仮象とは要するに「かのやうに」見えることにほかならず、ファイヒンガーの哲学は、仮象から現実世界を再構成するもっとも平明な試みのひとつだといえるからである。かりに時代の革命思想が小説「かのやうに」にとってひとつの刺戟《しげき》にはなったとしても、あくまでもそれを書かせたものは十余年にわたる彼の個人的な精神史の要求であった。ちなみにいえば、そういう外的な刺戟に「技癢」を感じて筆をとり、しかしつねに、それにたいする反応以上に内面を語ってしまうのが、鴎外の独特の自己表現の型だったといえる。  したがって、五条秀麿の口吻《こうふん》には抗議の激しさが明らかだが、それは必ずしも破壊的な外部の過激思想にのみ向けられていたと考えることはできない。よく見れば過激な革命思想は内に無数のドグマを含んでおり、理想の点でも道徳の点でも、或る意味で純粋な懐疑主義とは正反対の立場に立つといわなければならない。したがって単純に革命思想に水をさすためなら、鴎外は徹底した懐疑主義の立場に立つだけですんだにちがいない。本来なら、「かのやうに」の哲学は革命思想を内から補正して、それを野蕃《やばん》な教条主義から救うためにこそ役立つ哲学だといえるのである。むしろ、ここで鴎外が抑え難い焦燥をこめて秀麿の口調に托《たく》しているのは、半ば以上、彼自身の内部にあるどうしようもない懐疑主義への不安だったにちがいない。あらゆる世界観のドグマをどこまでも拒絶しながら、同時にそれを信奉しきれない自分に彼がひそかな疲れを感じていたことは疑いない。ひとつの世界観を信奉することは本当の現実認識とはなんの関係もないとしても、少なくともそれが人間に、現実に深く関わっているという幸福な錯覚をあたえてくれることは事実だからである。当然、そういう錯覚を拒絶すれば、彼は現実にたいする帰属感の薄い自分の姿を裸で直視することになるわけで、長い年月のうちにはそれが思いがけない焦燥にまで高まることは容易に想像できることであろう。  いくつかの副次的な動機はあったとしても、「かのやうに」の哲学はなによりも鴎外が自分自身にあたえた切実な処方箋《しよほうせん》であった。そう思って見ると、秀麿が口にする淳朴《じゆんぼく》な百姓や敬神家の譬喩《ひゆ》は、作者の意図を越えてなにか暗示的であるようにも思われる。彼らは単純このうえない世界観の信奉者であるが、それだけではなく生活のうえできわめて堅固な日常の現実に帰属しているからである。彼らには毎日の仕事の達成感について疑いはなく、近代化による風俗の分裂も、有機的な家庭の秩序の崩壊も起っていない。「かのやうに」の哲学を論じながら、鴎外が無意識にこの種の人間を思い浮かべたのは、おそらくたんに過激思想にたいする防波堤としてだけではなかったはずである。  しかしながら、こうしたさまざまの努力にもかかわらず、「妄想」から「なかじきり」までの十年間に、彼は自分と世界との距離を少しでも縮めることに成功したとはいえそうにない。それどころか現実的な条件の変化によって、その距離はむしろ刻々に拡がって行く一方であった。最大の拠り所であった彼の家庭が分裂を深め、人工的な雰囲気《ふんいき》はますます決定的なものになって行った。「アンヌコや、ボンチコや」と彼が「愛情のような雰囲気」を振り撒《ま》けば振り撒くほど、愛された家族の側はより大きな愛を求めて満ちたりない顔を見せた。ふたつの家庭の父として彼自身が深刻な矛盾に悩んでいるのに、その悩みを理解して愛のお返しをしようとする家族はどちらにもなかった。「なかじきり」の書かれた大正六年ごろの森家の雰囲気は、たとえば森於菟の目には次のように映っていた。  その次の年(大正七年)の夏であつたと思ふが私は初めてドイツ語で一小論文を草した。それを父に直して貰はうとすると、かねて私が科学者になるやうに熱望してゐた父は非常に喜んだが、お前がしげ〓〓来るとお母さん(しげ子)が機嫌をわるくするから役所へ来いよといつた。(中略)  ある日、私はこの昼食の時、父と私が悪い事でもするやうにかうしてゐるのが如何《いか》にもみつともない事ではないかといつた。私は父が家庭の事をもう少しテキパキしたらと考へたのである。すると父は只「女は気の狭い者だからそのつもりでゐなければいけない。お前は自分の考通りで何でもゆけると思ふが世の中にはいろ〓〓別な考へ方もあるのだから気をつけなくてはならぬ」と云つた。  父は不幸な気持の齟齬《そご》があつた場合にも、決して私に母の事を悪くいはぬ。又母にも私の事を悪くいはぬのである。其《その》後世の中に出て眼の前に居らぬ人の悪口を楽しさうに語り合ふ人のあまりに多いのを見るにつけ、父のこの態度は尊敬に値すると考へてゐる。  この論文訂正が終つた翌々日の朝である。既に結婚して別家した為《ため》に父の家を半分わけて貰つて裏合せに住んでゐた私の家の門口をあけて父が入つて来た。いつも用があれば呼ばれるのでこんな事は例がない。私が驚いて出てゆくと、格子戸を半分あけた父は出勤の途と見えて背広服に手提鞄《てさげかばん》をさげてゐる。不安さうな眼付きで私を招く。多分私の家の者にも聞かせまいとの心づかひである。私がそつと格子戸の外に出ると小さい声で、「お母さんが大変怒つてゐる。当分うちへ来てはいけない」といふ。「どうして」「何、いつてもいゝのだが機嫌をわるくさせない方がいゝと思つて云はずにおいた。昨日お前の論文が出来たのであんまり嬉しくてつい日記に書いたらそれを見られてしまつたのだ」父は泣顔と苦笑とをごたまぜにしたやうな変に歪《ゆが》んだ顔をしてゐる。私は言句も出ない。父はすぐ後向きになつて私の家の格子戸と門との間の五六間をトボ〓〓あるいて、そつと門をあけて出て行つた。その後姿はいかにも哀れな老人の衰えをまざ〓〓示して私は見るに堪へなかつた。(森於菟「父の映像」、括弧内・著者)  このなまなましいエピソードほど、「父」であることに徹した人の悲しい愚かしさを浮き彫りにしたものはあるまい。おそらく過剰な思いやりから彼は息子への愛情をその義母にたいして隠したのであるが、当然のことながら結果は手痛い逆効果となって返って来た。のみならずそういう骨の折れる心配りを、彼は当の息子によっても批判的なまなざしで眺められているのである。  こうして現実の状況が刻々に悪化する一方、さらに彼が文学のなかで試みていた世界との和解も、和解の方法としてはもともと無理な試みであった。  まず「かのやうに」の哲学についていえば、この哲学は鴎外の期待に反して、じつは彼の精神の体質に本来なじまない側面を持っていた。すなわち彼はこの哲学を身につけるためには、その根本的な前提というべき旺盛《おうせい》な生物的な生の衝動に欠けていたからである。ファイヒンガーの立場は一種の実用主義の先駆けだといえるが、あらゆる実用主義は一面「生の哲学」であり、人間の生きようとする明確な意志を前提としている。なぜなら、理想や道徳を役に立つ虚構として認めるのだとすれば、論理的にいって当然、それがなんのために役立つかという目的が先になければならない。ファイヒンガーによれば、その目的となるのが人間の生きる意志だというのだが、さらに考えればこの意志はそれぞれの具体的な社会のなかで具体的なかたちを持つはずである。たとえば、近代的な産業社会には成長に向かう明確な意志があり、それを前提にしてこそ「進歩」という虚構も役に立つことになる。また、家族の連帯を秩序の中心とする社会にもそれなりの生存の意志があり、それがあってこそ始めて「祖先の霊」という虚構が有用な価値観になるのだといえる。したがって、そのなかの個人がそれらの虚構をあたかもあるかのように信じ得るためにも、彼自身に、その社会の生存の意志をみずからわけ持っているという実感がなければならない。どの虚構が有用でありどの虚構が無用であるかをいい得るためには、人間はたとい無意識的にも、ひとつのはっきりした方向を持つ生命の流れに帰属していなければならない。だが、鴎外にとっては帰属感の中軸というべき「家」そのものがぐらつき始め、本当にわけ持つべき生存の意志がどこにあるのか感じられなくなっていた。そういう状況のもとで、たとえば「先祖崇拝」という「かのやうに」を信じようとしても、彼の心にいつしか白々しい隙間風が吹くのは防ぎようもなかったはずなのである。  さらにまた、彼が自分のような人間が生きるために考え出したあの行動の「原理」にしても、けっして彼の不安な心を慰める支えとなり得るものではなかった。人生を「主人」として生きる姿勢にもせよ、あるいは極度の庇護者として生きる態度にもせよ、それを「原理」として取り出すことによって、彼はますます自分の孤独を他人にも自分にも強調する結果になったからである。もちろん、「百物語」や「安井夫人」や「阿部一族」の主人公を、鴎外がひとつの「原理」の説明的な挿絵《さしえ》として描いたというわけでは毛頭ない。けれども、鴎外的な人間の全体像をかりに「反・悲劇的人間」という言葉で捉《とら》えるとすれば、やはりこれらの主人公がそのなかのひとつの側面の抽象であることは否定できない。そして、それが目に立つということは裏返していえば、鴎外が鴎外的な人間像をみずから懸命に分析している姿が目立つということにほかならない。そこには、この世界の居心地の悪さをしきりにいぶかりながら、そのなかであれこれと工夫をこらして、いかに生きるかを摸索している作家の苦渋の姿が浮かびあがることになる。そして、それを鴎外自身の側からいえば、そういう努力を重ねることによって、ますます自分の不安を再確認する結果になったにちがいないのである。 「なかじきり」に溢《あふ》れるあの沈痛な気分は、思えばこれだけの試行錯誤が徒労に終ったあとの感慨であった。作品的には充実した十年であったが、それに満足が感じられないのは彼の根本的な渇きがいやされていないからである。この十年間の作品の量が厖大《ぼうだい》であるだけに、その結果、十年まえと同じ歎きがくりかえされるのを見るのは、ひときわ痛ましい光景だというほかはない。しかし、そのことは十分に見届けたうえで、もう一度「なかじきり」を「妄想」と読み較べて見ると、ここにはその反面、沈痛な気分の底に一脈の安堵《あんど》の色が見えることも事実なのである。  是《これ》が過去である。そして現在は何をしてゐるか。  わたくしは何をもしてゐない。一間人《かんじん》として生存してゐる。しかし人間はヱジエタチイフにのみ生くること能《あた》はざるものである。人間は生きてゐる限は思量する。間人が往々棋を囲み骨牌《かるた》を弄《もてあそ》ぶ所以《ゆゑん》である。  剰《あま》す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具《おもちや》を授けてゐるかと云ふにある。爰《ここ》に其玩具を検《けん》して見ようか。わたくしは書を読んでゐる。それが支那の古書であるのは、今西洋の書が獲難《えがた》くして、その偶獲《たまたまう》べきものが皆戦争を言ふが故である。是はレセプチイフの一面である。他のプロドユクチイフの一面に於ては、彼《かの》文士としての生涯の惰力が、僅に抒情詩《じよじようし》と歴史との部分に遺残してヰタ、ミニマを営んでゐる。 「何をもしてゐない」といいながら、ここには抒情詩と歴史という彼の現在の仕事が具体的に書き記されている。注目すべきことだが、これは十年前の「妄想」にはまったく見られなかったことなのである。「妄想」の主人公の目はもっぱら過去と未来に向けられていて、現在は完全に灰色の空白として眺められている。日々の平凡な勤めに自足できない自分を「永遠の不平家」と呼びながら、しかし、彼が実際にしているのは本を読むことと自然のなかでの瞑想《めいそう》のほかにはない。現実の鴎外は当時旺盛な創作力を示していたにもかかわらず、その気分がこの一文にいささかも反映されていないのは印象的なのである。それにひきかえ、ここでは最低限度の表現とはいうものの、ともかく現在の仕事が一応肯定的なまなざしで眺められている。とりわけ興味を惹くのはそのなかでも歴史についての記述であって、鴎外は自分の仕事の仕方に或る新鮮な好奇心を覚えているようなのである。  何故に現在の思量が伝記をしてジエネアロジツクの方向を取らしめてゐるかは、未《いま》だ全く自ら明にせざる所で、上《かみ》に云つた自然科学の影響の如きは、少くも動機の全部ではなささうである。趙翼《ちようよく》は魏収《ぎしゆう》を刺《そし》つて「代人作家譜」と云つた。しかしわたくしの伝記を作るのと、支那人が史を修めたのとは、其動機に同じからざるものがあるかとおもふ。  もちろん微妙な変化ではあるが、鴎外はここで「現在の思量」に何かが起りつつあることを感じており、それにみずから好奇心を覚えているのはまちがいない。その変化は彼に新しい姿勢で歴史の筆をとらせたものであり、さらにそれを彼のいう「系図学的《ジエネアロジツク》」な方向に導く動機となったものであった。それはたんに新しい仕事の領域が増えたというだけのことではなくて、現実世界にたいする彼の基本的な関わり方にひとつの深い変化が起りつつある徴候のように見えるのである。  ここで彼が伝記的な歴史と呼んでいるのは、もちろんその前年、大正五年に書かれた「澀江抽斎」であり「伊沢蘭軒」であり、さらに「なかじきり」と同年に書かれた「細木香以」といった諸作品である。しかし、そのなかで構成素材いずれの点からも鴎外の精神史に劃期的な意味を持っているのは、なんといっても「澀江抽斎」であろう。それはたんなる歴史文学ではなく、ひとつの家庭の全体図であり、しかもまさに「系図学的」な三代にわたる家族の生成史である。「なかじきり」において彼が念頭においている歴史というものが、第一にこの「澀江抽斎」を指していることはまず疑いの余地がないであろう。のみならず、この作品の一節には読みようによってはきわめて含蓄深く、素材に惹かれた彼の「動機」とでもいうべきものが書きこまれているのである。  三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは澀江抽斎の述志の詩である。想ふに天保十二年の暮に作つたものであらう。弘前《ひろさき》の城主津軽順承《ゆきつぐ》の定府の医官で、当時近習詰になつてゐた。しかし隠居附にせられて、主《おも》に柳島にあつた信順《のぶゆき》の館《やかた》へ出仕することになつてゐた。父允成《ただしげ》が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫《ぬひ》を喪《うしな》つてから十二年、父を喪つてから四年になつてゐる。三度目の妻岡西氏徳《とく》と長男恒善《つねよし》、長女純《いと》、二男優善《やすよし》とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあつた。知行は三百石である。  史伝にふさわしく簡潔で客観的な書き出しであるが、鴎外はこれに続けて抽斎の詩にたいする私的な感慨をつけ加えている。その解釈はかなり思いきった飛躍を含んでおり、むしろそこにこめられた鴎外そのひとの心境をうかがわせるものである。  此詩を瞥見《べつけん》すれば、抽斎は其貧に安んじて、自家の材能《さいのう》を父祖伝来の医業の上に施してゐたかとも思はれよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはゐられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去つた四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸《のぶ》を以て妥《おだやか》に承《う》けられる筈がない。伸ると云ふのは反語でなくてはならない。老驥櫪《ろうきれき》に伏すれども、志千里に在りと云ふ意が此中《うち》に蔵せられてゐる。第三も亦同じ事である。作者は天命に任せるとは云つてゐるが、意を栄達に絶つてゐるのではなさゝうである。さて第四に至つて、作者は其貧を患《うれ》へずに、安楽を得てゐると云つてゐる。これも反語であらうか。いや。さうではない。久しく修養を積んで、内に恃《たの》む所のある作者は、身を困苦の中に屈してゐて、志は未《いま》だ伸びないでもそこに安楽を得てゐたのであらう。  主人公にたいする感情移入は明白すぎるほどであり、作者が抽斎を借りてみずからの自画像を描こうとしていることは、これだけでも十分に推察することができる。だが、鴎外はさらに端的な言葉で、この動機を次のように説明して喜びの表情を隠していない。  抽斎は医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文藝方面の書をも読んだ。其迹《あと》が頗《すこぶ》るわたくしと相似てゐる。(中略)  抽斎は曾《かつ》てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比《たぐひ》ではなかつた。〓《はるか》にわたくしに優《まさ》つた済勝《せいしよう》の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬《いけい》すべき人である。  然るに奇とすべきは、其人が康衢通逵《こうくつうき》をばかり歩いてゐずに、往々径《こみち》に由《よ》つて行くことをもしたと云ふ事である。抽斎は宋槧《そうざん》の経子《けいし》を討《もと》めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも翫《もてあそ》んだ。若《も》し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板《どぶいた》の上で摩《す》れ合つた筈である。こゝに此人とわたくしとの間に〓《なじ》みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。  だが、この動機と、彼のそれまでの「小説」作品の動機とを較べて見ると、そのあいだには微妙だが見落しがたい違いを指摘することができる。従来の小説の主人公が、なんらかの「問題」とそれに対処する態度によって鴎外の一面に似ていたのにたいして、抽斎の場合は、生活の条件そのものや、より一般的な境遇において相似性を見せているからである。作者とかつての小説の主人公の類似点がいわば人生にたいする「姿勢」にあったとすれば、抽斎との類似点はそういう姿勢を生み出す内外両面の環境にあったといってもよい。いずれの場合も、鴎外は自分との相似性を動機として作中人物に向かうのであるが、ふたつのあいだで、彼が人物に求めている救いの中身は大きく違っているように見えるのである。  歴史小説であれ現代小説であれ、彼がかねて小説の人物に求めていたものは、この世界に関わるための具体的な処方箋であった。十年のあいだにいくつもの処方箋を次々に書いては破って来たあげく、ついに彼は作中人物にそういうものを求めることに疲れ切ったのかもしれない。「澀江抽斎」にいたって主人公の抽斎は、純粋に作者の似顔絵であること以外の何ものも期待されてはいない。もはや鴎外は抽斎にいかに生きるかを聞こうとはせず、自分に似た抽斎が歴史のなかで確かに生きたという事実だけを確認しようとしているように見える。冒頭で抽斎の述志をあれほどわが身に引きつけて読んだ鴎外であったが、その後は二度と、主人公の内面に深く立ち入ろうとしていないことは注目すべきであろう。不如意な境遇のなかで精神的な「安楽」を保つために、抽斎が具体的にどのような行動を起したかはとくに描かれていない。のみならず、そういう内面を秘めた抽斎が外界とつき合うためにどのような表情を浮かべていたか、特筆に値いする言動というべきものもほとんど描かれていない。読者は彼の表情が「百物語」の飾磨屋に似ていたか、それとも栗山大膳や「高瀬舟」の喜助に似ていたかをも、さだかに見ることは難しいのである。飾磨屋や大膳が問題に対処して姿勢を一定の方向に傾けていたのにたいして、いわば抽斎にはそうした特定の姿勢の傾斜が見受けられない。作者はここでは、主人公が人生上の問題を抱えたままで、それにもかかわらず日常が着実に彼のうえを過ぎて行く姿を描こうとしているように見える。たとえ抽斎を生かしつづけたものがたんなる偶然にすぎず、彼の内面の姿勢となんの関係もないものであろうとかまわない。その偶然の事情を克明に書き写して、むしろそういう外的なものこそ抽斎の人生の中身なのだと鴎外はいわんばかりである。  事実、この作品のなかで小説的な意味で個性的なのは、抽斎の周辺にいるひとびとである。彼の四度目の妻である五百の姿はめざましく描かれているし、不行跡な次男の優善や家督を継いだ三男の成善の性格もはるかに印象的に浮き彫りされている。大きな社会変動を予感した不安な時代のなかで、それに良かれ悪しかれ明確な反応を見せるのは、むしろこれらの息子たちである。ある意味で優善は典型的に時代の終末を生きた人間であり、同時に抽斎の鬱屈した内面をネガティヴに拡大した存在だといえるかもしれない。ひそかに小説を書いたり、芝居を好んで七代目団十郎をひいきにすることもあった抽斎だが、その息子は松川飛蝶と名のって自分で寄席の高座に登ったりするのである。一方、明治元年に十一歳を迎えた成善は鴎外の同時代人であり、同じように傾きかけた一家を背負って、時代の混乱した始まりを生きた人間であった。のちに教師となりジャーナリストとなり、晩年を考証学と文献学に捧《ささ》げようとするこの息子も、いうまでもなく抽斎のもうひとつの側面を延長した存在であった。いわば抽斎の人生を動かしているものはこれらさまざまの脇役たちであり、逆にいえば、彼の人生は明瞭な境界なしに後に続く脇役の人生に流れこんでいるといえる。こういう人生の姿を描こうとすればその方法が「系図学的《ジエネアロジツク》」になるのは当然なのであって、作者の自覚する新しい方法は、明らかに彼の人間把握の本質的な変化を暗示しているのである。  ここで鴎外が目を向けているのは、たんに群像をなした個人の姿ではなく、それ自体ひとつの生命を持って生きる家そのものの姿であった。家は家長の理想や努力にもかかわらず衰えることがあり、逆に彼の絶望にもかかわらず自然の復原力によって蘇生《そせい》することもある。いわば家の生態学的な盛衰を見つめるという意味で、この観察は「自然科学」的であるが、しかし、それはゾラのようになんらかの法則を求めようとする冷たい目によって行われているのではない。みずからの家庭がしだいに崩れて行くという寒むざむした実感のなかで、熱心にもうひとつの家庭を見つめるこのまなざしが一種の救いを求めていたことはまちがいないのである。  それにしても、抽斎を「父」とした澀江家も、家庭としてけっして幸福な家であったとはいえない。息子の不行跡を始めとしていくつかの家庭問題があり、抽斎が没したとき家督を相続した成善は僅かに二歳に過ぎなかった。それだけ明治の社会変動の波もひときわ強く受けたわけで、鴎外がこの家について調べ始めた当時は、数人の血縁がたがいに音信もとだえているような状態であった。その意味でも鴎外は抽斎に運命の相似性を見出したのであろうが、いったい彼はどのような感慨をこめて澀江家の歴史をつぶさに眺めたことであろう。浅薄な同情や自虐的な興味からではないことは明らかだし、先例のなかからなんらかの教訓をひき出そうという関心がなかったことも、疑いの余地はない。どうやら彼は、ただその相似性に魅せられて相い似たものを眺めていたにすぎないらしいのだが、じつをいえばそれによって救われるのが歴史というものの不思議な機能かもしれないのである。人間はひとつの時代のなかで完全に孤独になったときに、最後の救いを歴史のなかのアナロジーを見ることに求めるものであるらしい。同じような状況のなかで、同じようなかたちを持った孤独を発見することによって、少なくともひとは自分の名状しがたい感情にひとつのかたちをあたえることができるからである。それが結局、歴史中の人物とともにただ涙を流すことに終るとしても、かたちのある悲歎《ひたん》はなまの感情の無秩序よりは人間にとって耐えやすい。だからこそ、人類はいく種類かの悲しみにはそれを表現する儀式というかたちを用意して来たのだが、歴史はそれが覆いつくせない千差万別の悲しみにそれぞれ適切な先例を残しているのである。 「なかじきり」の後半に洩らされた一脈の安堵の色は、おそらくこの歴史のアナロジーによって慰められ、ようやく人生の処方箋を求めてあせらずにすむことになった心境の現われであったにちがいない。いうまでもなく、鴎外がこれによって得たものはたんに耐えるための心の支えにすぎず、現実世界にたいする彼の帰属感がいくらかでも具体的に恢復《かいふく》したわけではなかった。あたかも彼の目に映った澀江抽斎がそうであったように、鴎外自身も人生の不安を抱えたままで日常を耐えぬくすべを身につけたにすぎなかった。  死にのぞんで彼が友人・賀古鶴所に托した有名な遺言書は、そう思って読むと、逆説的な意味できわめて示唆深い一句を含んでいるように思われる。遺言全篇の主旨はいっさいの国家的栄典を辞退することにあったわけだが、そのなかでとくに目を惹くのが、あの「余ハ石見人《いはみのひと》森林太郎トシテ死セント欲ス」という一句である。さまざまな国家的な身許証明にたいして「石見人」という一語が対置されているのだが、考えて見れば、「石見人」は鴎外にとって生涯もっとも帰属感の薄い範疇《はんちゆう》だったはずなのである。先にも述べた通り、彼が故郷の風景や風俗を描いた文章はきわめて少ないし、「石見人」という人間類型を浮き彫りにした作品は皆無に近い。日本人であること、文士であること、あるいは国家の官僚であることに較べても、鴎外にとって「石見人」であることがどれだけ実感を伴った身許証明であったかは疑わしい。あるいは死を目前にした気力の衰えのなかで、この一語はほとんど反射的につけ加えられた常套句《じようとうく》にすぎないものであったかもしれない。だがそれにしてもその無意識の底には、この一語によって、ほかのいっさいの形容詞を排除しようとする反語的な感情が働いていたことが想像されるのである。  鴎外はここで軍医総監、帝室博物館長として死ぬことを拒絶して、その代りに「石見人」として死ぬことをポジティヴに主張していたわけではなかった。むしろこの実感のない言葉を対置することによって、彼は文士としても、歴史家としても、思想家としても、さらにまた森家の家長・林太郎としても死ぬ実感のないことを表明していたように思われるのである。  想像すれば鬼気迫る心境だが、かんじんなことはいうまでもなく、鴎外がこういう凄絶《せいぜつ》な孤独のなかに死んで行ったことではない。程度の差こそあれ、これは近代の大多数の日本人が宿命的に分け持っている孤独なのであって、彼がその誠実な代弁者として、死ぬ日までこの孤独のなかを生きぬいて見せたことが記憶に値いするのである。  最晩年の三年余を、彼は文筆の傍ら図書頭《ずしよのかみ》兼帝室博物館長として勤務するのであるが、その異様なまでの精励ぶりは「なかじきり」の心境とは鮮かな対照を見せている。とくに死期が迫るのを知ると医者の診療をかたくなに拒絶して、文字通り杖《つえ》に身を托して職場に通ったいきさつは語り草になっている。同時代の崇拝者たちはこれを鴎外の公務にたいする献身として讚歎《さんたん》し、後世の批判者たちはそれを裏返して彼の官僚的な事大主義を非難した。だが、「妄想」や「なかじきり」の心境を知る者には、そのいずれにせよ、彼が博物館長という地位に命を賭《か》けるほどの客観的価値を見出していたとは信じ難いのである。もちろん、博物館の改革に彼が一定の意義を認めていたことは明らかだが、それにしてもあの「永遠なる不平家」が、この仕事にかぎって死を決意するだけの確実な使命観を持ち得たとは信じられない。どう見ても彼の精励ぶりにはそれを支える使命観を超えているところがあって、そこには単純な義務感や事大主義よりも、むしろ彼のいう「意地」や「あそび」の実現という印象が強いのである。  ある意味で彼は死をまえにしたこの数箇月間に、それまでの生涯に摸索した生き方を自分の身のうえに純粋培養しようとしていたといえるかもしれない。それは彼の言葉によれば「なんでもないことが楽しいように」生きることであり、「日の要求を義務として、それを果して行く」生き方の徹底であった。かつて余生の時間がまだたっぷりとあったとき、彼はこういう生き方を理想とはしても、現実にはそれに満足し得ない自分を歎いていた。永遠に夢のなかに「青い鳥」を求めて、それが見つからないことにいらだっている自分を歎いていた。そして「青い鳥」なしの人生に耐えるために、彼は「あそび」や「かのやうに」の哲学を摸索して、しかしそれもまた自分を助ける有効な処方箋にはなり得ないことを感じていた。しかし、振り返って見て感銘深いことは、結局、鴎外はこの「青い鳥」なしに、生涯の終りの日々を素手のまま生きぬいたのであった。  死を目前にした彼の心のなかに、にわかに宗教的な回心が訪れたと考える必要はないであろう。かつて「日の要求」に満足し得ないと歎いていたときにも、彼はやはり「日の要求」に応えて、要求を上廻る力をふるって生きていた。考えて見れば彼はただ、そういう人生には尋常の生き方以上の気力が要ることを歎息していたにすぎなかった。統一的な世界観にせよ現実への帰属感にせよ、「青い鳥」に励まされることなく生きることはたしかに恐るべき気力を必要とする。だが、歎きながらもいらだちながらも、鴎外は結局、人生にあたえられたあれこれの意義にすがることなく、つねにあたえられた意義よりも少しずつ大きな気力をふるって生き通したといえる。 「あそび」といい「かのやうに」といい、彼が摸索した「哲学」は、要するにそうした力業につけられたさまざまな別名にすぎなかった。生きることの苦しさから、鴎外はあたかも医者が病名をつけるように自分の人生に名前をつけた。だが所詮《しよせん》、それらは気力をふるって生きるということのいい換えにすぎないのであって、いささかもその苦痛を救う技術や処方箋として役立つはずのものではなかった。かつて鴎外自身がそれらを処方箋と考えたときに満足できなかったように、彼の後に続いて生きるひとびとも、それらの「哲学」を便利な処方箋として借りることはできない。学ぶべきものは彼の作品の結論ではなく、あくまでもその全体なのであり、いいかえれば生きるために彼が示した力業の全体なのである。  世界のパースペクティヴがあちこちで綻《ほころ》び始め、現実が誰の目にもしだいに疎遠に見え始めたこの時代に、鴎外に課せられた問題はますます多くのひとびとの肩にのしかかっている。だが、それを解くためにひとびとは彼がたどり着いたところから始めるわけには行かず、ひとりひとりの生活を背負って彼が始めたところから歩きなおさなければならないであろう。   あとがき  幼少時代の読書体験というものは、誰にとっても特別の意味をおびて思い出されるものだろうが、私と森鴎外との出遭いは客観的にもかなり風変りな状況のもとで起った。  昭和二十一年の冬、戦後二度目の冬を満洲で迎えて、私たちの家族は息をひそめたような気分に包まれて家のなかに籠《こも》っていた。中国政府の要請で戦後も大学の再整備のために引揚をのばしていた父親が、この年の春から病床につき、暮も近づくとすでに家族のあいだには容態がただならないことがわかっていたからである。戸外は零下二十度の寒風が吹き荒れて、窓は一面に厚い氷紋で覆われ、ただひとつストーヴを置いた六畳の間で父は昼間から静かな寝息をたてていた。その枕もとに坐りこんで、ときどきストーヴの燃えぐあいを確かめながら、中学一年生の私にできることは手あたりしだいに本を読むことしかなかった。そして、その私の手もとにあった本といえば、数十冊の文庫本を除くと、坪内逍遙《しようよう》訳のシェイクスピア全集と不揃《ふぞろ》いの森鴎外全集のほかにはなかったのである。  敗戦一年目の恐ろしい混乱の後で、どこの家庭にももう蔵書といえるようなものは底を払ってしまった時代であった。おまけに自然科学者で、文学にはいささか潔癖すぎる趣味を持っていた父の書棚には、もともと小説の類いの貯えは少なかった。そんななかにどうしてシェイクスピア全集が残されていたのかはわからないが、鴎外全集が大切にされていた背景には、あるいは父の祖父にたいする思いやりが働いていたかもしれなかった。土佐支藩の藩医の家に生まれ、鴎外に十余年遅れて東大医学部を卒業した祖父は、この大先輩にひそかな憧《あこが》れを覚えていた形跡があった。若いころには文筆に志したこともある祖父であったが、小藩の藩医の家は御多分に洩れず傾きかけており、文字通り苦学生として臨床を学ぶ生活には余技のための時間というものはなかった。晩年、熊本医科大学の学長を退いた祖父は昔の夢を思い出し、徳富蘇峰《そほう》のすすめもあって、「横井小楠《しようなん》伝」という畑違いの著作に筆を染めた。それが一種の史伝であったということも、家族のあいだでは、祖父の鴎外にたいする「技癢《ぎよう》」の思いをしのばせるものとして了解されていた。  重苦しい気分のなかで読んだ鴎外は、私に生まれて初めて文学の救いというものを教えてくれた。それは私を鼓舞したり陶酔させたりするものではなくて、むしろささくれがちの感情に冷たい輪郭をあたえて沈静させてくれるものであった。現実の父の死は日々の手違いや小さな諍《いさか》いの集積であり、いわば崩れ落ちる砂のような心の疲れに私はどう踏みこたえてよいのかわからなかった。だが、作中に現われる死はそういう貧しさを持たない骨太の事件として描かれており、それを見ることによって私は自分の境遇をもひとつの明確な不幸として耐えることができた。「舞姫」や「阿部一族」と並んで、このとき読んだ飜訳《ほんやく》小説が私にはまた最初の外国文学への案内でもあった。死の心理をえぐるように伝えたシュニツラーの「みれん」などは、とりわけ父の枕頭に侍している少年の心に忘れられない印象を残した。  やがて父を失って日本へ帰った私は、昭和二十年代半ばというなにか浮足立ったような時代に青春を迎えることになった。世間では戦後社会の民主化が謳歌《おうか》されるなかで、私はとりわけ自由な校風を誇る京都の高校にはいったのだが、奇妙にこの青春前期は私の記憶のなかで少しも明るいイメージはおびていない。弟妹二人とともに母の手にかかる生活であったから、もちろん経済状態は悲惨というに近かったが、私の心を暗くしていたものは生活難そのものではなかった。生涯のこの時期にたぶん多くの人が経験するように、私もまた、自分の内部に頭を擡《もた》げるえたいの知れないものに手を焼いていたのである。それは生理的な意味ではなく、むしろ精神的な意味で、あたかも雑草のようにはびこって来る自分自身の生命力であった。意味もなく感受性が鋭敏になり、生煮えの観念がつぎつぎに頭のなかを駆け廻っては私を興奮させた。それまで自分に習慣づけて来た生活のリズムもとかく気まぐれに破れがちになり、そしてときたまわれに返ると、私にはそういう自分の変化がひどくなまぐさいものに見えて耐えがたかった。  そういう時代に、ふと思い出したように読んだ「青年」の印象も、私と鴎外との触れあいのなかで忘れられない記念のひとつである。私は、主人公の純一が自分自身と少しも仲違《なかたが》いをしていないことに驚き、青春の混沌《こんとん》のなかで彼の感情が自己嫌悪にささくれていないことを、羨《うらやま》しく思った。だが、その羨しさがけっして嫉妬《しつと》や反感に変らなかったのは、純一が他方で、その安定した表情に自己満足の色を浮かべていなかったからである。むしろ、あの淡彩の明るさにもかかわらず、「青年」という作品が底に秘めている不思議な悲しさの影が、私には魅力的であった。鴎外の端整さや平衡感覚について賛否両論の世評を聞きながら、私はそういう古典主義的な鴎外像からひそかにはみ出している表情の中身に興味を持った。  だが、この興味がいよいよはっきりしたかたちをとったのは、それから十数年もたって、冬のニュー・イングランドの大学図書館で鴎外と三度目に出遭ったときであった。留学生活という人工的な環境のなかで、私は、あらためて鼻突きあわすことになった自分というものに新しい好奇心を抱いていた。自分の置かれている位置を確かめるような気持で、私は明治時代の何人かの外国留学生の生涯の足どりをたどって見ようとした。ゴシック造りのイエールの薄暗い閲覧室の片隅で、私は荷風を読み漱石を読み鴎外を読み、やがて「青年」をも読み返すことになった。そしてこのときめぐりあった純一の表情は、かつてのどの機会よりも例の不安の影をはっきりと浮かべていたのである。読み返せば読み返すほど、私には鴎外が超然たる古典主義者などではなくて、内面のかたちにならないものを無防備にさらしている作家に見えてしかたがなかった。しかもそれは、私自身が初めて身を置いた西洋社会のなかで、日ごとに自分について感じる不安とあまりにも似ているように見えたのである。  昔、青春前期に感じたあのなまぐさいものは、私が成熟だと思いこんでいた時間のなかでとうに静かに飼いならされていた。だが、その嵐がおさまったあとに自分の内部に残ったものは、意外にもなにか空洞に似た頼りなさのほかにはなかったのである。ひとりの人間が「自分」であるということはもう少し手応えのある事件であったはずだのに、私にはそれを日常のなかの具体的な実感として感じることができなかった。世界観の相対性ということは時代の流行語のようになっていたが、私は生活上の趣味から人間の好悪にいたるまで、しだいに自分の感覚そのものの相対性を感じることが多くなっていた。初めてのアメリカでの生活は思いのほか居心地のよいものであったが、それにつけても私は自分の生活感情のそういう程のよさが不安であった。そして、この足もとのうそ寒さが身に沁《し》みて強まるにつれて、私の目には旧知の鴎外があたかも同じ心細さをわけあっていたように見えてしかたがないのであった。  しかし、鴎外について何かを書こうと決心するにはその後さらに三年の月日を要し、実際に筆をとりあげるまでにはまたそれ以上の時間が流れた。河出書房の藤田三男氏にこの本を書くことを約束したとき、私たちは伊豆半島を走る汽車のなかに向かい合って、小春日和《びより》のうららかな窓の外を眺めていた。その明るい柔らかな風景にもかかわらず、私の気持はこういう場合に珍しく重かったことを昨日のように覚えている。この「テエベス百門の大都」に譬《たと》えられる作家にことよせて、結局、私は臆面もなく自分自身の課題について語ることになることが予感されていたからである。  ためらいながら、鴎外を肩に負って歩いたこの数年は、一日一日その重さが骨身に喰い入る生活であった。ふり返って楽しいような思い出はほとんどないが、私はその間、この重みを肩に感じることで自分の生きる腰構えを決めることができたように感じている。  そのなかでただひとつ甘い記憶になっているのは、昨年の夏、「うたかたの記」の舞台ともなったシュタルンベルガー湖に試みた小旅行であった。夏とはいえ肌寒い小雨のなかを、私は友人の案内で、ミュンヘンからは対岸にあたるレオニの舟着き場まで舟で渡った。雨のせいかレオニは思いのほかさびれていて、鴎外が投宿したGasthof Leoniも改装中の廃墟《はいきよ》のような姿をさらしていた。彼はこの宿で明治十九年九月初旬の数日を過し、「日本家屋論」の清書をしたり、ナウマンへの反論の文章を練ったりしたはずなのである。「望断鵠山城外雲。詞人何事涙紛々。艙窓多少綺羅客。不憶波間葬故君」というのは、このとき彼が湖上に舟を浮かべて作った漢詩である。だが、私たち一行の周りには「綺羅客」もなく、荒涼とした湖岸には、この近くで水死をとげた「故君」ルドヴィヒ二世の白い十字架ばかりが鮮やかであった。  できあがって見ればささやかな小冊であるが、この仕事が多くの先駆的業績に依存しており、また先輩友人の具体的な好意の賜物としてできあがったことはいうまでもない。とくに鴎外、漱石、荷風の作品については、それぞれ数次にわたる岩波書店版の全集をテキストとした。明記してそれらの編集と校訂にあたられた先学の功績に敬意を表したい。なお鴎外作品のルビについては、読みやすさを旨として、適宜整理を行ったことを付記しておく。さらに直接間接の御教示を頂いた先達のお名前は枚挙のいとまがないが、とりわけ全巻を通じて御忠告を頂いた早稲田大学文学部助教授竹盛天雄氏には厚く御礼を申しあげたい。さらに長いあいだの心の重荷をともに分け持ってくれた藤田三男氏には、感謝というより、むしろ共同作業完成の安堵《あんど》をわかちたいと思う。   昭和四十七年 秋      京都宇治にて 著   者     文庫版のためのあとがき 『鴎外 闘う家長』は、私にとって最初の長篇文藝評論となった作品である。これを書くことによって、私は劇作や大学研究室での仕事とともに、文藝評論を自分の本格的な仕事のひとつに数えることになった。戯曲『世阿彌』が、私の創作活動にひとつの転機を印したように、これは私の批評活動にとって記念となる作品だといえる。そのふたつがともに時間の波をくぐり抜け、そろって「新潮文庫」に収められることになったのは、なにかの因縁というべきであろう。  これを書いたとき、私の内部には鴎外という対象にたいする多年の想念とともに、ひとつの方法的な試みをめざす秘められた野心があった。端的にいえば、それは、作家を外側から見るか内側から見るかという、批評史上の問題にたいする私なりの模索であり、作家の生活と作品とを結びつけるための、新しい視点を求めようという試みであった。  この点について詳しく語るには、もちろん稿を改めるべきであろうが、要するに私は、作品を生活の反映と見ることにも、逆に生活と無縁な独立小宇宙と見ることにも、あきたらなかった。いいかえれば、作家の実生活と作品を二元的に対立させて、そのあいだに関係があるかないかを考える、批評史上の常識そのものに不満であった。たぶんこの常識の背後には、生活は自然であるが作品は人工物であり、藝術は作るものだが人生は作らないものだ、という先入見が隠れていたにちがいない。しかし、少し考えればこれにはなんの根拠もあるわけではなく、むしろ、実生活こそひとが他人のまえで演じる作りものだ、と見ることもできるし、反対に藝術作品こそ、ひとが人工を尽して人工で作れないものを産み出す営みだ、と考えることもできる。生活が先にあり作品があとから産まれる、という考えにも根拠はないのであって、作家なら、逆に作品が生活の姿勢を左右することも珍しくないにちがいない。こんな先入見にしたがうよりは、あえて作家の生活と作品をともに彼の制作物と見なし、同じひとつの姿勢が両者を同時に産み出すと考えた方が、事態を正確に説明するのではないだろうか。  かねてそう考えていた眼で鴎外を見ると、この人はまさに生活を作品に写す作家でもなく、生活とは無縁な純粋美の世界を作る作家でもなかった。彼は、あたかも作品のように自分の生活を作る人であり、作品のなかで確かめられた姿勢で、実人生そのものを生きる人であった。彼にとって、父であり軍医総監であることは、厳密に一篇の小説作品と同じくらい、「実」でもあれば「虚」でもある営みであるように見えた。私の着想にとって、鴎外はまことに典型的な実例を提供してくれたわけで、それを書くことによって、私は自分の方法への自覚を深めて行ったといえる。その後、私は第二の長篇文藝評論『不機嫌の時代』を書き、さらに『歴史の亀裂』という副題のもとに、連載評論を雑誌「新潮」に発表している。鴎外論を起点にすると、主題のうえでも、明治、大正、そして現代に及ぶ連続性を追って来たことになるが、私としては方法のうえでも、この三作に一貫したものを探りつづけて来たつもりである。   昭和五十五年六月      六甲南麓《なんろく》にて 著   者   この作品は昭和五十五年七月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    鴎外 闘う家長 発行  2002年8月2日 著者  山崎 正和 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861211-6 C0893 (C)Masakazu Yamazaki 1972, Coded in Japan